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マスコミやネットにあふれる偏向情報に流されないためのオルタナティブな情報を届けます。

稲田防衛相就任を祝して「百人斬り」事件を振り返る(3)逮捕・裁判・処刑

南京大虐殺 歴史認識

戦時中は「郷土の勇士」として讃えられ続けてきた両少尉だが、「捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されるべき」と明記したポツダム宣言を受諾して日本が無条件降伏すると、一転して戦犯追求に怯える立場に立たされることになる。

東京裁判国際検察局による訊問

1946年6月、復員していた向井少尉は、東京・市ヶ谷の法廷に呼びだされ、国際検事団による訊問を受けた。後の南京軍事法廷で向井はこのことを、「国際検事団米国検事官より厳重なる審査を反復受けたる結果、不起訴処分と判定された」と、自らの無罪を主張する根拠の一つとして挙げている。

しかし、東京裁判東條英機をはじめとするA級戦犯(平和に対する罪)を裁くための法廷であり、向井や野田のようなBC級戦犯(通例の戦争犯罪および人道に対する罪)を裁く場ではない。実際には、国際検事団が向井に訊問を行ったのは、荒木貞夫佐藤賢了ら軍幹部が新聞記者や新聞社に対してどのような統制・指導を行ったのかを「百人斬り競争」報道を例に調査しようとしたからで、向井自身を容疑者として訊問したのではなかった。当然、この訊問により起訴不起訴が決まるような性質のものではなかった。[1]

■国民政府による戦犯裁判

中国国民政府(蒋介石政権)は、1946年4月から中国各地に開設した軍事法廷で戦犯裁判を開始し、計883人を裁き、504人が有罪判決を受けた[2]。この数は、日本軍が中国で行った犯罪行為の規模から考えれば、極めて少ない。

他の連合国、例えばアメリカは、計1409人のBC級戦犯を裁き、1229人に有罪判決(うち死刑確認136人)を出している[3]。アメリカによる戦犯裁判は、主に米軍人捕虜に対する残虐行為を裁いたものだ。それでこれだけの有罪判決を出している。仮にこれと同じ厳しさで中国が戦犯裁判を行っていたら、数万人以上の日本軍人が死刑になっていてもおかしくなかったはずである。

国民政府による戦犯処罰が少なかったのは、象徴的な主犯者のみ処罰して日本に対する国民の報復感情を抑えようとした蒋介石の寛大政策「以徳報怨(徳をもって怨みに報いる)」によるものだ[4]。しかし一方で、国民政府による戦犯裁判は杜撰で拙速でもあった。

南京大虐殺(南京大残虐事件)関連の戦犯裁判で、国民政府は松井石根支那方面軍司令官をはじめとする、南京攻略戦に参加した司令官、師団長クラスの引き渡しをマッカーサー元帥に要請したが、松井石根A級戦犯容疑者として既に東京裁判で審理が始まっており、中国に引き渡されることはなかった。また、皇族の朝香宮鳩彦王上海派遣軍司令官)はアメリカによる天皇免責に伴い免責とされ、柳川平助第10軍司令官は敗戦前の45年1月に病死、師団長クラスで最も虐殺に関与した中島今朝吾第16師団長も敗戦直後に病死していた。

結局、谷寿夫第6師団長が事件の全責任を負わされて処刑される結果となった。第6師団も虐殺に関与してはいるが、主犯とは言い難い。南京軍事法廷で谷寿夫は、

南京大虐殺事件に関係ある、多数の部隊長をまず調査して事件の全貌を明らかにし、ついで真犯人を認定するを正当とするに係わらず……最高指揮官および直下の部隊長と切り離して、被告一人をもって審判の対象となし、しかもこれを真犯人と認定し論断さるるは……不合理、非合法なり

と抗弁している[5]が、これはその通りだろう。

■南京への移送と裁判

谷寿夫の処刑(1947年4月26日)後の継続裁判で「百人斬り競争」の向井・野田両少尉と「三百人斬り」の田中軍吉大尉が戦犯として訴追され、同年11月までにそれぞれ南京に移送された。

※ 田中は戦時中大ベストセラーとなった、山中峯太郎編『皇兵 ― 田中軍吉隊将兵の手記』(1940年)で「悲願三百人斬りの隊長」として紹介されたことで有名になり、これが戦犯指定につながった[6]。

南京軍事法廷における向井・野田・田中の裁判は、訊問開始から一ヶ月半で公開裁判、即日死刑判決という、極めて拙速なものだった。「百人斬り競争」の証拠もほぼ東京日日新聞連載記事だけであり、この杜撰さが後に否定論者たちに付け込む隙を与えることになる。

裁判では、死刑判決の言い渡し後、不服があれば抗弁書を提出すれば当局が審査することが告げられ、向井と野田は、何回か無罪を主張する書面を提出している。この裁判で両少尉は、東京日日新聞に連載された「百人斬り競争」記事は記者が架空の内容を創作したもので、自分たちはそんな競争などしていない、と主張した。彼らの主張の内容を整理すると、次のようになる。

  • 「百人斬り競争」は、無錫で向井・野田と記者らが出会って談笑していた際、派手な武勇伝記事を新聞に出せば当時未婚だった向井の花嫁募集になるだろうという冗談から出たもので、特ダネを探していた浅海一男記者(東京日日新聞)が創作した架空の話である。
     
  • 記事で描写された競争の経路(無錫→常州→丹陽→句容→南京紫金山麓)のうち、記事では常州で向井・野田、丹陽で向井、紫金山麓で向井・野田と記者らが会合したことになっているが、実際には、向井は無錫、野田は無錫と麒麟門東方でしか記者らと会っていない。どちらが何人斬った、という途中経過の報告はすべて記者によるでっち上げである。
     
  • 向井は12月2日に丹陽郊外で負傷したため、以後戦闘に参加していない。相手がいないので当然野田も「競争」などできない。

それでは以下、これらの主張が成立しうるかどうか見ていくことにしよう。

まず、無錫での両少尉と浅海記者らの会話について、野田少尉が判決後に書いたと思われる手記[7]は次のように描写している。

 十年以前のことなれば、記憶確実ならざるも無錫における朝食後の冗談話の一節左のごときものもありたり。

(略)

 記者 「いったい無錫から南京までの間に白兵戦で何人くらい斬れるものでしょうかね」

 向井 「常に第一線に立ち戦死さえなければねー」

 記者 「どうです無錫から南京まで何人斬れるものか競争してみたら。記事の特種を探しているんですが」

 向井 「そうですね、無錫付近の戦闘で向井二○人、野田一○人とするか、無錫から常州までの間の戦闘では向井四○人、野田三○人、無錫から丹陽まで六○対五○、無錫から句容まで九○対八○、無錫から南京までの間の戦闘では向井野田ともに一○○人以上ということにしたら、オイ、野田どう考えるか、小説だが」

 野田 「そんなことは実行不可能だ、武人として嘘名を売ることは乗気になれないね」

 記者 「百人斬り競争の武勇伝が記事に出たら花嫁さんが殺到しますぞ。ハハハ、写真をとりましょう」

 向井 「ちょっと恥ずかしいが記事の種が無ければ気の毒です。二人の名前を借してあげましょうか」

 記者 「記事は一切記者にまかせて下さい」

(略)

しかし、浅海記者が無錫に入ったのは11月27日朝だが、向井・野田両少尉の所属する冨山大隊は26日午後に無錫を占領した後すぐに常州に向けて追撃戦に出発しており、両少尉と浅海記者が無錫で「朝食後の冗談話」をするのは不可能だった。また、リアリティを増すために書いたのだろうが、まだ南京までの進軍経路がわかっていない無錫の段階で今後の経由地をすべて列挙しているのも不自然である。[8]

一方、常州や紫金山麓では新聞記者に会っていないという主張には反証がある。週刊新潮1972年7月29日号に載った、同僚記者やカメラマンたちの証言[9]である。第4報に載った両少尉の写真を撮影した佐藤振寿カメラマンの証言:

「浅海さんたちとは、一つのチームを組んでたんだね。浅海、鈴木、光本、無線の安田、それにカメラの私ね。どこでいっしょになったかは覚えてないが、蘇州から無錫、常州、南京まで、だいたいいっしょだった。鈴木さんは無錫から合流したんだと思うが…。このうち光本さんは京都支局の人で、彼は向井少尉らの属していた十六師団についていた。(略)」

(略)

「とにかく、十六師団が常州(注―南京へ約百五十キロ)へ入城した時、私らは城門の近くに宿舎をとった。宿舎といっても野営みたいなものだが、社旗を立てた。そこに私がいた時、浅海さんが、“撮ってほしい写真がある”と飛び込んで来たんですね。私が“なんだ、どんな写真だ”と聞くと、外にいた二人の将校を指して、“この二人が百人斬り競争をしているんだ。一枚頼む”という。“へえー”と思ったけど、おもしろい話なので、いわれるまま撮った写真が“常州にて”というこの写真ですよ。写真は城門のそばで撮りました。二人の将校がタバコを切らしている、と浅海さんがいうので、私は自分のリュックの中から『ルビークイーン』という十本入りのタバコ一箱ずつをプレゼントした記憶もあるな。

 私が写真を撮っている前後、浅海さんは二人の話をメモにとっていた。だから、あの記事はあくまで聞いた話なんですよ

(略)

「あの時、私がいだいた疑問は、百人斬りといったって、誰がその数を数えるのか、ということだった。これは私が写真撮りながら聞いたのか、浅海さんが尋ねたのかよくわからないけど、確かどちらかが、“あんた方、斬った、斬ったというが、誰がそれを勘定するのか”と聞きましたよ。そしたら、野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲隊の小隊長なんですね。それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして、当番兵が数えているんだ、という話だった。――それなら話はわかる、ということになったのですよ。私が戦地でかかわりあった話は、以上だ」

さらに、第4報の共同発信者である鈴木二郎記者の証言:

 鈴木氏は杭州湾敵前上陸を取材する目的で(十二年)十一月初旬、単身で中国へ渡った。が、行ったらすでに上陸作戦は終わっており、「そこでまあ、南京攻略戦の取材に回ったんです」

 南京へ向けて行軍中の各部隊の間を飛び回っているうちに、前から取材に当たっている浅海記者に出あった。浅海記者からいろいろとレクチュアを受けたが、その中で、「今、向井、野田という二人の少尉が百人斬り競争をしているんだ。もし君が二人に会ったら、その後どうなったか、何人斬ったのか、聞いてくれ」といわれた。

「そして記事にあるように、紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。浅海さんもいっしょになり、結局、その場には向井少尉、野田少尉、浅海さん、ぼくの四人がいたことになりますな。あの紫金山はかなりの激戦でしたよ。その敵の抵抗もだんだん弱まって、頂上へと追い詰められていったんですよ。最後に一種の毒ガスである“赤筒”でいぶり出された敵を掃討していた時ですよ、二人の少尉に会ったのは…。そこで、あの記事の次第を話してくれたんです」

(略)

本人たちから、“向って来るヤツだけ斬った。決して逃げる敵は斬らなかった”という話を直接聞き、信頼して後方に送ったわけですよ。浅海さんとぼくの、どちらが直接執筆したかは忘れました。そりゃまあ、今になってあの記事見ると、よくこういう記事送れたなあとは思いますよ。まるで、ラグビーの試合のニュースみたいですから。ずいぶん興味本位な記事には違いありませんね。やはり従軍記者の生活というか、戦場心理みたいなことを説明しないと、なかなかわかりませんでしょうねえ。従軍記者の役割は、戦況報告と、そして日本の将兵たちがいかに勇ましく戦ったかを知らせることにあったんですよ。武勇伝的なものも含めて、ぼくらは戦場で“見たまま” “聞いたいたまま”を記事にして送ったんです

常州、紫金山麓いずれについても現場に居合わせた当事者による具体的な証言があり、これを否定するのは難しいだろう。また、「百人斬り競争」が浅海記者による創作ではなく、少なくとも両少尉のほうから語った話であることも明らかだ。ちなみにこの週刊新潮記事は、『「南京百人斬り」の“虚報”で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形』というタイトルで浅海記者を誹謗しているのだが、中身をよく読んでみるとまるで違うことが書いてある。発行部数よりはるかに多くの人の目に触れる新聞広告や電車の中吊りでタイトルだけ見せれば「目的」を達成できるからだろうが、右翼雑誌にはよくあるパターンである。

次に、向井少尉は負傷したため隊を離れていた、というアリバイ主張はどうだろうか。こちらについては、両少尉の上官である冨山大隊長から、次のような「証明書」が南京軍事法廷に提出されている[10]。

  受傷証明書  大隊砲小隊長少尉向井敏

 右の者昭和一二年一二月二日、丹陽郊外において左膝頭部盲貫および右腕下膊部盲貫弾片創を受け離隊救護班に収容せられ昭和一二年一二月一五日湯水において部隊に帰隊し治療す。

  右受傷証明書也

  昭和二二年一○月二一日  草場部隊直轄富山大隊長 富山武雄

しかし、これは「証明書」といっても、本当に負傷入院したのであればあるはずの、軍医の発行した証明書ではなく、戦後戦犯裁判の段階になって元上官が私的に書いたものに過ぎず、証明力があるとは言い難い。また、向井少尉の部下であった田中金平伍長が書いた「第三歩兵砲小隊は斯く戦う」には、向井小隊長の負傷については何も書かれていない。当時の向井小隊は既に無錫手前の戦闘で二つしかない歩兵砲の一つを失っており、その上小隊長が負傷入院してしまってはもはや戦闘部隊の体をなさなくなったはずであり、そのような重大事が書かれていないのは明らかにおかしい。さらに、前回紹介した1939年5月19日付東京日日新聞記事で、向井少尉本人が「出征いらい病気もせず、いつも第一線に立って負傷せず、不思議なようです。長期戦に耐え得るように体ができているのでしょう」と、自身の負傷を否定している。[11]

これらの点から見て、向井少尉が丹陽で部隊を離れなければならないほどの傷を負ったというのは、アリバイ作りのための嘘と思われる。

■処刑と、残された遺書

上記のような内容がどの程度検討されたかは不明だが、結局両少尉の主張はいずれも退けられ、1948年1月26日、蒋介石が執行を許可する電報を裁判長宛てに送り、28日、両少尉は「三百人斬り」の田中大尉とともに死刑を執行された。

前年末頃に書かれたと思われる向井少尉の遺書が残っているのだが、この中に興味深い一節がある[12]。

 野田君が、 新聞記者に言ったことが記事になり死の道づれに大家族の本柱を失はしめました事を伏して御詫びすると申伝え下さい、との事です。何れが悪いのでもありません。人が集って語れば冗談も出るのは当然の事です。私も野田様の方に御詫びして置きました。

 公平な人が記事を見れば明かに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞讃されます。書いてあるものに悪い事は無いのですが頭からの曲解です。浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。日本人に悪い人はありません。(以下略)

裁判では一貫して「百人斬り競争」を記者による創作だと主張し続けてきた向井少尉だが、死刑判決が覆せなくなったこの段階では、競争自体は事実だと認めた上で、それは記事にあるとおり正当な戦闘行為であり戦犯に問われるような行為ではなかった、虐殺だと曲解した中国側が悪い、という主張に変わっているように見える。

[1] 笠原十九司 『百人斬り競争と南京事件』 大月書店 2008年 P.248
[2] 同 P.227
[3] 林博史 『BC級戦犯裁判』 岩波新書 2005年 P.83
[4] 笠原 P.230-231
[5] 笠原十九司 『南京事件』 岩波新書 1997年 P.234
[6] 笠原十九司 『百人斬り競争と南京事件』 P.265
[7] 同 P.107-108
[8] 同 P.109-111
[9] 週刊新潮 1972年7月29日号 P.34-36
[10] 笠原十九司 『百人斬り競争と南京事件』 P.147
[11] 同 P.150-152
[12] 巣鴨遺書編纂会 『世紀の遺書』 1953年 P.40-41

(2)初めて語られた真相←【前記事】
【次記事】

 

「百人斬り競争」と南京事件―史実の解明から歴史対話へ

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南京事件論争史―日本人は史実をどう認識してきたか (平凡社新書)

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BC級戦犯裁判 (岩波新書)

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稲田防衛相就任を祝して「百人斬り」事件を振り返る(2)初めて語られた真相

南京大虐殺 歴史認識

■地方の名士

「百人斬り競争」ですっかり有名になった向井・野田両少尉は、その後もいわば「地方の名士」として、たびたび新聞に登場したり、地元で講演を依頼されたりするようになる。下は、大阪毎日新聞鹿児島沖縄版(1938年1月25日付)に掲載された野田少尉に関する記事である[1]。
※ 向井・野田両氏の最終軍歴は少尉ではないが、ここでは「百人斬り競争」実行時の階級である「少尉」に統一して表記する。

百人斬り

二百五十三人を斬り 今度千人斬り発願

さすがの“波平”も無茶苦茶

野田部隊長から朗信

南京めざして快進撃を敢行した片桐部隊の第一線に立って、壮烈無比、阿修羅のごとく奮戦快絶“百人斬り競争”に血しぶきとばして鎬しのぎを削った向井敏明、野田毅両部隊長は晴れの南京入りをしたが、その血染の秋水に刻んだスコアは一○六=一○五、いづれが先きに百人斬ったか判らずドロンゲームとなったが、その後両部隊長は若き生命に誓ってさらに一挙“千人斬”をめざし野田部隊長は□□の敗残兵掃蕩に二百五十三人を斬った、かくして熱血もゆる両部隊長の刃こぼれした白刃に刻んでゆく“血刃行”はどこまで続く?……

このほど豪快野田部隊長が友人の鹿児島牌枕崎町中村碩郎氏あて次のごとき書信を寄せたが、同部隊長が死を鴻毛の軽きにおき大元帥陛下万歳を奉唱して悠々血刃をふるふ壮絶な雄姿そのままの痛快さがあふれてをり、“猛勇野田”の面目躍如たるものがある――


 目下中支にいます……約五十里の敵、金城鉄壁を木ッ葉微塵に粉砕して敵首都南京を一呑みにのんでしまった、極楽に行きかかったのは五回や十回じゃないです、敵も頑強でなかなか逃げずだから大毎で御承知のように百人斬り競争なんてスポーツ的なことが出来たわけです、小銃とか機関銃なんて子守歌ですね、迫撃砲や地雷といふ奴はジャズにひとしいです、南京入城まで百五斬ったですが、その後目茶苦茶に斬りまくって二百五十三人叩き斬ったです、おかげでさすがの波平も無茶苦茶です、百や二百はめんどうだから千人斬をやろうと相手の向井部隊長と約束したです、支那四百余州は小生の天地にはせますぎる、戦友の六車部隊長が百人斬りの歌をつくってくれました

(略)

 まだ極楽や靖国神社にもゆけず、二百五十三人も斬ったからぼつぼつ地獄落ちでしょう、武運長久(われわれは戦死することをかく呼んでいます)を毎日念じています、小生戦死の暁は何とぞ路傍の石塊を拾ひて野田と思ひ酒、それも上等の酒一升を頭から浴びせ、煙草を線香の代りに供へられ度、最後に大元帥陛下万々歳……(写真は野田毅部隊長)

こちらは東京日日新聞(1939年5月19日付)で報じられた、その後の向井少尉に関する記事[2][3]。

百人斬り

戦死した競争相手に「孫六」手向けの斬れ味

向井中尉漢水戦線にあり

【漢水東方地区にて十八日西元特派員発】 わが木村、恒広、中西の諸部隊が炎熱百度を超え、クリークの水も沸く物すごい暑さの中を湖北平原の山岳地帯に堅固な陣地を築いていた敵将張自忠麾下の敵兵十数個師を包囲攻撃中、これに従軍した記者は、ある日寺荘という小部落で奮戦中の向井中尉にひょっこり出会った。

同中尉は一昨年南京戦の折、戦友の野田中尉と百人斬りを約して愛刀関孫六で敵兵百七人を斬り殺した勇敢な青年将校である。南京戦後長く伸びた髭を落として戦友野田中尉とさらに五百人斬りを約し、徐州、大別山、漢口、鏑祥と各地に奮戦、敵兵三百五人を斬ったが、野田中尉が海南島において戦死し、今は一人で約束の五百人斬りを果たすために奮闘している。

実は向井中尉の念願は千人斬りだそうで、記者が「孫六は斬れますか」とはなしかけると、朴訥な中尉は次の如く語った。

 「よく斬れます。ちょっと剣先がひっかかりますが、自信を持っているから大丈夫です。出征いらい病気もせず、いつも第一線に立って負傷せず、不思議なようです。長期戦に耐え得るように体ができているのでしょう。ただ部下を死なせて申し訳ないと思っています。それだけが残念です。遺族の方々に悔やみの手紙を出したのみで、千人斬りがやれないので残念だ。私は野田中尉と別れてから一人で約束の五百人斬りを果たすために一生懸命やっています。今日まで三百五人斬りました。部隊長が槍をもっておられるので、負けないように奮闘する決心です」

(写真は一昨年南京戦線における百人斬り競争当時の〈右〉故野田少尉と〈左〉向井少尉)

※野田少尉は戦死などしておらず、これは誤報。野田死亡説が流布した理由については、彼が後に参謀本部付南機関に配属され、特務工作の仕事に従事するようになった結果、公的な場から姿を隠すようになったこととの関連が指摘されているが真相は不明。[4]

上の記事での野田少尉は、「百人斬り競争」のときと同様、勇猛果敢な豪傑風の言動を続けている。ところがその同じ野田氏が、母校である小学校の後輩たちへの講演では、まったく違う話をしているのだ。

■野田少尉の母校での講演 ― 志々目証言

野田少尉は1939年の春に母校である鹿児島県師範学校附属小学校を訪れ、在校生たちに「百人斬り競争」の話をした。これを聞いた志々目彰氏は、後に野田氏の話の内容とそこから受けた印象を次のように書いている[5]。

 戦記雑誌『丸』が11月号で「日中戦争の全貌」という特集をしている。その中に当時毎日新聞社会部陸軍報道班員鈴木二郎氏の「私はあの“南京の悲劇”を目撃した」という貴重な回顧録がある。

 この文章は、栄誉をかけた“百人斬り競争”として二名の青年将校が南京攻略戦の中で二百名以上の中国兵を日本刀で切り捨てたことから始まっている。ところがこの事を、私は小学校の時本人から聞いて知っていた。それは私にとって“中国体験”のはじまりでもあった。

                 *

 それは小学校卒業の一年前、昭和十四年の春だったにちがいない。生徒を前にA先生が「いちばん上級となった君たちに」といったのと、これで上級生がいなくなってせいせいするぞという解放感で気持ちが弾んでいたのとを記憶している。A先生はわが校の先輩であるというパリパリの青年士官をつれてきた。陸軍士官学校を出てまだ何年もたたないというその若い将校のキビキビした動作、ピンと前の立った士官帽をはっきりと思い出す。

 私の出た学校は鹿児島県師範学校附属小学校。父は県庁の下級官吏で、本来この学校へこどもを出せる階級ではなかった。私も附属特有のお坊っちゃんムードが嫌いで、それに勉強も好きでなかったから、毛並みのいい級友たちとは一歩距離があった。鹿児島というところは軍人の産地で、中学で少しできる奴は身体がよければ海軍兵学校陸軍士官学校へ進む土地柄であった。(略)

 さて、小学生を前にしたN少尉は、ずいぶんくつろいでいたようだ。世間でみる軍人という堅い感じは少しもなく、また私たちが数年後に自ら体験した気負いもなかったと、今にして思う。それは戦火をくぐりぬけてきた人の落ちつきであったのかもしらないが、やはり母校の小学生、身内に話しているという気軽さでもあったのだろう。たんたんと話した内輪話は、ほぼ次のようなものであった。
 

「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ……

 実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない……

 占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る……

 百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ……

 二人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない……」
 

 これを聞いて、私の頭には新聞写真で見たような敵の陣地が浮かんできた。腰を丸め手をあげてゾロゾロ出てくる中国兵……なぜ中国兵は逃げないのだろう? 反抗しないのだろう? 兵士がみんな馬鹿ということがあるだろうか。

 そのほかにも「中支戦線」や戦場生活の話を聞いた筈だが、忘れてしまっている。

「ニーライライというと、シナ兵はバカだからぞろぞろと出てくる……」という言葉は今でもはっきり覚えている。「ニーライライ」というのは、お前来い来い、という意味だそうだ。これは竹内好さんや安藤彦太郎さんたちのいう“兵隊シナ語”の一種でもあったのだ。

 その頃の私たちには、斬られた中国兵のために憤り、或いは同情する“ヒューマニズム”はなかった。その中国の兵たちにも自分のような弟がいるかもしれないなどとは、思ってもみなかった。軍人になろうとしている兄貴を慕っていた私だから、そんな類推ができない筈はなかったのに……

 だが、白兵戦では斬らずに戦意を失って投降した敵を斬るという“勇士”の体験談は、私にはショックだった。ひどいなあ、ずるいなあ。それ以上のことは幼い自分には分らなかった。これでいいのだろうか、そんな軍と軍人で果して“聖戦”が可能なのだろうか。陸軍幼年学校に入り、国軍の生徒としての教育をうけるようになってから、そのことをあらためて思い出すようになっていた。(後略)

「百人斬り競争」とは言うが、連載記事で描かれたような戦闘中に敵兵を斬ったケースはむしろ例外で、ほとんどは投降した無抵抗の中国兵を据物斬りにしたものだったという真相が、当事者の口から初めて語られたことになる。

なお、この志々目証言は後の「百人斬り訴訟」で原告側から攻撃されるが、志々目氏の小学校の同級生である辛島勝一氏も同じ講演で野田少尉から捕虜を斬殺した話を聞いたと述べており、判決でその信憑性が認められている[6]。また、野田少尉はこのとき鹿児島一中でも講演をしており、全校生徒を前に剣道場で捕虜の据物斬りの格好をして見せたとの証言を秦郁彦が確認している[7]。

[1] 星徹 『「百人斬り競争」を裏づける新史料を発見!』 週刊金曜日 2004年4月23日号
[2] 小野賢治 『報道された無数の「百人斬り」』 戦争責任研究 2005年冬号
[3] 笠原十九司 『「百人斬り競争」と南京事件』 大月書店 2008年 P.199-200
[4] 同 P.209
[5] 志々目彰 『日中戦争の追憶 “百人斬り競争”』 月刊中国 1971年12月号
[6] 笠原 P.203
[7] 同 P.136

(1)事件当時の報道←【前記事】
【次記事】→(3)逮捕・裁判・処刑

 

「百人斬り競争」と南京事件―史実の解明から歴史対話へ

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南京大虐殺と「百人斬り競争」の全貌

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南京事件論争史―日本人は史実をどう認識してきたか (平凡社新書)

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中国の旅 (朝日文庫)

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南京への道 (朝日文庫)

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GeForce GTX 1060を衝動買いしてしまった件w

パソコン

 

あまり重いゲームなどはしないので、グラフィックボードは5年前に購入したGeForce GTX 560Ti(MSI N560GTX-Ti Hawk)をずっと使い続けてきたのだが、新しいPascalアーキテクチャのミドルレンジGPUGeForce GTX 1060」の評判がいいのを見て、つい衝動買いしてしまった。

今回購入したのはこちら:ZOTAC GeForce GTX 1060 AMP! Edition

■仕様比較

新旧両機種の仕様を比較してみると、次のようになる。

 

MSI N560GTX-Ti Hawk

ZOTAC GeForce GTX 1060 AMP! Edition
GPU

GeForce GTX 560Ti

GeForce GTX 1060

CUDAコア数

384

1280

プロセッサクロック

950 MHz (OC)

1556→1771 MHz

メモリ

GDDR5 1GB

GDDR5 6GB

メモリクロック

4200 MHz (OC)

8000 MHz

メモリバス幅

256 bit

192 bit

PCI Express

2.0

3.0

DirectX

11

12

OpenGL

4.1

4.5

SLI

×

TDP

180W

120W

補助電源

6pin x 2

6pin x 1

外形寸法

244x117mm (2スロット)

210x128mm (2スロット)

ZOTAC GeForce GTX 1060 AMP! Editionで特徴的なのは、まずそのボード長の短さだ。これまで使ってきたMSIのボードと比べると30mm以上も短い。(実は今回MSI製品を選ばなかったのは、今までのものより更にボード長が長くなっていたため。)さらに、TDPが低くなった分、補助電源も6pin x 1で済むようになった。

ZOTACのGTX 1060ボードには、シングルファン仕様のさらに短い174mmの製品もある。小型ケースの場合はこちらを選ぶのもいいだろう。

ちなみに、グラフィックボード以外のシステム構成は以下のとおり。(4年前に組んだ自作PC。)

CPU Intel Core i7 3770K (3.5GHz)
メモリ DDR3 32GB (800MHz)
マザーボード ASRock Z77 Extreme6
ストレージ C: Intel SSD 330 (120GB)
D: WD HDD WD5000AAKS (500GB)
OS Windows 10 Pro 64bit

ベンチマーク

GeForceシリーズは500→600→700→900→1000と、旧機種から4世代も進んでいるので、同じミドルレンジとはいえ相当な性能向上が期待できる。

性能比較には定番の3DMarkフリー版を利用した。最新のDirectX 12用ベンチマークは”Time Spy”だが、560Tiでは実行できないため、DirectX 11用の”Sky Diver”を使って比較した。結果は以下のとおり。(画像クリックで拡大)

MSI N560GTX-Ti Hawk

ZOTAC GeForce GTX 1060 AMP! Edition

20160818212847 20160818212911
20160818212946 20160818213010

GPU性能を評価するGraphics testのスコアが4倍近くになり、大幅な性能向上を示している。CPUでの物理演算性能を評価するPhysics testのスコアは当然ほぼ変わらないが、それを加味した総合評価でもGTX 560Tiに比べ2.5倍程度のスコアとなった。数年前のPCでも、GPUの1000系への換装により、大幅なグラフィック性能の向上が得られることが分かる。

ちなみに、”Time Spy”および”Fire Strike”のスコアは以下のとおり。(画像クリックで拡大)

Time Spy

Fire Strike

20160819081316 20160819082007

■まとめ

実際に某ゲームで使ってみた感想から言うと、FPSの向上はもちろんだが、とにかく「静かになった」のが実感できる。以前はグラフィックボードのファンが全速回転で唸っていたような場面でも気になるほどのノイズは発生せず、また負荷の軽いシーンではファンが自動停止して無音となる。

まだ使い始めて日が浅いので耐久性等については評価できないが、今のところ何の問題もなく安定して動作しており、これは十分お勧めできる製品だと思う。

ちなみに、ZOTAC製グラフィックボード購入時の注意点としては、製品にユーティリティはもちろんドライバすら付属していないため、最低限ドライバだけはnVIDIAのサイトからダウンロード・インストールしておく必要がある。

他社の製品も性能的には大差ないと思うので、あとはボードのサイズ、補助電源、映像出力端子の種類と数などから自分に最適な製品を選べばいいだろう。

 

 

稲田防衛相就任を祝して「百人斬り」事件を振り返る(1)事件当時の報道

南京大虐殺 歴史認識


今年8月3日、稲田朋美氏は第三次安倍内閣内閣改造に伴い、防衛大臣に就任した。2005年の初当選からわずか11年、防衛関係の政策を担当したこともない議員がいきなり国家安全保障の要とも言うべき要職に就くとは、大変な抜擢人事である。

そこで、このような大出世を遂げた稲田氏の素晴らしい業績を紹介しようと思ったのだが、どうも議員になってからのお仕事には業績らしいものが見当たらない。では、政治家になる前の弁護士時代の仕事から…となると、やはり原告側弁護人として最高裁まで裁判を闘った「百人斬り訴訟」だろう。なにしろ、この裁判についてはご著書まであるくらいだから、ご本人の思い入れも一入のものがあると思われる。

というわけで、稲田氏の目出度い防衛相就任を機に、改めてこの事件について振り返ってみるのも有意義ではないだろうか。

■発端…東京日日新聞1937年11月30日付朝刊(第1報)

「事件」は日中戦争時、日本軍が上海周辺から中国の首都南京を目指して怒涛の進撃を続ける過程で発生した。二人の青年将校が、それぞれ戦場に持参した伝家の宝刀を使って、どちらが先に百人の中国兵を斬り殺せるか競争しているというのだ。報道によると、この第1報の時点で既に二人合わせて80人を斬っている。

百人斬り記事

百人斬り競争! 両少尉、早くも八十人

常州にて二九日浅海、光本、安田特派員発】 常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたった三日間で突破した。まさに神速、快進撃。その第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある。無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は二十五人斬りを果たしたという。一人は富山部隊向井敏明少尉(26)=山口県玖珂郡神代村出身= 一人は同じ部隊野田毅少尉(25)=鹿児島県肝属郡田代村出身= 銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。

無錫進発後向井少尉は鉄道路線二十六、七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり一旦二人は別れ、出発の翌朝野田少尉は無錫を距る八キロの無名部落で敵トーチカに突進し四名の敵を斬って先陣の名乗りをあげこれを聞いた向井少尉は奮然起ってその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた。

その後野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、二九日常州駅で六名、合計二十五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名斬り、記者等が駅に行った時この二人が駅頭で会見している光景にぶつかった。

 向井少尉  この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらい斬ることになるだろう。野田の敗けだ。俺の刀は五十六人斬って歯こぼれがたった一つしかないぞ。

 野田少尉  僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしています。僕は○官をやっているので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ。

■躍進…1937年12月4日付朝刊(第2報)

敵国首都南京への快進撃に国民は熱狂し、二人の「勇士」が百人斬り競争をしているという報道が伝わると、両少尉はたちまち有名人となった。記者たちは二人の所属部隊を追って続報を出し続けることになる。

百人斬り記事

急ピッチに躍進 百人斬り競争の経過

【丹陽にて三日浅海、光本特派員発】 既報、南京までに『百人斬り競争』を開始した○○部隊の急先鋒片桐部隊、富山部隊の二青年将校向井敏明、野田毅両少尉は常州出発以来の奮戦につぐ奮戦を重ね、二日午後六時丹陽入場までに、向井少尉は八十六人斬、野田少尉六十五人斬、互いに鎬を削る大接戦となった。

常州から丹陽までの十里の間に前者は三十名、後者は四十名の敵を斬った訳で壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである。今回は両勇士とも京滬鉄道に沿う同一戦線上、奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(いずれも丹陽の北方)の敵陣に飛び込んでは斬りに斬った。

中でも向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負ふなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつつある。記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する富山部隊を追ひかけると、向井少尉は行進の隊列の中からニコニコしながら語る。

 野田のやつが大部追いついて来たのでぼんやりしとれん。野田の傷は軽く心配ない。陵口鎮で斬った奴の骨で俺の孫六に一ヶ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人斬れるぞ。東日大毎の記者に審判官になって貰うよ。

■大接戦…1937年12月6日付朝刊(第3報)

百人斬り記事

《89-78》〝百人斬り〟大接戦 勇壮!向井、野田両少尉

【句容にて五日浅海、光本両特派員発】 南京をめざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井、野田両少尉は、句容入城にも最前線に立って奮戦、入城直前までの戦績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名という接戦となった。

■決着はつかないまま「延長戦」へ…1937年12月13日付朝刊(第4報)

東京日日新聞の一連の記事の最後は、南京陥落前日の12月12日、孫文の陵墓のある紫金山の山麓で二将校に面会し、インタビューしたものである。二人とも目標の「百人斬り」は達成したものの、結局どちらが先に百人斬ったかが分からないため勝負は引き分け、改めて「百五十人斬り」を目指して勝負再開、という話で終わっている。

百人斬り記事

百人斬り〝超記録〟 向井106-105野田 両少尉さらに延長戦

【紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発】 南京入りまで〝百人斬り競争〟といふ珍競争を始めた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五というレコードを作って、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した。

野田「おいおれは百五だが貴様は?」 向井「おれは百六だ!」……両少尉は〝アハハハ〟結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「じゃドロンゲームと致そう、だが改めて百五十人はどうじゃ」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた。十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が「百人斬ドロンゲーム」の顛末を語つてのち、

 知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快じゃ。俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからじゃ。戦い済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ。十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を「えいままよ」と刀をかついで棒立ちになっていたが一つもあたらずさ。これもこの孫六のおかげだ。

と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。

(写真説明)〝百人斬り競争〟の両将校 (右)野田巌少尉 (左)向井敏明少尉
                =常州にて佐藤(振)特派員撮影=

※本記事中の「巌」は誤字。正しい名前は「毅」。

このように、事件をリアルタイムに伝えた東京日日新聞の一連の記事では、両少尉の行為は戦闘中に敵兵を斬った武勇伝として描かれ、勇猛果敢な皇軍の姿を求める読者から熱烈に支持された。

【次記事】→(2)初めて語られた真相
 

「百人斬り競争」と南京事件―史実の解明から歴史対話へ

「百人斬り競争」と南京事件―史実の解明から歴史対話へ

 
南京大虐殺と「百人斬り競争」の全貌

南京大虐殺と「百人斬り競争」の全貌

 
南京事件論争史―日本人は史実をどう認識してきたか (平凡社新書)

南京事件論争史―日本人は史実をどう認識してきたか (平凡社新書)

 
中国の旅 (朝日文庫)

中国の旅 (朝日文庫)

 
南京への道 (朝日文庫)

南京への道 (朝日文庫)

 

 

「重度障害者を死なせることは決して悪いことではない」と嘯く自称「愛国者」たち

人権 差別

障がい者大量殺傷事件が暴露した自称愛国者たちの本音

今回の障がい者大量殺傷事件は、図らずも《安倍支持者=ネトウヨ・ネトサポ=自称愛国者=自称「普通の日本人」》たちの本音をあぶり出す試薬のような役割を果たす結果となった。

彼らの多くが、「障がい者は殺せ」という、この容疑者の主張に理解を示しているのだ。その典型的な例が、「自民党ネットサポーターズクラブ会員として愛国という視点から自らの意見を論理的に述べるブログ」だという某ブログに載った次の記事だろう。

重度障害者を死なせることは決して悪いことではない

(略)

 植松は「障害者なんていなくなってしまえ」と供述しているという。あまりにも卑劣な犯行でさっさと死刑にするのが一番であるが、植松の言葉自体には実は聞く価値のある部分もある。それは「障害者は邪魔である」という観点だ。この施設には知的障害のある人たちがたくさんいたのだ。

 考えてみてほしい。知的障害者を生かしていて何の得があるか?まともな仕事もできない、そもそも自分だけで生活することができない。もちろん愛国者であるはずがない。日本が普通の国になったとしても敵と戦うことができるわけがない。せいぜい自爆テロ要員としてしか使えないのではないだろうか?つまり平時においては金食い虫である。

 この施設では149人の障害者に対し、職員が164人もいる。これではいくら職員を薄給でき使わせたところで採算が取れるはずもない。そんな状況では国民の税金が無駄に使われるのがオチである。無駄な福祉費を使わなくて済ませることが国家に対する重大な貢献となる。だからこそ植松が言うように障害者はいなくなるべきなのである。

 おりしも都知事選が行われているが、万が一鳥越俊太郎が都知事になったら大変だ。鳥越の福祉政策は私たち愛国者の理想とは180°違うからだ。日本を良くするためにも鳥越を都知事にしてはいけない。今回の件でいかに重度障害者の現実が大変であるかわかるだろう。少しでも負担を少なくするためにも正しい政策を実行しなければいけない。そしてそれに逆行する政治家は正義の鉄槌を下さなければならない。

「無駄な福祉費」を削り、障がい者に一切税金を使わなくなれば、その多くは追い詰められた家族に介護殺人や無理心中という形で殺されるか、あるいは餓死することになるだろう。この記事の筆者は、そうするのが「正しい政策」なのだと言いつつ、障がい者を刺殺した容疑者の行為は「あまりにも卑劣な犯行でさっさと死刑にするのが一番」だと言う。ネトウヨの「論理」とは、まあこの程度のものだ。

もう一点指摘しておくと、日本の障がい者福祉予算はGDP比でOECD加盟国平均の半分程度(約0.2%)と低く、年に1.1兆円程度(2011年)でしかない。一方、安倍政権は人気取りの株価維持目的で株式市場に年金積立金を投入し、昨年度の1年間だけで5.3兆円もの損失を出した。今年度の損失額は既にこれを上回っているだろう。しかし、自称愛国者たちからは、莫大な額の公共財産を無駄に溶かした安倍やGPIF幹部を殺せといった声は、なぜか少しも聞こえてこない。

上の記事の筆者は何か書いていないかと見てみたら、なんと「5兆円損失はデマだ、なぜなら報道しているのが朝日新聞だからだ」という、斜め上すぎる主張をしていた。繰り返しになるが、ネトウヨの「論理」とは、まあこの程度のものだ。

■なぜ障がい者を殺してはならないか

それはもちろん、相手に障がいがあろうがなかろうが、人間に他者の「命の価値」を選別して抹殺する権利などないからだが、民を自分の利益に奉仕させるための道具としか見ない支配層の意識を(支配される側のくせに)内面化してしまっている自称愛国者たちには、そんな当然の道理も理解できないのだろう。

そこでここでは、少し違う方向からの説明を試みることにする。

自身も全盲と全ろうの重複障害を持つ障がい者である福島智氏(東大先端科学技術研究センター教授)は、次のように述べている。(毎日新聞 7/28

 被害者たちのほとんどは、容疑者の凶行から自分の身を守る「心身の能力」が制約された重度障害者たちだ。こうした無抵抗の重度障害者を殺すということは二重の意味での「殺人」と考える。一つは、人間の肉体的生命を奪う「生物学的殺人」。もう一つは、人間の尊厳や生存の意味そのものを、優生思想によって否定する「実存的殺人」である。

(略)

 こうした思想や行動の源泉がどこにあるのかは定かではないものの、今の日本を覆う「新自由主義的な人間観」と無縁ではないだろう。労働力の担い手としての経済的価値や能力で人間を序列化する社会。そこでは、重度の障害者の生存は軽視され、究極的には否定されてしまいかねない。

 しかし、これは障害者に対してだけのことではないだろう。生産性や労働能力に基づく人間の価値の序列化、人の存在意義を軽視・否定する論理・メカニズムは、徐々に拡大し、最終的には大多数の人を覆い尽くすに違いない。つまり、ごく一握りの「勝者」「強者」だけが報われる社会だ。すでに、日本も世界も事実上その傾向にあるのではないか。

 障害者の生存を軽視・否定する思想とは、すなわち障害の有無にかかわらず、すべての人の生存を軽視・否定する思想なのである。私たちの社会の底流に、こうした思想を生み出す要因はないか、真剣に考えたい。

こちらは木村草太氏(憲法学者)の意見。(沖縄タイムス 8/7

 今回の事件から連想すべきは、多くのメディアが指摘するように、ナチス優生学だろう。優生学とは、人間の生を、国家や社会にとって有意義なものとそうでないものに分別し、後者を排除しようとする思想だ。

 米本昌平氏が指摘したように、優生学が厄介なのは、それが不合理な感情論ではなく、合理性を突き詰めた発想である点だ。経済発展や軍事的勝利など、狭い視野に基づく目的を至上命題としたとき、「足手まとい」に見える生はいろいろある。ナチスは、障がい者を「国家の発展のために排除されるべき生」と位置づけ、虐殺したのだ。

(略)

 優生学を克服するには、「そんな発想は不合理だ」と非難するのではなく、その合理性をさらに突き詰めた時の結論と向き合うしかない。

 障がい者を排除すれば、障がい者の支援に充てていた資源を、他の国家的な目標を実現するために使えるだろう。しかし、それを一度許せば、次は、「生産性が低い者」や「自立の気概が弱い者」が排除の対象になる。

 また、どんな人でも、社会全体と緊張関係のある価値や事情を持っているものだ。たばこを吸う人、政府を批判する人なども、社会の足手まといとみなされるだろう。国家の足手まといだからと、誰か1人でも切り捨てを認めたならば、その切り捨ては際限なく拡大し、あらゆる人の生が危機にさらされてしまう。

 だからこそ、「個人の尊重」という価値を、他のあらゆる国家的価値に優先させる必要がある。ドイツではナチスへの反省から、憲法ボン基本法)の冒頭に、「人間の尊厳」が規定されるに至った。日本国憲法も、人権条項の中核として、第13条に「個人の尊重」がうたわれている。

 今回の事件は、私たちの社会が、「個人の尊重」という価値を根付かせることに失敗しているかもしれないことを示唆している。個人の尊重のために、あらゆる努力を尽くさなくてはならない。

福島氏と木村氏が言っているのは、基本的には同じことだ。人間を役に立つものと立たないもの、価値生産能力のあるものとないものとに切り分け、後者を排除(究極的には抹殺)しようとする優生思想は、一度認めてしまえば、際限なくエスカレートしていく。

想像してみればいい。ある日、国家の足手まといになるという理由で、重度障がい者たちの抹殺が決定されたとする。自称愛国者たちは快哉を叫ぶかもしれないが、それで果たして終りになるだろうか?

そんなことをする国家とはどんな代物か。それは、人民を国家への貢献度でランク付けし、全生涯をかけて互いに競争させ、最下位とされた者たちを次々と切り捨てることで、より効率的で強力なものになっていこうとする国家である。だから、障がい者たちの排除が終われば、次は多額の医療費を必要とする難病患者、介護施設でしか生きられない高齢者、長期間生活保護から抜け出せない者、犯罪歴のある者、ギャンブルや投機に失敗して破産した者、コミュニケーション能力が低く職場に迷惑をかける者など、次々と排除の対象が広がっていくことになる。自宅警備員をしながらネットにヘイトを書き散らすことしかできないネトウヨなど、排除の対象とされるまでそう長くはかからないだろう。

そしてもう一つ大切なこと。それは、一般人であるあなたは、決して「誰が生きるに値するか」を決める側にはなれないということだ。それを決めるのは、自分自身では労働などする必要がない者たちである。

自分は果たして最後まで生き残る側にいられるのかどうか、そもそも、そんな者たちの利益のために生産能力をアピールし、弱者を蹴落とす人生が幸せなものなのか、「愛国者」や「普通の日本人」を自称する者たちは一度胸に手を当ててじっくり考えてみてはどうか。

 

ネットと愛国 (講談社+α文庫)

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生活保護リアル

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