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地獄島(軍艦島)で酷使されたうえ、長崎で被爆させられた強制連行被害者たち

徐正雨(ソ・ジョンウ)さんは、1943年、わずか14歳で日本に強制連行され、監獄島とも地獄島とも呼ばれた三菱鉱業高島炭鉱端島坑(軍艦島)に送り込まれた。軍艦島での体験についての徐さんの証言の一部を、以下の記事で紹介している。

その後、続発する坑内事故と労務係の暴力に朝鮮人坑夫たちが集団で抗議するようになると、会社は突然、彼らを端島から長崎の造船所に移動させた。[1]

 不穏な空気を察した労務係が、ある日、朝鮮人寮に数人でやってきた。

「おい、お前らのような反抗的な奴はここに置いとったらロクなことを考えん。これじゃ石炭増産は無理じゃ、三菱の造船所で働くことになった」と言った。

(略)

 その時、徐はどのように思ったのだろうか。

「突然の配転命令で、これでやっと生きられるんだと。わしは神様を信じないが、この時ばかりは感謝しましたよ。あのまま一カ月も端島におれば、きっと落盤事故で死ぬか、それとも海に身を投げているよ」

三菱造船所では軍艦を建造していたため、監視は厳しく、労働も過酷だった。それでも、まともな食事が出されたことをはじめ、端島と比べれば天と地ほどの差があったという。[2]

 徐が幸町寮に収容されて驚いたのは、白米の飯が出され、夕食には鯨肉とか鶏が付くことだった。野菜も結構あって、味噌汁は海水ではなくて、野菜入りの普通の味噌汁だった。

 端島炭鉱の朝鮮人寮の食事は粗末で、栄養失調で廃人のような姿になっていたが、造船所は待遇がよくて、日に日に体力が回復してきた。同じ三菱の会社でありながら炭鉱と造船所ではこんなに差があるのかと驚いたという。海軍の軍需工場のせいではないか、と徐は説明する。

(略)

 作業の現場監督は海軍の下士官だった。その下士官は精神注入棒という短棒を振り回した。

「この半島(朝鮮半島出身者)が! 早くするんだ!」

 少し怠ける者がいると、精神注入棒で殴り足蹴にした。足場の上から一五、六メートル下に叩きつけられ、大怪我をする朝鮮人もいた。玉砕が続くと監督の下士官たちはいら立って、軍艦の建造が遅れるのは、朝鮮人がわざとサボタージュしているからだと言って暴力を振るった。

 それでも端島の坑内採炭に比較すると、造船所の作業は天と地の差があるほど楽だった。落盤、ガス爆発、出水事故、炭車の暴走などの危険がなく、食物を十分与えられたことが唯一の慰めであった。

しかし、そんな日々もつかの間、徐さんは長崎原爆投下の日、8月9日を迎えることになる。[3]

 八月九日、徐はB29らしい重い爆音がしたので、ふと上空を見上げると、白いジュラルミンの機体が目に入った。どの防空壕に入ろうかと迷った瞬間、鋭い閃光が走って吹き飛ばされた。鉄板が空を舞って、その一つが足を直撃して倒れた。

 上からいろんなものが崩れ落ちてくるので、安全な場所へ体をずらした。まもなく入道雲のようなものがもくもくと上がり、長崎駅から浦上方面が火の海となった。

 しばらく放心状態で、別世界を見るようにただ茫然と市内に上がる炎と煙を眺めていた。

 何が起こったのか判断がつかないまま周囲を見ると、鉄板が体を直撃して即死している者や、体中から血を流して呻いている者がいた。そこは修羅場だった。

「アイゴー、アイゴー!」

 苦しそうに泣き叫ぶ声が聞こえた。飽の浦の造船所の現場は大混乱だったが、誰も助けにくる様子はなかった。

 しばらく横になっていると医務班がやってきて、徐の傷を応急処置した。救助船に乗せられて木鉢寮へ運ばれた。幸町朝鮮人寮は、爆心地に近く完全に姿を消していた。(注:徐さんはこの日運良く出勤だったが、休みで寮に残っていた百人ほどの朝鮮人労工は全滅した。)

 木鉢寮は木造二階建て八棟からなり、三千人以上が収容できたが、被爆者がどっと運ばれてきたのですぐ満杯となった。

 木鉢寮で寝ていると、傷口に蛆が湧いてきた。治療といっても赤チンを塗るだけ、徐はピンセットで蛆を一匹ずつつまんで瓶に入れた。包帯だけはどうにか巻いてくれたが、二、三日後には造船所の命令で、大橋と住吉方面へ道路整備に出された。

 真っ黒に焼けただれた無残な死体を、両手で抱えてリヤカーに積んだ。焼死体があまりにも小さいので、徐はみんな子どもかと思ったという。

 焼け跡の道路整備から木鉢寮に帰ってくると、会社から戦争が終わったので朝鮮人は解放すると連絡があった。退職金も帰国旅費も支払われず、三菱造船所は徐たちを被爆した街に放り出した。

徐さんは戦後も過酷な強制労働と被爆による後遺症に苦しみぬいて、2001年に亡くなった。被爆者健康手帳を与えたこと以外、日本政府は徐さんに何一つ謝罪も補償もしていない。[4]

 一九五〇年(昭和25)、本河内に住んで闇商売をしている時だった。寝ている時に突然吐き気がして、洗面器を取った瞬間、多量の喀血をした。それから原因不明の高熱が続き、喀血を繰り返した。それ以来、高熱が続くと吐いた。県内の大村、愛宕、東望、住吉、小江原療養所を転々としながら、一九七〇年(昭和45)まで入院生活を送った。

(略)

「わしの肺は片肺飛行で、いつ墜落するか分からない」

 強制連行、強制労働、そして被爆。何重もの苦しみを受けた徐は、二〇〇一年(平成13)八月二日、敗血症で亡くなった。七十二歳だった。

徐さんも含め、長崎では約2万人もの朝鮮人が被爆し、その約半数が爆死している。以下は長崎原爆朝鮮人犠牲者の追悼碑に刻まれている碑文。

強制連行および徴用で重労働に従事中被爆死亡した朝鮮人とその家族のために。

 

1910(明治43)年8月22日、日本政府は「日韓併合条約」を公布し、朝鮮を完全に日本の植民地支配下に置いたため、自由も人権も、さらに貴重な土地も奪われ、生活の手段を失った朝鮮人たちは日本に流入した。その後、日本に強制連行され強制労働させられた朝鮮人は、1945(昭和20)年8月15日の日本敗戦当時は、実に2,365,263人、長崎県全体に在住していた朝鮮人は約7万人という多数に上がった(内務省警保局発表)。そして長崎市周辺には約3万数千人が在住し、三菱系列の造船所、製鋼所、電機、兵器工場などの事業所や周辺地区の道路、防空壕、埋立て等の作業に強制労働させられ、1945(昭和20)年8月9日のアメリカ軍による原爆攻撃で約2万人が被爆し、約1万人が爆死した。

 私たち、名もなき日本人がささやかな浄財を拠出して異郷の地長崎で悲惨な生涯を閉じた1万余の朝鮮人のために、この追悼碑を建設した。かつて日本が朝鮮を武力で威かくし、植民化し、その民族を強制連行し、虐待酷使し、強制労働の果てに遂に悲惨な原爆死に至らしめた戦争責任を、彼らにおわびすると共に、核兵器の絶滅と朝鮮の平和的な統一を心から念じてやまない。

 

1979年8月9日

長崎在日朝鮮人の人権を守る会

 

[1] 林えいだい 『筑豊・軍艦島 ―― 朝鮮人強制連行、その後』 弦書房 2010年 P.196
[2] 同 P.199
[3] 同 P.199-202
[4] 同 P.204

 

〈写真記録〉筑豊・軍艦島―朝鮮人強制連行、その後

〈写真記録〉筑豊・軍艦島―朝鮮人強制連行、その後

  • 作者:林 えいだい
  • 発売日: 2010/04/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
[増補改訂版]軍艦島に耳を澄ませば -端島に強制連行された朝鮮人・中国人の記憶