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宮城事件を引き起こした若手陸軍将校たちのその後

映画『日本のいちばん長い日』でも描かれた「宮城事件」は、1945年8月14日の深夜から翌朝にかけて、日本の無条件降伏阻止を目的として陸軍の一部若手将校が起こしたクーデター未遂事件である。

この事件の首謀者と言えるのは、当時陸軍省軍務局軍務課に所属していた以下の4名だ。

  • 井田正孝中佐
  • 竹下正彦中佐
  • 椎崎二郎中佐
  • 畑中健二少佐

このうち、椎崎と畑中の二名はクーデターに失敗したあと皇居前広場で自決しているので「その後」はない。

では、井田と竹下はどうしたのか。

井田は自刃した阿南陸相の後を追って死ぬつもりだったが、見張りの将校に止められて自決を断念したという。このときの状況を、半藤一利は次のように描写している。[1]

 井田中佐が自決するということは荒尾軍事課長にはわかっていた。課長はもっとも崇敬する阿南陸相の遺志にそむくことを部下に許すわけにはいかないと思った。そこで、井田中佐に見張りをつけることにした。

 井田中佐が死のうとしたとき、その見張りの酒井少佐がとびこんできて、「死ぬのなら私を殺してからにして下さい」といった。中佐は生きることも死ぬこともできず、絶望の涙を流した。見張りの少佐も同じであった。二人はにらみあったまま、まんじりともせず夜を明かした。

一時の激情が冷めた後は、もう死ぬ気などなくなったのだろう。敗戦後は「鬼畜」と宣伝していたはずの在日米軍の戦史課に勤務して給料をもらい、その後は「あの」電通に入社して総務部長や関連会社の常務などを勤めている。その上、戦後も一貫して本土決戦をすべきだったと主張していたというのだから呆れるほかない。[2]

竹下のほうは、1952年に自衛隊の前身である警察予備隊に入隊し、陸上幕僚監部第5部副部長、第4師団長、陸上自衛隊幹部学校長等を歴任し、陸将にまで出世している。しかも、「われわれの愛する旧陸軍は、有史未曾有の大戦争を闘って敗れはしたものの、今再び起ち上がらんとしている」と言い、幹部学校の教育方針を米軍式ではなく旧軍式との折衷方式にしたという。[3]

そんなことをやっているから自衛隊には旧軍由来の陰湿ないじめ体質がはびこり続け、こういう事件を引き起こす結果になっているのではないのか。同じ部屋で寝起きする上級生が下級生を「指導する」などといのうのは、古年兵が新兵をいじめ抜いた旧軍の内務班と同じだろう。

東京新聞(2018/3/18):

防衛大、下級生いじめまん延

 反省文を百枚書かされ、体毛に火を付けられるー。防衛大学校(神奈川県横須賀市)を退学した男性(24)が、当時の上級生ら八人に損害賠償を求めた訴訟で、学内にまん延する陰湿ないじめの実態が明らかになった。(略)

 防衛大では全員が学生舎に住み、同じ部屋の上級生が下級生を指導する。男性は二〇一三年四月に入学。指導の名目で上級生に暴行やいじめを受けて体調を崩し、一五年三月に退学した。被告八人のうち七人は現在、自衛隊の幹部になっている。

 男性の弁護団によると、防衛大の内部調査などで▽食べきれない量の食べ物や、固いままのカップ麺を食べさせる▽風俗店に行き、女性と写真を撮るよう強要する▽原稿用紙百枚に反省文を書かせ、ノート一冊を「ごめんなさい」で埋め尽くさせる▽机を荒らすーといった下級生へのいじめが確認された。

だいたい、宮城事件というのは、森赳近衛第一師団長を殺害しておいて、その師団長名で偽命令を発し、近衛師団を動かして宮城を占拠し、天皇を翻意させて降伏を阻止しようとした重大事件である。ことの重大さから言えば2.26事件と同等、あるいはそれ以上とも言える。

にもかかわらず、この首謀者らは、井田がわずか一ヶ月の謹慎処分とされた以外、何の処罰も受けていない。

敗戦後の混乱でその余裕がなかったのか?

そんなことはない。帝国日本は一日で瓦解したわけではない。実際、敗戦後も治安維持法はそのまま、特高警察も活動を続け、思想犯・政治犯は刑務所で虐待され続けていた。その一人である哲学者の三木清は玉音放送から一ヶ月以上も経った9月26日に獄死している。

彼らが処罰されなかったのは、戦後の日本政府にその意志がなかったからだろう。そして、こうした悪質な旧軍の残党を放置し、よりによって自衛隊の中枢に入り込むようなことを許してきたことが、戦後日本を腐らせる遅効性の毒として作用し続けたのだ。


[1] 半藤一利 『日本のいちばん長い日 決定版』 文春文庫 2006年 P.354
[2] Wikipedia「井田正孝
[3] Wikipedia「竹下正彦