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補給もせず兵士を飢え死にさせておいて「英霊」とは何事か

いま兵庫県立美術館で開催中の「Oh!マツリ☆ゴト 昭和・平成のヒーロー&ピーポー」展に、会田誠作の巨大な立体作品が展示されている。

www.artm.pref.hyogo.jp

骨と皮にやせ衰えた旧日本軍兵士が国会議事堂に手を伸ばしている造形なのだが、案の定、これに文句を言う人が出てきた。

何が「降参せず」だ。「英霊様方」だ。

アジア太平洋戦争での日本軍人の戦没者は約230万人とされているが、その過半数(約140万人)が戦死ではなく戦病死、つまり餓死や栄養不良に起因する病死だったと推定されている。[1]

そしてもちろん、餓死寸前まで追い詰められた人間が「戦い抜」くことなどできるわけがない。その飢餓と死のありさまは、例えば悪名高いインパール作戦では次のようなものだった。[2]

 遺棄された死体が横たわり、手榴弾で自決した負傷兵の屍があり、その数がだんだん増えてきた。石ころの難路を越え、湿地にかかると、動けぬ重症の兵たちが三々五々屯たむろしていた。
 水をくれ、連れていってくれ、と泣き叫び、脚にしがみついて放れないのだ。髪はのび放題にのび、よくもこんなにやせたものだと思うほど、骨に皮をかけただけの、あわれな姿だ。息はついているが、さながら幽霊だった。
 (中略)
 途中、灌木の中にひそんだ盗賊(引用者注:ゲリラや現地住民ではなく同じ日本兵の盗賊)にやられた兵が、腹部を至近弾でやられ、雑嚢が散乱している姿を見た。
 戦争は生きることの全貌を一変させるものだ。生きるためには、味方さえ殺し合うのだ。われわれも、恥もなく屍についた雑嚢を探したのだが、食い物はなにひとつはいっていなかった。おぞましい非人の仕業もあきらめ、歩いては休み、休んでは歩き、体内に残る生命の焔をかきたて、生きようとする苦行だけはつづけた。

こちらは「餓島」と呼ばれたガダルカナル島で、生き残った一人の青年将校が書いたもの。[3]

一二月二七日(一九四二年)
 今朝もまた数名が昇天する。ゴロゴロ転がっている屍体に蝿がぶんぶんたかっている。どうやら俺たちは人間の肉体の限界まできたらしい。
 生き残ったものは全員顔が土色で、頭の毛は赤子の産毛のように薄くぼやぼやになってきた。黒髪が、ウブ毛にいつ変ったのだろう。体内にはもうウブ毛しか生える力が、養分がなくなったらしい。髪の毛が、ボーボーと生え……などという小説を読んだこともあるが、この体力では髪の毛が生える力もないらしい。やせる型の人間は骨までやせ、肥える型の人間はブヨブヨにふくらむだけ。歯でさえも金冠や充填物が外れてしまったのを見ると、ボロボロに腐ってきたらしい。歯も生きていることを初めて知った。
 この頃アウステン山に不思議な生命判断が流行り出した。限界に近づいた肉体の生命の日数を、統計の結果から、次のようにわけたのである。この非科学的であり、非人道的である生命判断は決して外れなかった。

 立つことの出来る人間は……寿命三〇日間
 身体を起して坐れる人間は……三週間
 寝たきり起きられない人間は……一週間
 寝たまま小便をするものは……三日間
 もの言わなくなったものは……二日間
 またたきしなくなったものは……明日

このガダルカナル島からの撤退作戦を指揮した第八方面軍司令官今村均大将は、回顧録で次のように書いている。[4]

 今度のガ島での敗戦は、戦によったのではなく、飢餓の自滅だったのであります。(略)
 これは、補給と関連なしに、戦略戦術だけを研究し教育していた、陸軍多年の弊風が累をなし、既に制空権を失いかけている時機に、祖国からこんなに離れた、敵地に近い小島に、三万からの第十七軍をつぎこむ過失を、中央は犯したものです。

彼らを殺したのは敵ではない。武器弾薬どころか食糧すらろくに補給せず、餓死寸前になっても降伏することを許さず、「最後まで戦い抜」くことを強制した日本軍だ。

軍部の無能のせいで野垂れ死にを強いられた兵たちまで「英霊」などと呼んで祀り上げるのは、そうしておけば餓死させた責任を追求されずに済むからだ。そんな旧軍幹部連中の責任逃れのための詐術に乗せられてはいけない。

[1] 藤原彰 『餓死した英霊たち』 青木書店 2001年 P.138
[2] 同 P.78-79
[3] 同 P.20-21

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