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中国に取り残された残留日本兵、石田東四郎さんのこと

小野田寛郎(1974年フィリピンから帰国)や横井庄一(1972年グアムから帰国)などと違って知名度はゼロに近いが、1993年、敗戦から48年も経ってようやく中国から帰国した石田東四郎という元日本兵がいる。

この石田さんにまつわる物語は、実に驚くべきものだ。

1912年、秋田県増田町に生まれた石田さんは、1937年、再招集されて中国河南省に渡ったが、終戦直前に行方不明となり、戦死したものと考えられていた。

しかし彼は、銃撃により頭を負傷し、聴覚と記憶を失ったまま生きていた。

1946年秋、石田さんは河南省黒石寨で、ボロボロの衣服をまとい物乞いをしているところを隣村の農民孫邦俊さんに保護された。

貧しい農民に過ぎない孫邦俊さんが、なぜよりによって元日本兵などを保護したのかは分からない。孫さん自身が元孤児だったからという説もあるが、確認できていない。

ともかく孫さんは石田さんを家に連れ帰り、衣服と食事を与え、医者にも診せてやり、家族同様に世話するようになった。しかし当時はまだ日本による侵略の爪痕が生々しく残っている時期で、孫さんの村にも多くの被害者がいた。孫さんは門前にまでやってきて抗議する彼らを必死に説得しなければならなかった。

孫さん一家が、石田さんを保護したことで得をしたことは何一つなかった。

石田さんは負傷のせいで脳に障害を負っているらしく、夜中に大声で叫んだり、自分の顔を殴ったり、与えた靴や布団を切り刻んでしまったりした。また、働く能力がなく、いくら農作業を教えようとしても、草取りひとつ満足にはできなかった。

石田さんが突然半身不随になったときは、孫さんは借金までして彼を治療した。

孫さんがそんなふうに石田さんを親身に世話する姿を見て、周囲の村人たちも、やがて彼を仲間として受け入れるようになっていった。

しかし、文化大革命の時期には、石田さんのせいで再び孫家に苦難が訪れた。日本人を保護していることから「外国と内通している」と批判され、息子の孫保傑さんは学業を中断せざるを得なかったのだ。

孫邦俊さんは石田さんを引き取ってからずっと、彼の家族を探したいと考えていたが、名前も経歴も話せない石田さんの身元はわからず、1962年、彼を帰国させることができないまま亡くなった。亡くなる際、孫さんは息子の孫保傑さんに「これからも日本のおじさんの面倒をよく見なさい。機会があれば日本の家族を捜してあげなさい」と言い残した。

孫保傑さんは父の遺言を守り、1972年に日中の国交が回復すると石田さんの身元探しに奔走した。

1992年、津田康道さんという人が、新聞に載っていた負傷兵は数十年前自分と一緒の部隊にいた石田東四郎さんだと確信し、訪中して面会した後、石田さんの弟である石田小十郎さんに連絡をとった。

翌1993年、血液鑑定により石田小十郎さんとの血縁関係が確認され、石田東四郎さんは日本に帰国した。

しかし、帰国の日になっても石田さんは孫家を離れようとしなかったので、孫保傑さんは自分で石田さんを日本に送り届け、さらに20日間も付き添った。孫さんが帰国すると、石田さんはあちこち探し回り、落ち着くまで10日もかかったという。

2002年、孫保傑さんの妻の王成香さんが養老院にいる石田さんを訪ねると、石田さんは涙を流し、王成香さんが帰ろうとすると自分も立ち上がって着いていこうとした。

ここまでくると、果たして石田さんは日本に帰国できて幸せだったのだろうか、とも考えてしまう。

石田東四郎さんは2009年、肺炎のため97歳で死去した。記憶が回復することはついになかった。

それにしても、敵国の敗残兵だった石田さんを迎え入れ、47年間も親身に世話した孫さんたちの行為は何と表現すればいいのか。親切などという言葉では表しきれないものがある。

この孫さんだけでなく、敗戦時の混乱で置き去りにされた日本人孤児を保護し、我が子同様に育ててくれた多くの中国人養父母たちがいた。

一方の日本はといえば、こうした「中国残留孤児」たちが帰国すると、日本語が不自由なため自立できず生活保護で暮らす彼らを厄介者扱いし、彼らが中国に残してきた高齢の養父母たちを呼び寄せたりすれば、中国人が日本の税金にたかっている、などと言って叩いてきた。

この違いはいったい何なのだろうか。

参考:王浩 『半世紀にわたり日本の負傷兵を世話した ある農民の話
      人民中国 2005年4月
   孫東民 『時空を超えた人道精神』 人民中国 2006年5月

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