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米軍側から見たレイテ沖海戦はまったく様相が違っていた

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弱小部隊だった「タフィー3」

1944年10月、フィリピン奪還を目指して殺到する米軍機動部隊とこれを防ごうとする日本軍連合艦隊が激突したレイテ沖海戦。

日本側では、航空支援のない連合艦隊が多数の米軍機による激しい攻撃にさらされ、武蔵をはじめ多くの艦艇が沈没、連合艦隊は一方的に叩かれて事実上壊滅した、というのが一般的な認識だろう。

全体としてみればそのとおりなのだが、レイテ沖で数度に渡って繰り返された戦闘のすべてがそのような経緯をたどったわけではない。

最近、ディスカバリーチャンネルで米軍側から見たレイテ沖海戦についての番組(戦場の真実#6「レイテ沖海戦」)を見たのだが、10月25日に日本の第一遊撃部隊(栗田艦隊)と米護衛空母部隊(タフィー3)が戦った海戦(サマール沖海戦)について体験者の元米兵たちが語る様相はまったく違っていた。

何よりも驚いたのは、栗田艦隊に比べてタフィー3があまりにも弱小だったことだ。

この海戦の時点で栗田艦隊の戦力はあの大和をはじめ戦艦4隻、重巡洋艦6隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦11隻の計23隻だった。

一方のタフィー3は、護衛空母6隻、駆逐艦3隻、護衛駆逐艦4隻の計13隻でしかない。

護衛空母は商船を改造したもので、小型で足も遅く搭載機数も少ない。しかもタフィー3は米軍上陸部隊の支援が任務だったため、艦載機は陸上攻撃用の装備しか備えていなかった。

駆逐艦はもともと対潜攻撃用なので、火力と言えるのはは5インチ砲5門と魚雷10発のみ。護衛駆逐艦に至っては5インチ砲2門と魚雷3発しかない。その上、どちらも「ブリキ艦」と揶揄されるほど装甲が薄い。

とても戦艦や巡洋艦と戦えるような戦力ではなかった。

その力の差は、大和一隻だけで排水量も火力もタフィー3全艦の合計を上回っていた、という点に象徴的に示されている。

「20分で撃沈されると思った」

10月25日6時40分、タフィー3は接近しつつある日本軍の大艦隊を発見。6時59分、約30Kmまで接近したところで日本軍の砲撃が始まった。

周囲には次々と砲弾(照準調整用の着色弾)が着弾し、色とりどりの巨大な水柱が上がる。しかしタフィー3には射程の長い火砲はなく、一方的に撃たれるだけである。

誰もが、とても勝ち目はない、20分後には撃沈されると思ったという。

対艦隊戦など想定していないタフィー3には作戦計画もなにもない。指揮官のスプレイグ海軍少将はとりあえず各駆逐艦に煙幕を張るよう命じ、そのすきに空母を東に逃した。また、各空母は被弾時の炎上を避けるため、艦載機を全機発艦させた。

勇猛果敢に戦ったタフィー3

7時4分、駆逐艦ジョンストンの艦長エバンズは突撃を命令、ジョンストンは栗田艦隊めがけて突進する。普通に考えれば自殺行為だが、7時16分には駆逐艦ヒーアマンとホーエルも続いて突撃する。

ジョンストンは前方に砲弾が着弾するとその着弾位置に向かって航行するというやり方で砲撃をかわしつつ突進し、重巡熊野に約10Kmまで接近して魚雷を発射した。

魚雷は艦首に命中し、熊野は大破して戦線を離脱。救援のため熊野に横付けした重巡鈴谷も戦闘が継続できなくなった。

この頃、護衛空母を飛び立った艦載機は、対空砲火をかいくぐって栗田艦隊に攻撃を仕掛けていた。といっても、対艦攻撃用の爆弾や魚雷は持っていない。しかし、低空から突入して爆弾を投下するふりをすれば、相手は回避のため進路を変えざるを得ない。こうして彼らは栗田艦隊を少しでも足止めしようと進路を妨害していた。

7時45分、護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツも突撃。徹甲弾の直撃を受けたが、装甲が薄いため弾は艦内で爆発せず貫通してしまい、比較的軽微な損傷で済んだ。

8時、ヒーアマンは大和を狙って最後の魚雷を発射。これは命中しなかったが、大和は回避のため北方に進路を変更し、そのまま10分以上も航行したため戦場を離れてしまい、指揮官の栗田中将は戦況を把握できなくなった。

この頃サミュエル・B・ロバーツは重巡洋艦(艦名不詳)に魚雷3発(つまり全部)を撃ち込み減速させた。相手からも魚雷を受けたが、日本軍は相手は大型艦だと誤認していたため設定深度が深すぎ、魚雷は艦底の下を通過した。

8時40分、護衛空母ガンビア・ベイが撃沈される。

サミュエル・B・ロバーツは重巡筑摩と至近距離で交戦。後部砲塔のポール・H・カー曹長は5インチ砲弾を275発も撃ちまくった(1分あたり10発以上のペース)。しかし直撃弾を受けて砲塔は破壊され、カーも胸から腹まで裂ける重傷を負ってしまう。衛生兵が駆けつけると、カーは腹わたが飛び出した状態でまだ壊れた砲に弾を込めようとしていた。

衛生兵がカーを砲塔から引き出し、甲板に寝かせて落ち着かせ、別の用を済ませて戻ってくると、カーがいない。見ると、カーは砲塔に戻り、なおも砲弾を装填しようとして、そのまま息絶えていた。

全滅寸前で戦闘が終わる

9時、サミュエル・B・ロバーツはマスト近くと機関室に被弾して沈没。ジョンストンは機関室とブリッジに被弾しながらもなお戦っていたが、再度被弾して沈没。集中砲火を浴びていたホーエルも沈没。

海に投げ出された乗員たちに、日本軍の戦艦が向かってきた。ひき潰されると思ったが、戦艦は200mほど離れたところを通過し、見ると艦上で兵士たちが敬礼していた。「我々の戦いぶりに敬意を表して敬礼していました。第二次大戦中に敵兵に敬礼されたのは恐らく我々だけでしょう」と元兵士は語っている。

9時11分、既にタフィー3の駆逐艦や護衛駆逐艦は次々と撃沈され、護衛空母は敵艦隊に取り囲まれていた。

誰もが全滅を覚悟したが、栗田艦隊も巡洋艦2隻が航行不能、さらに1隻が大破しており、他の米軍部隊からの空襲にもさらされていた。南方部隊が壊滅したことも聞いていた栗田は追撃中止を決定し、栗田艦隊は北に舵を切って戦場を離脱する。

日本軍が戦場から離れていくのを知ったタフィー3の将兵たちは、みな信じられない思いだったという。

この戦いの様相を見ると、日本軍は米軍の物量に負けたのだという一般的な認識は必ずしも正しくない。物量だけでなく、危機的状況における決断力、そして戦闘意欲や敢闘精神においても負けていたのではないのか。

ちなみに、栗田艦隊との戦いを生き延びた護衛空母セント・ローは、10時20分、艦尾方向から特攻機に突入され、艦内で誘爆を起こして11時過ぎに沈没している。これは日本軍最初の特攻隊である神風特別攻撃隊によるものだ。

この戦果を、米軍正規空母を撃沈したものと誤認した日本軍は、その後特攻作戦にのめり込んでいくことになる。