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角田房子『本間雅晴中将伝』の解説がいろいろ問題ありな件

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角田房子による本間雅晴陸軍中将の伝記[1]を読んだ。

本間雅晴は、アジア太平洋戦争において、第14軍司令官としてフィリピン攻略戦を指揮した人物である。攻略完了後、1942年8月には任を解かれて帰国し、その後軍務につくことはなかったが、戦後「バターン死の行進」の責任を問われて戦犯裁判にかけられ、処刑されている。

この本(2015年刊の文庫版)、角田による本文はともかく、解説がどうもいけない。

解説は野村進というノンフィクションライターによるものなのだが、学生時代(1970年代末~80年代)にフィリピンに留学した際の経験として、こんなことを書いている。

 また、同じく下宿前の路地裏で、私が近所の赤ん坊を抱いてあやしていたおりのことだ。ちょうど通りがかった短パンにTシャツ、ゴムぞうり姿の顔見知りの少年が、こちらを見上げて、宙に何かを放り投げ、それを突き刺すしぐさをして、ニッと無邪気に笑った。

 即座に意味がわかった私は、全身から血の気が引く思いがした。少年は、かつて日本兵が赤ん坊を空中に放り投げ、銃剣で突き殺したエピソードを、おそらく彼が初めて出会った日本人に再現して見せたのである。きっと両親や祖父母の世代の誰かに聞かされたのであろう。少年の顔にも悪気はまったく認められず、それがかえって私の胸をえぐったのだ。

 この残虐なエピソードの真偽は不明だが、北はルソン島の農村から南はミンダナオ島の漁村まで、全国各地に広まっていたことだけはまちがいない。少なくとも、そうした鬼畜の所業を犯しても不思議ではない連中と、戦時下の日本兵たちはみなされていた。

このエピソードは「真偽不明」ではなく、事実である。

日本兵が赤ん坊を銃剣で突き殺したという事例は、中国だけでなくフィリピンでも報告されている。

ジャーナリストの石田甚太郎がフィリピンに約1年間住み込んで収集した証言の中に、次のようなものがある。「誰かに聞かされた」ものではなく、現場を目撃した被害当事者による証言である。

1945年2月、バタンガス州アンチポロでの事例[2]:

 その夜は、朝めしを食べに行く食堂の夫婦に、夕食に呼ばれた。(略)

 この家の夫人は、パミンタハンの虐殺当時、アンチポロの集落に住んでいた。1945年2月27日、男たちがカルメルの神学校に行った後の午前10時頃、日本兵はバランガイ(注:村)に男たちが残っていないかどうか、家々を回って捜しにやって来た。

 「私たちは日本兵が恐いんで、30人位の女や子どもたちが一つの家に集まって震えていたのよ。そこに二人の兵隊がやって来て、戸を開けたの。恐くって子どもたちが泣き出した。私も泣いたわ。特に一人の赤子が烈しく泣き続けたのよ。すると日本兵が怒り出し、母親から赤ん坊をひったくると上に投げたの。それを別な兵隊が銃剣で突き刺したのよ

 「それ、ほんとうに目撃したの?」

 私は思わず聞き返した。

 「見たわよ、ほんとうに。そして、深井戸に投げ込んだの。私も母親と一緒だったけど、泣きやまなかったので、深い傷ではなかったけど、ここを突かれたの」

 彼女は、左胸の上をブラウスの上から指先で示した。

 「痛いよりも恐かったわ。後で痛みを感じたけど、あの時は恐くて恐くて。日本兵が来るとすぐ逃げて、物陰からそっとのぞき見したものよ。全部で十人は突かれて傷ついたはずよ」

ちなみに、日本軍に連れ出されて「カルメルの神学校」に集められたこの集落の男たちは、ほぼ全員が虐殺されている。

同年3月、同州ブリハンでの事例[3]:

 マリシリーノ・マガリンさんは、7歳で戦争孤児になった。1945年3月4日で、パミンタハンの大虐殺から数日後のことだ。

(略)

 「家族は、両親と兄弟姉妹の11人だった。ルンバンのバランガイに住んでいたけど、アメリカと日本の戦争が激しくなってきたんで、ブリハンに疎開していた。そこに日本兵が来て500人位の人たちを、夜の8時頃に谷川の近くの広場に連れて行った。最初に、赤ん坊が放り上げられて殺されたんだ」

 「ほんとうに目撃したんですか?」

 よく耳にすることなので、思わず聞き返した。

 「ほんとうですよ。その夜は月夜だったんです。日本軍はみんなに列を作るように、大声で言った。でも、子どもたちは異様な雰囲気におびえて泣きだした。私も泣きましたよ。兵隊は目をつり上げて恐い顔をしていたが、激しく泣く赤ん坊を母親からひったくると、突き殺して川の方に投げてしまった

 子どもが泣き、大人たちが悲鳴を上げる中で、5人位ずつ殺し始めた。私は兄や姉たちと一緒に銃剣でやられた。その前に私はジュウドウで倒されて、後ろから突かれた。

(略)

 気がついたら、朝だった。日本兵がやって来て、まだ生きている人がいると、銃剣で殺していった。

 私は死んだふりをしていたけど、すぐ上の姉は日本兵を恐がって逃げ出そうとしたんで、本当に殺されてしまった。

 日本兵が行ってから、ゆっくりゆっくり這い出した。疎開して誰もいない小さな家にたどりついた。(略)

 その後で、知り合いの人に助けられた。医者も薬もないから、ココナツオイルとからしを傷につけておくだけだった。元気になったのは一年後だった。ヤシ油とからしだけでは、背中から胸に突き抜けた銃剣の傷が治らないので、アメリカ軍はマニラのジェネラルホスピタルに運んで治療してくれた。病院に6ヵ月入院してましたよ。(略)

同年4月から5月にかけて、マニラ東方インファンタ地区での事例[4]:

 バランガイ・キャプテン(注:村長)の家の近くで、油気のないぼさぼさ髪の主婦のソンニャ・ポハルテさんに会った。

 「私が7歳の時でしたよ、日本兵がここで虐殺したのは……。うちでは、母と妹三人に弟一人が殺されたんです。母は妊娠していたから、もう一人殺され、残ったのは父と私だけでした。

 日本軍はココナツの枯葉を燃やし、明かりの代わりにして家に来ると、眠っていた一歳の弟を足でけり、上に放り上げて銃剣で突き殺した。驚いて、父と私は飛び出して逃げたけど、後の者はみんな殺されてしまった。私は父とばらばらになって湿地に逃げ込んで震えていましたよ。父と会ったのは一週間後でした。その後で、ポレリオにボートで疎開したの。

 母や妹たちが急にいなくなったから、ときおり、思い出して泣きましたよ。妹と口げんかをよくしたけど、にぎやかな家が急に寂しくなってしまったの」

 「近所の人から日本人のあんたが来たと知らされた時は、また殺しに来たんじゃないかと思って、びっくりしたわ。昔の日本兵は残酷だったから恐くって恐くって。長い間恨みました。なぜ母を殺したんだと……」

石田のルポ『ワラン・ヒヤ』は1990年に出版されている。2015年刊の、フィリピン攻略戦司令官の伝記の解説を書いている段階で、野村はまだこの事実を知らなかったのだろうか。

そして野村は、陸軍部内では例外的な理性派で、教養豊かな人物だったと言われる本間について、こう続ける。

 私は、だが、本書を英語やフイリピノ語に訳して、ぜひともフィリピン人たちに読ませたい。なぜなら、本間の人物自体は、フィリピン人に嫌われたり憎まれたりするどころか、大いに好かれるはずと確信するからだ。まず見た目がよい。百八十センチの堂々たる体躯と、彫りの深い顔立ち。女・子どもにやさしく、いまで言う“マザコン”で、本書によれば「涙もろいというより泣き虫に近い」気質もフィリピン人好みである。

 ファッション好きの「ハイカラ中尉」、わが子らに自分を「パパチャマ」と呼ばせる「西洋かぶれ」、優柔不断な「腰抜け将軍」……。これら日本での嘲弄のレッテルが、フィリピンではすべて反転して、微笑ましい人柄の一端と受けとられる。当時の日本人としては稀有なことに、英語がぺらぺらなところも、長らくアメリカの植民地下に置かれ、いまだに英語の上手下手で人間の格付けをしたがるフィリピン人のあいだでは、賞賛の的となろう。

本間の処刑の理由とされた「バターン死の行進」について、彼にどの程度の責任があったのかは脇に置くとして、少なくとも本間が、フィリピンの人々に地獄の4年間をもたらした戦争の始まりである攻略戦の司令官だったことは動かしようがない。

そんな本間が、フィリピン人に好まれる見た目や性格の人物だったからといって、それだけで賞賛の的になるだろうなどというのは、あまりにフィリピン人をなめているのではないか。

日本軍に父親と夫を殺された、ある女性がこう語っている。[5]

 赤い小柄な花模様のワンピースを着て、黒髪を後ろにきちっとひっつめた彼女が、ソコロ・オカンポさんだった。鼻筋の通ったうす褐色の細面の顔には、若い頃の美貌が残っていた。

(略)

 「さっき私、日本兵を殺してやると言ってしまったけど、あれは冗談なの。例え仕返ししたって、どうなるものでもないでしょ。でも、胸の中では怒っているの。私の気持ちを日本人にどう伝えたらいいかしらね。……もしあんたがフィリピン人で、夫がこんな殺され方をしたらどう思うかしら? 日本人は、フィリピン人になったつもりで考えてほしいの」

日本による戦争で人生を滅茶苦茶にされたフィリピン人の立場に立って考えることができていれば、あのような言葉は出てこないのではないか。

[1] 角田房子 『いっさい夢にござ候 本間雅晴中将伝』 中公文庫 2015年
[2] 石田甚太郎 『ワラン・ヒヤ 日本軍によるフィリピン住民虐殺の記録』 現代書館 1990年 P.240-241
[3] 同 P.274-276
[4] 同 P.384-385
[5] 同 P.242-243

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