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上海戦で第三師団は全滅に近い損害を被った

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前回記事に出てきた「ナッシー翁」さんは歩兵第68連隊所属だったという。

この歩兵第68連隊を含む第三師団は1937年8月23日、上海戦(第二次上海事変)で呉淞ウースンに最初に敵前上陸し、川沙鎮付近に上陸した第十一師団とともに、待ち構えていた中国(国民党)正規軍との激烈な戦闘に突入した。

日本軍は最終的には上海戦を制して首都南京を目指す追撃戦に移ることになるのだが、上海戦の初期には兵力不足で不利な戦いを強いられた。このとき、第三師団がどれほど悲惨な目に遭っていたかを、10日ほど後に歩兵第12連隊所属の下士官として呉淞に上陸した三好捷三氏が次のように描写している[1]。

 こうしてビリから呉淞の岸壁にはいあがった私の目を射た風景は、まさに地獄であった。修羅の巷 (ちまた)もこんなにひどくないであろうと思われるほど残酷なものであった。岸壁上一面が見わたすかぎり死体の山で、土も見えないほど折り重なっていた。まるで市場に積まれたマグロのように、数千の兵隊の屍が雑然ところがっている。それと同時にへドのでそうないやな死臭が私の鼻をついた。

 これは十日前に敵前上陸した名古屋第三師団の将兵の変わりはてた姿であった。彼らはこの地に中国軍の大部隊が待ちかまえていると知ってか知らずか、上陸するやいなやつぎつぎになぎ倒されていったのにちがいない。そして兵隊たちは、何が何やらわからないまま死んでいったのだ。

 私たちが演習で教えられた上陸戦闘は、いつも砂浜を敵地と仮想して教育されていた。三師団の兵隊も、おそらく私たちと同じように砂浜戦闘を教えられていたはずであった。それが、この呉淞にきてみると、敵地は砂浜ではなく十メートル以上の高さの岸壁であった。おそらくかれらは勝手がちがい、とまどってしまったことだろう。その上やっとはいあがったときには、ものすごい弾幕にぶつかり、攻撃するにも敵の姿はなく、前進するには厚い弾幕にさえぎられて突破できず、後方へさがるにはうしろは揚子江であるから後退できず、阿鼻叫喚のなかで死んでいったにちがいない。それが八月の炎天下に十日もさらされていたために、ほとんどの屍体は完全に腐乱していたのである。

 その上それらの死体はみな、内臓腐乱のために発酵して丸くふくれあがり、その圧力で身体の軟らかい部分が外にふきだしていた。眼球が五、六センチも顔から突きだしているのである。なかにはウジ虫のかたまりとなりはてて、幾万もの虫がウヨウヨとかたまってうごめいている上を、無数のハエが黒々とたかっているものもあった。私はこのありさまを目にした瞬間、脳貧血をおこして倒れてしまいそうになった。第三師団と同じく八月二十三日、川沙口に上陸した第十一師団長山室宗武中将が戦後語っているところによれば(『丸』昭和四十六年三月号)、この呉淞上陸戦の犠牲者は一万人にものぼっていたということである。

 それから四十年以上たった今でも、私の目にはその酸鼻な風景がハッキリと焼きついている。このように戦争というものは、どのような観点からみても美化される要素はまったくなく、あるものは醜態の一語につきるのである。膨大な犠牲をはらい、相手を傷つけてまで守らなければならない国家と国民の利益とは、いったい何なのかと疑問をもたざるを得ない。

しかも、第三師団の不幸はこの上陸戦だけでは終わらなかった。三好氏の手記には、「名古屋第三師団全滅」と題された一節がある[2]。

    名古屋第三師団全滅

(略)
 中隊はその日(注:9月7日)の朝から西へ動きだした。しばらくゆくと、待ちうける中国軍の射撃がひどくなってきた。弾丸はどこからとんでくるのかわからない。ピシッ、パンッと私たちの近くに弾丸が飛来する。危険を感じたので、中隊は近くの部落に走りこんで敵状を偵察することになった。中隊全員が部落にはいってやれやれと思っていると、指揮斑の兵隊(中隊長の走りづかいをする兵隊)から、中隊長が私を呼んでいるという連絡があった。私が、またおれかと思って田中中隊長の前へゆくと、中隊長は左前方二百メートルの森をさして、
「三好伍長、あの森からものすごい射撃がきている。中隊はあの森を攻撃しようと思うが、先に上陸した友軍がまちがえて射撃しているのかもしれぬ。三好は兵二名とともにあの森へ行き、敵だと確認すればすぐ引き返してこい。友軍だとわかれば中隊の位置を知らせて、射つなと連絡してこい。終わり」
と私に命令した。(略)
 弾丸は私たちの頭上を音をたてて飛んできている。(略)こうして三分の二ぐらい進んだときであった。兵隊たちが急に立ちあがったかと思うと、森にむかって走りだした。私はあっけにとられて、伏せたまま彼らの様子を見ていた。すると森についた兵隊が、手をあげて私を呼んでいる。ああよかった、友軍だと思い、私も走って森のなかへはいっていった。
 森のなかには半壊した家があり、十人ぐらいの日本兵が褌(ふんどし)一つの姿で銃を射ったりメシをたいたり、いそがしそうに動きまわっている。おどろいたことに、彼らは中隊の方をさかんに射っていた。
「おい、隊長はどこだっ」
と私が一人の兵隊にたずねると、その男は無言で一人の年輩の男を指さした。私はその年輩者に敬礼して、直立不動の姿勢をとった。
「自分は左後方に進出してきた丸亀歩兵第十二連隊の三好伍長であります。中隊長の命令によって連絡に参りました」
「なにっ、連絡だと! 何の連絡だっ、おれは三師団の特務(特務曹長)だ!」
 裸の特務曹長は私をにらみつけた。
「ハイッ、中隊長の伝言をいいますっ! 先刻よりこの森から弾丸がとんできています。敵なら攻撃するが友軍なら大変だから確かめてこいと、中隊長の命令で連絡にきました、終わりっ!」
「ナニッ、お前は弱そうな伍長じゃのう。中隊長が攻撃するといったか、おもしろい、帰って中隊長にいえっ、攻撃してこいといえっ! 応戦してやる。おれたちはなあ、上陸半月でこのざまよ。二百名がただの十名よ。みな死んだ、俺たちもやがて死ぬ、全滅だ。もうやぶれかぶれよ、敵も味方もないんだ。帰って中隊長にいうんだ、攻めてこいといえっ!」
 特務曹長はまた私をにらんでどなった。それをきいて私は声もなく立ちつくしていた。彼らが三師団の兵だとすれば、おそらくあの呉淞岸壁の激しい戦闘で生きのこった兵隊たちだろう。彼らはほんとうに死のうと思っているらしく、目標もなくめった射ちをしている。異様な光景であった。私は寒気がしてきた。私が敬礼して帰ろうとすると、特務曹長は私に訴えるように声をおとして、ひとりごとのようにボツッといった。
お前たちもなあ、いまから十日もするとおれたちと同じになるよ。中隊が十名になるよ。これはなあ、戦争じゃないよ、虐殺だよ」
 二百名の兵隊が、わずか半月で十名になってしまった現実をみて、私は返す言葉もなくそのまま走って中隊へ戻った。(略)

ロクな補給もないままやみくもに戦わされ、200名の中隊が半月で10名になってしまうような激戦を戦い抜いた末、ようやく11月中旬に日本軍が上海を制圧し、兵たちはやっとこれで帰れると安心したことだろう。

ところが、軍司令官の功名心から今度は300キロも先の首都南京の攻略を命じられる。移動手段は徒歩である。

飢え、疲弊し、その上多くの戦友を失って中国人への敵愾心を募らせた彼らをそのまま使ったことが、その後の南京戦における残虐行為の一つの要因となったことは間違いないだろう。

[1] 三好捷三 『上海敵前上陸』 1979年 図書出版 P.58-59
[2] 同 P.76-78

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