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内田樹氏が「天皇主義者」となった理由を聞いて、天皇制を許してはならないという確信がさらに強くなった。

自ら「天皇主義者」であると宣言した思想家・内田樹氏が、キリスト教系の月刊誌『福音と世界』で、そのように宣言した意図についてインタビューを受けている。(以下、内田氏のブログに転載されたもの[1]から引用する。)

「天皇主義者」と自称してはいても、氏はもちろん戦前のような天皇絶対の国家体制を支持しているわけではない。そうではなくて、氏は、所詮天皇制は政治的フィクションであることを認めた上で、戦後日本の象徴天皇制は「統治システム」として非常によく機能しており、これを現代日本社会を「より暮らしやすいものにしていく」ためのリソースとして活用していくべきだと提言しているのだ。

「焦点が二つある」統治システムが「土建国家」ニッポンを作った

まず、内田氏は、象徴天皇制を持つ現代日本の国家体制を、「天皇」と「世俗権力者」という「二つの焦点」を持った体制だと捉え、それがこの国の「統治システム」として望ましい形なのだと言う。

1.フィクションとしての国家と天皇制

――「天皇主義者」宣言における内田さんの要点のひとつは、かつては両立し得ないと思っていた立憲民主制と天皇制が両立すると考えるに至った、という点にあると思います。すなわち「祭祀にかかわる天皇」と「軍事にかかわる世俗権力者」という「二つの焦点」をもった楕円形の統治システムが望ましいとして、天皇制を肯定・評価した点にあると思うのですが。

内田 最初に確認しておきたいのは「国民国家も天皇制も政治的なフィクションだ」ということです。国家とか民族とか人種とか、そういうものはすべて擬制であり幻想であると僕は考えています。それが前提です。でも、それらの幻想は厳然と存在しており、現実に活発に機能している。そうである以上、それらの政治的幻想の働きを勘定に入れて現実を分析し、できること、なすべきことについて実践的に考えるほかない。僕はそういうプラグマティックな立場です。

あるべき国の形とか、あるべき天皇制といった理念が事前にあって、それに向けて現実を解釈したり、現実を修正するということを僕はしません。逆です。所与の現実から出発する。どのような歴史的経緯でこのような現実が出来したのか、この現実のどこが修正可能・加工可能なのか、どこは手を着けられないのか、どこをどう補正すればこの社会が少しでも暮らしやすいものになるのか、そういうことを考える。

(略)

――なるほど。ただそういうフィクションが本当にうまくいくのかという懸念は出てきます。たとえばキリスト教では、霊的な共同体としての教会と世俗の統治機構である国家との関係は常に問題になってきました。(略)しかし内田さんのように象徴天皇の役割を死者の「鎮魂」と「慰藉」に見出し、天皇を「霊的な存在」であり、国や国民はそのもとに「統合」される「霊的な共同体」であると考えると、国家と「天皇教」のようなものがぴったり重なってしまわないでしょうか。

内田 (略) 皇室の方たちは選挙権や被選挙権を持たず、言論の自由や移動の自由、職業選択の自由など基本的人権を制約された例外的な存在です。でも、おそらく陛下はそのような「犠牲者」がいてはじめて共同体が存立するというふうに考えておられる。一人が自己利益を断念して、犠牲になることによって共同体が成立するという発想はすぐれてキリスト教的な発想です。今の陛下が戦後七十数年考えて作り上げた「祈る人」という象徴天皇像にはいくぶんかキリスト教的なアイディアが入っていると思います。だから、日本のキリスト教徒は陛下に対してもっと親近感を感じてもいいんじゃないかと思いますけど。

(略)

――そうやって日本の統治システムを考えていく際に、天皇制なしの共和国というあり方は選択肢にならないでしょうか。

内田 天皇制を排除した統治システムを構想することは現実的には不可能だと思います。改憲して、天皇に関する条項をすべて削除しようと提案をする政党が出て来たとして、その提案が国民の過半数の賛成を得ることはないと僕は思います。

(略)

僕自身は欧米における共和制の登場には歴史的必然性があると思っています。でも、日本には天皇制がある以上、日本の場合は、それを所与の条件として勘定に入れなければならない。

となると、どうすれば共和政と天皇制という二つの異なる統治原理が併存できるのかを考える、二つの異なる統治原理が併存していることから引き出せるメリットを最大化するためにはどうすればいいのかを考える。その方が時間の使い方としては合理的だと思います。

僕は異なる統治原理が併存しているシステムは、焦点が二つある楕円のようなもので、単一原理で統合された同心円的な統治形態よりも自由度が高く、共同体が生き延びる上では有効ではないかと思っています。

内田氏はこう言うが、戦後日本がほぼ一貫して「土建国家」と呼ばれるような露骨な利益誘導型政治に支配されてきたのは、この国が、世俗権力者と天皇という「焦点が二つある」政治体制をとってきたからだ。

これは以前から辛淑玉さんが指摘している[2]ことなのだが、日本では、政治指導者に求められる「父親」のイメージが、天皇と世俗の政治家の二つに分裂してしまっている。

清く正しく慈愛あふれる父親役は「国民統合の象徴」たる天皇が一手に引き受ける。そしてその分だけ、現実に権力を握る政治家たちは建前や綺麗事など気にしなくてもよくなっていく。要するに、天皇がいるおかげで、日本の政治家には清廉さや公正さは要求されない。汚いことでも何でもして、とにかく金を取ってくる「オヤジ」であればいいのだ。

もちろん、天皇がいくら気高く公正に振る舞っても、「国政に関する権能を有しない(憲法第4条)」以上、それが現実の政策に反映されることはない。むしろ、天皇が「立派」であればあるほど、現実政治はその逆を行くことが容易になる。この点、自分の名のもとに始めた戦争で「臣民」を三百万人も殺した先代と違って、脛に傷がなく、しかもリベラルで開明的と見られている現天皇がいる今は、先代の時代以上に倫理もへったくれもない政治屋連中がはびこる条件が整っていると言えるだろう。もちろんその代表格が安倍や麻生である。

天皇による「鎮魂」と「慰藉」は政治責任逃れのトリック

ついで内田氏は、戦争による死者の「鎮魂」と「慰藉」こそが、象徴天皇が果たすべき役割なのだと言う。

2.象徴としての天皇はどうあるべきか

――次に内田さんが象徴天皇の役割を死者の「鎮魂」と「慰藉」に見ていることについて、もう少し伺いたいと思います。昭和天皇の戦争責任を考えれば、同じ「天皇」である平成天皇に戦争で犠牲となった人々の「鎮魂」や「慰藉」などしてもらいたくない、と感じる人もいるのではないかと思いますが、そのあたりはいかがでしょうか。

内田 そうですね、そういう感じ方をする人も当然いると思います。どんなシステムも政策も国民全員が賛同するということはあり得ませんから。一〇〇パーセントの国民的合意は求めるべきではありません。すべての統治システムはどこかに欠点を抱えている。だから、そこそこ機能すれば合格点だと思っています。

天皇制についても、立憲デモクラシーについても「そういうのはいやだ」という考え方をする人たちがいる。いて当然です。全国民が同じ政治的意識を持ち、同じ統治形態を支持するようなことはもとより期待できないし、期待すべきでもない。そもそも、全国民が賛同しなければ機能しないような統治システムなら、それは制度設計そのものが間違っているということです。大方の人が「同じくらいに不満足」であるシステムが実現できたら、それで上出来だと思います。

(略)

――天皇の「鎮魂」に関しては、もうひとつ懸念があります。「鎮魂」をするということは一人一人の死の意味付けをしていくことだと思いますが、それは国家の一部としての天皇がすべきことではないと思うんです。鎮魂というより、戦争で命を奪われた人々に対する謝罪をすべきなのではないかと。

内田 陛下は戦争で死んだすべての人の鎮魂をされていると思います。2年前にフィリピン訪問の時の「おことば」では、「先の戦争において,フィリピン人,米国人,日本人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては,膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました」とまずフィリピンの犠牲者たちへの弔意を示された。陛下は日本国民だけでなく、戦争によって傷ついたすべての人の魂の平安を祈るということを意識的にされていると思います。

だが、ここにはいくつもの論理のすり替えがある。

まず、「天皇に戦争で犠牲となった人々の「鎮魂」や「慰藉」などしてもらいたくない、と感じる人もいるのではないか」(もちろんそう感じる人はたくさんいる)という個別具体的な問いに対して、内田氏は「どんなシステムも政策も国民全員が賛同するということはあり得ません」と、一般論に逃げている。そして、「天皇制についても、立憲デモクラシーについても「そういうのはいやだ」という考え方をする人たちがいる」「全国民が同じ政治的意識を持ち、同じ統治形態を支持するようなことはもとより期待できないし、期待すべきでもない」と、まるで体制選択の問題を議論しているかのように話をすり替えている。要するに、氏はこの問いには答えられないのだ。

また内田氏は、天皇は「鎮魂というより、戦争で命を奪われた人々に対する謝罪をすべきなのではないか」という問いに、「陛下は戦争で死んだすべての人の鎮魂をされていると思います」と答えているのだが、言うまでもなく、「鎮魂ではなく謝罪すべきだ」という問いかけに「いや、鎮魂していますよ」では答えになっていない。ここで内田氏が例に出しているフィリピン訪問時の天皇の「おことば」も謝罪ではない。「先の戦争において,フィリピン人,米国人,日本人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては,膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました」というこの発言では、誰が、なぜ「膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲に」なるような悲惨事を引き起こしたのか、まったく触れられていない。罪の存在自体を認めていない発言は謝罪ではありえない。ここで天皇はただ、まるで他人事のように「戦争によって傷ついたすべての人の魂の平安を祈」ってみせているだけである。

天皇による死者の「鎮魂」や「慰藉」は、その死者に対して負うべき国家責任をうやむやにするトリックでしかない。

天皇は徹底的に「記号化」されるべき

さらに内田氏は、天皇制の空洞化、記号化こそが危険であり、暴走を防ぐためには「天皇が自分の個人的な所感を発言する機会は絶対に担保されるべきだ」と主張する。

だから、今の安倍政権は本音では、陛下が東アジアのかつての戦地を訪れて、現地の被害者にお詫びをするようなことはしてもらいたくないんじゃないですか。彼らがしようとしているのは実質的には象徴天皇制の空洞化です。天皇を単なる記号にしたいと思っている。日本会議や神道政治連盟がめざしているのは天皇制の空洞化です。「恐れ多くも畏きあたりにおかれては」という文句を恫喝の道具として使って、反対者を黙らせようとしている。

――そこに危機感を覚えておられるわけですね。ただ、原則的に象徴天皇は単なる記号であるべきという考え方もありますね。

内田 いや、もし天皇が単なる記号であったら、むしろ政治家たちはあらゆる手立てを駆使して「天皇という記号」を私的な目的達成のために利用しようとするはずです。それは維新のときに天皇を「玉」と呼んだ官軍や、二・二六事件の青年将校たちの天皇批判や、終戦時の宮城事件の「國體護持派」の思想からも知られます。あのような「暴走」事例を知っている以上、天皇が自分の個人的な所感を発言する機会は絶対に担保されるべきだと僕は思います。天皇が生身の人間であり、傷つく心と身体を持っているという事実がむしろ政治的暴走を抑制できる。僕はそう思います。

――しかしそうすると、天皇制がどう機能するかがその時々の天皇の人間性に左右されてしまいませんか。

内田 そうです。でも、天皇の属人的な要素が強く働く方が、天皇が内閣が振り付けたこと以外何もしない、何もできない記号的な存在であるより、政治的混乱を招くリスクが少ないと僕は考えています。
繰り返し言うように、天皇制は一つのリアルな政治的装置です。うまくゆかない点が出てきたら、どうすればいいか国民的に議論して、そのつど適切な対応を取ればいい。完全なものを作って、後は手を触れないということではなくて、そのつどの現実的問題に合わせて調整してゆけばいい。どんな政治的制度ももとは人間が考え出したものです。それをどう工夫して、良い結果を出すか、それだけが重要なのです。(略)どれほど合理的なアイディアでも「受肉」しなければ空論に終わる。逆に、どれほど非合理的、空想的な理念でも、人間がそこに生気を吹き込めば働く。

だが、天皇制が最悪の形で暴走したあの時代、天皇裕仁は単なる記号だったのか? むしろ能動的に政治状況に関わり、何度となく「思し召し」を表明し、しばしば事態の推移に決定的な影響を与えていたではないか。裕仁という存在自体が内田氏の主張への巨大な反証と言えるだろう。

現実は逆なのだ。天皇が内閣の振り付けで踊らされ、暴走の道具とされるのを防ぐには、憲法第4条の規定を厳密に守り、天皇には憲法が規定する国事行為以外一切何もさせなければよい。天皇の徹底的な記号化こそが暴発を防ぐ(現憲法を前提とした制約下での)最良の安全弁なのだ。

逆立ちした議論になるのは統治者目線に立っているから

ところで、私がこのインタビューを読んで一番呆れてしまったのは次の一節だ。

――では、内田さん自身は天皇に対する敬虔な気持ちや忠誠心のようなものは実際にはないということですか?

内田 個人的には崇敬の気持はありますよ。陛下の近くにいた人たちにうかがうと、みなさん「陛下はよい方で・・・」としみじみ言われますから。そういう人たちが口にする「へいか」という音はとても柔らかいんです。政治家たちが「陛下」という言葉を使う時はあきらかに天皇の権威を利用して人を威圧しようする意図が見透かせるんですけど。

前に皇居のお掃除に行った青年から聞いたんですけれど、清掃奉仕をしていると両陛下がいらして「ご苦労さまです」と深々と頭を下げるそうなんです。その若者はその時「首相のために死ぬ気にはなれないけれど、陛下のためなら死ねる」と思ったそうです。若い人でもそういう感慨を抱くことがある。でも、それは必ずしも政権主導のイデオロギー教育のせいじゃないと思います。もっと素朴で、自然な感情だろうと思います。そういう感情を「政治的リアリティー」として勘定に入れる必要があるということを僕は申し上げているのです。

「陛下のためなら死んでもいい」と感じた彼にとって、天皇陛下という存在は、具体的に目に見える、手に触れられるたぶん唯一の公共的なものなんです。国家にも政府にも、さしあたりリアルな公共性を感じられない。でも、彼にとって、天皇は生身の、目に見える公共性だったわけです。
公共的なものとつながりを持ちたい、自分の個人の努力と国運をリンクさせたいという願いを抱いている今も若者はたくさんいると思います。そういう人たちがネトウヨに走ったりする。でも、公共的なものは他にもあると僕は言いたいわけです。

冗談ではない。一人の青年を自発的に「清掃奉仕」などに向かわせ、そこで「ご苦労さまです」と頭を下げられたくらいで「陛下のためなら死ねる」などと思わせてしまう。これこそが天皇制の最も恐ろしい効果ではないか。先の戦争のときだって、東條英機や小磯国昭のために死ねるなどという青年がどれほどいたか。「天皇陛下の御為」だからこそ彼らは特攻機にも搭乗したのだ。

そんな天皇を、内田氏は「目に見える公共性」だと言ってしまうのだ。

どうしてこれほど転倒した議論になってしまうのか。それは多分、天皇制を「統治システム」として評価するという態度に現れているように、氏が結局のところ、この国を統治する側の立ち位置からものを見ているからだろう。

「天皇主義者」を自称する内田氏のインタビューを読んで、私には、天皇制を決して許してはならないという確信がますます強くなった。

[1] 『「天皇主義者」宣言について聞く――統治のための擬制と犠牲』 内田樹の研究室 2018/7/22
[2] 辛淑玉 『グー・チョキ・パーのてんのう制』 週刊金曜日 2010/4/30,5/7合併号

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