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靖国神社に参拝するような声優が中国市場から排除されるのは正当にして当然。「チャイナリスク」などではない。

茅野愛衣、靖国参拝を公言して中国ネットで炎上

『鬼滅の刃』にも出演(胡蝶カナエ役)している声優の茅野愛衣が、靖国神社に参拝したことを公言した結果、中国のネット上で大炎上する事態となっている。

NEWSポストセブン(6/28)

『鬼滅の刃』人気声優が靖国参拝の余波 中国で配信のゲームから続々削除

〈削除は当然〉〈好きだったのに残念だ〉中国のインターネット上で物議を醸している日本の人気女性声優がいる。茅野愛衣(33)。大ヒットアニメ『鬼滅の刃』をはじめ、これまで500タイトル以上のアニメ、映画、ゲームに出演している人気声優だ。何があったのか。

「中国企業が日本で配信しているゲームが中国国内でも人気で、茅野は美少女モノを中心に10作品以上に出演しています。その中国配信版から茅野の声が6月中旬から相次いで削除され、4社5作品にのぼっている」(ゲーム雑誌編集者)

(略)

今年2月にYouTubeで配信した音声番組で、茅野さんはCDのヒット祈願で靖国神社に参拝したと話した。これを日本語の理解できる中国のネットインフルエンサーが拾い、中国人の神経を逆なでするような行為として注目されてしまった」

(略)

「中国のネット上では、靖国神社や尖閣諸島などの発言は問題視され、日本の芸能人のYouTubeやSNSも細かくチェックされている。今後もこのような被害は増えていくのではないか

 チャイナリスクは「個人の声」にまで及んでいる。

この記事では、まるで茅野が中国ユーザの過剰反応によって理不尽に排撃されている被害者であるかのような扱いだが、これはそんな話ではない。靖国神社というのがどのような代物か知っていればこうなることは当然予測できたはずだし、中国人ユーザたちの反応が正当かつ当然のものであることも理解できるはずだ。

中国市場でビジネスをしていながら本人も所属事務所もそれを分かっていなかったのなら、迂闊としか言いようがない。

靖国神社は国家神道カルトの総本山

靖国神社は、普通の神社でもなければ戦争犠牲者のための慰霊施設でもない。毎年「英霊顕彰祭」なるものを行っていることからも分かるように、靖国は「英霊」(天皇のために戦って死んだ軍人・軍属等)を神として祭って褒め称え、今を生きる若者たちにも喜んで彼らの後に続くよう促す英霊再生産装置である。

そして靖国神社内の「遊就館」が典型的に示しているとおり、靖国は明治以来のすべての日本の戦争を正しい戦いとして肯定している。

中国との関係で言えば、日本は日清戦争で台湾を奪ったのを皮切りに、自作自演の満鉄線路爆破を口実に始めた「満州事変」で中国東北部を奪い、続く日中戦争では中国全土にまで侵略の範囲を広げた。そして日中戦争開始から敗戦までの期間に限っても、最小限に見積もっても日本は中国の軍民1千万人以上を殺し、数千万から1億人にも達するだろう人々の生活を滅茶苦茶に破壊した。

すべて中国の資源や市場を我が物にしたいという日本自身の欲望から発した侵略戦争の結果である。

これが靖国史観では、まるで日本は自存自衛のためにやむを得ず戦った被害者であるかのようにひっくり返される。まさに靖国は侵略戦争を正当化する国家神道カルトの総本山「戦争神社(War Shrine)」なのだ。

その靖国神社に参拝したなどと公言するのは、自分もそうした靖国史観に賛成していると言うのと同じことだ。

茅野の場合、「CDのヒット祈願」で参拝したと言っているので、戦没者の慰霊のためといった認識ですらなく、単にそこらの普通の神社で願掛けするような感覚で参拝したのだろうが、無知は言い訳にはならない

アジアで日本人だけがまともな近現代史を教えられていない

当然義務教育段階で学ぶべき「アジアの常識」を日本人だけが知らないのは、教育行政が一貫して子どもたちに近現代史を教えることを忌避してきた結果である。大達茂雄のような旧内務官僚や特高官僚が戦後の教育行政を牛耳り、自分たちの旧悪を隠蔽するために教育内容を歪めた結果、最も知るべきことを教えないといういびつな歴史教育が延々と続いてきたのだ。

これによって問題が生じるのは中国や韓国との関係だけではない。フィリピンやシンガポール、インドネシアといった他のアジア諸国との関係においても、過去の加害に対する日本人の無知は、結局のところ日本人自身に跳ね返って来ることになる。

陸軍将校として日中戦争を経験した歴史学者の故藤原彰氏は、まだ日本がバブルの余波に浸っていた1996年の段階で、次のように警告していた[1]。これをすべての日本人は心に刻むべきなのだ。

 一昨年、東南アジアを視察する小旅行の機会にめぐまれた。忘れがたいのはシンガポールの中心ラッフルズ広場にそびえたつオベリスク「血債の塔」である。日本人観光客をのせたバスガイドの華僑は、その広場で解散するまで、塔の存在にひとことのコメントもせず、ただショッピングの注意だけをくり返した。バスの中にひとり残った筆者の「中国人虐殺の記念碑はどこにあるのか」との質問に対して、ガイドは沈黙したまま目の前のオベリスクを指さした。外貨を得たいシンガポール人は、日本人に対してみずから「大虐殺」を語ろうとはしない。しかし彼らの沈黙は忘却ではない。マグマとなって沈潜しているのだ。「血債の塔」は永遠に残り、殉難華僑を追悼する記念式は毎年行なわれる。同地の学校教科書は日本軍の蛮行をくわしく書き記している。

 国際化の時代の日本人はいや応なく地球の各地で活動し、生活していかなければならない。「日本近現代史授業の改善」や『大東亜戦争の総括』はそのような日本人にとっておそらくとんでもない災厄となってはねかえるであろう。教育はそのような事態を見すえて「未来の日本人」に責任を負わなければなるまい。


[1] 藤原彰他 『近現代史の真実は何か』 大月書店 1996年 P.198