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マスコミやネットにあふれる偏向情報に流されないためのオルタナティブな情報を届けます。

元新米特高警察官の悔恨

警察 政治屋 人権

戦前戦中の「思想犯」「非国民」取り締まりで暴虐の限りをつくし特高警察。

その特高警察の中でも、課長級以上の特高官僚たちは戦後のほとぼりが冷めると次々と復活し、特高時代のおのれの罪業を反省することもなく、平然と国会議員をはじめ多くの要職を占めた敗戦直後に戦争犯罪の証拠文書類を焼かせた奥野誠亮鹿児島県特高課長の経歴を持つ)もその一人である。

しかし、末端の元特高警察官の中には、贖罪のための活動を続けている人もいる。

中日新聞(2005/8/4):

もの言えぬ時代告発 元特高警官、贖罪の日々
 
 ドラム缶から立ちのぼる熱気が、かげろうのようにゆらめいていた。

 1945(昭和20)年8月15日、日本が負けたあの日の昼下がり。いったいどちらが正しかったのか。大阪・八尾警察署の小さな中庭で、24歳の井形正寿はゆらいでいた。

 井形は新米の特高特別高等警察)警官だった。「反戦」などを口にする“非国民”を取り締まり、国民こぞって戦争へと駆り立てるのが「トッコウ」。

 井形は初め在日朝鮮人を受け持った。近くの高校へ出向き、優秀すぎる在日生徒がいたら成績を落とす。子どもの足をひっぱるのは愉快ではないが「命令」に逆らえるはずもない。

 「書類をぜんぶ焼け」。あの日、玉音放送を耳にした後で、こう命じられた。背の小さいその上司は日ごろ「共産主義者朝鮮人なら殺してもいい」と公言する、ごくふつうの特高警官だった。

 火をたいたドラム缶へ資料を放り込んでいたとき、ふいに手を止めてしまった。目に入ったのは「不穏文書」と呼んでいた反戦投書を撮影したマル秘写真。

 「私は日本が戦争に負けてもよいから、1日も早く戦争がすめばよいと思います」「天皇があるために国民がどれだけ迷惑か」

 ぞくり、とした。手にしているのは「死すら覚悟してものを言った抵抗の証し」。追う側と追われた側。正しかったのはどっちか。気がつくとポケットへねじこんでいた。初めての命令違反。心臓が波打った。

 戦後、井形は投書の主を捜し続けた。特高の記録書からようやく1人の住所をつかんだとき、あの日から30年余がすぎていた。

 その人は獄死していた。ぴんとはねた口ひげが良く似合う頑固そうな男だった。かえってきた遺体には無数のあざがあったという。

 妻は「国賊」のそしりを恐れ、近所や親類にも夫の獄死を隠していた。「どうかそっとしておいてください」と言い、拳をぎゅっと握った。思い知った。「戦争は終わっていない」

 特高が消え、公職追放された後、井形は大阪市内でヤミ屋や不動産業を営み口を糊(のり)してきた。公安調査庁へ再就職の誘いもあったが、お上の仕事にもう魅力は感じなかった。

 今では、語り部として自由にものが言えなかった時代のことを訴えている。「死ぬまでもの言い続けること」。それが井形にとって贖罪(しょくざい)だ。

井形氏は特高と言っても敗戦時点でもまだ新米で、自分で手を下した経験もないので、そもそも謝罪すべき立場にないとも言えるのだが、とにかく彼は真摯な反省を行っている。一方で、「思想犯」たちを殴り殺した実行犯たちや指揮命令者たちはどうか?

NHKの戦争証言アーカイブスで、井形氏の詳しい証言を聞くことができる。以下は、獄死した反戦投書の主の遺族を探し当てたときのもの。

Q:その電話の相手はどなただったんですか。

電話はね、かけた時に、お盆のちょっと前でしたかね、電話かけたら、おばあちゃんいうか。

Q:奥さま。

奥さんがいらっしゃいますかと言ったら、はい私や、私ですと言った。それであなたはなぜ、うちの主人のことを知りたいんだと言ったら、向こうは、あなたはうちの主人を逮捕した人ですかという話が返ってきたんで、いやそうじゃないんだと、そういうね、いろんな手紙を出して、逮捕されたいうことが記録されているもんがあるので電話を入れましたと(略)その人たちの家族が無事にね、もしいらっしゃるのであれば会いたいと思うので、電話を入れたと言ったら、いやうちの主人は死んだと、亡くなられたんですかと言ったら、いや実際は殺されたんです、どこでですかと言ったら、堺の刑務所やと、その時は詳しいことは聞くことはできないから、日にちを改めて、まいります言うことで、お盆に近い日に電話をかけたもんですからね、じゃあお盆の日にね、8月15日の日にお伺いしますということで電話を切ってわかれた。

Q:そして実際に会った時はどうだったんですか。

いやそれは会った時はね、あの息子さんもね、孫の方も立ち会いでね、仏壇にちょっと拝ましてくれいうて、お盆やったからね、そしたら仏壇の上にね、カイゼルひげをね、はやした、亡くなった時は50代のはずですがね、それで立派な方やなあと、思って拝ませて頂いた。ああ。

Q:その時、奥様とはどんなお話をされたんですか。

特高月報に出てる範囲のね、あの分かりやすいね、とやかくまああの持って行ったのを読みあげたら、こんなことでね、殺されなければならなかったんだろうか、どういうことで亡くなられたんかと言ったら、本当は20年の春に刑期が終了するのでね、帰るという便りが前年の19年の末くらいに来てたと、だから帰ってくるとばっかり思ってたのに、その19年の年末ぐらいの時に電話が突然かかってきて、ちょっとこいと言うね。

Q:刑務所に。

刑務所に来いと言う連絡があったので、担当してもらった弁護士さんにね、電話があったので、取るものもとりあえず堺の刑務所へ伺ったと、どういう状況でしたかと言うね、ことを伺ったら、机の上に、丸棺のね、棺桶が1つポツンと乗っておって、ほいで弁護士と棺桶の中見たらね、真っ裸で、入れてあられたと

Q:棺桶の中に入っていたと。

それで弁護士と2人で、覗き込んだらね、体中斑点だらけで、弁護士が、ああやられたなあと言ったとね、自分もふと見たら、体中斑点だらけやったと、ほいで、もう涙も出なかったと、着物の、浴衣の1つでも持って行ってね、着せたかったとね、その直後にもうすぐね、棺桶が別室に運ばれて火葬になったらしいんやね。

Q:反戦の手紙が理由で命を落とす、落とした人がいたっていうことを知って、井形さんもその特高のことをちゃんと伝えなければいけないなと。

そうあの、僕はね、その、私の持っているね、あの文書の中からね、1つだけ分かったんはその方ですわな、本当に自分がいろいろ調べた結果。

Q:差出人がですね。

せやから貴重なことやと思ってんですわ、だから出来るだけこの話をね、語らないかんときは言うわけですよ。自分自身が体験した中で、戦後追跡して行ってね、初めは分からなんだが分かって、その結果は獄中で殺されてたと、最後の結末を聞いて、まあ残念の極みですわね。

日本の戦後処理の最大の過ちは、侵略したアジア諸国に謝罪できなかったこと以上に、国内での不当な弾圧犠牲者の名誉回復と真相究明、加害者の糾弾ができなかったことにある。反戦投書ひとつで虐殺された犠牲者の遺族が戦後も「国賊」呼ばわりを怖れて息を潜めていなければならなかったのに、人殺しどもは平然とのさばり続けたのだ。

こんな国に正義などあるはずがない。
 

告発戦後の特高官僚―反動潮流の源泉

告発戦後の特高官僚―反動潮流の源泉

 
「特高」経験者として伝えたいこと

「特高」経験者として伝えたいこと

 
特高警察 (岩波新書)

特高警察 (岩波新書)

 
思想検事 (岩波新書)

思想検事 (岩波新書)

 

 

勾留中の警察署内で被疑者が「挫滅症候群」で死亡?

人権 警察 憲法

奈良県警での被疑者不審死事件

このニュースには、心底背筋が寒くなった。

週刊朝日(12/2)

勾留中に暴行死? 奈良県警告発したのは時津風部屋暴行事件の“立役者”

(略)

 11月15日、岩手医科大の出羽厚二教授(法医学)が、奈良県警を告発した。罪状は特別公務員暴行陵虐致死容疑。「勾留中に死亡したのは、取り調べ時の暴行による急性腎不全などが原因」と訴える。

 亡くなったのは医師の塚本泰彦氏(当時54)。奈良県大和郡山市の「山本病院」(現在は廃院)に勤務当時、手術ミスで患者を死亡させたとして、2010年2月、業務上過失致死容疑で逮捕され、奈良県警桜井署の留置場に勾留された。だが、19日後に突然死亡したのだ。奈良県立医大は死因を「急性心筋梗塞(こうそく)」とし、病死と判断した。

(略)納得いかない遺族は13年、奈良県を相手に民事裁判を提起。大相撲時津風部屋の暴行死事件で被害者の力士を解剖し、愛知県警が「事件性なし」とした当初の判断を覆した出羽教授に、解剖結果の再検証と鑑定意見書の作成を依頼した。

 出羽教授は「亡くなる前日の検査データから総合的に判断すると、死因は急性心筋梗塞ではなく、筋挫滅に伴って腎不全を起こし、さらに肝不全、呼吸不全を起こした多臓器不全です。つまり、取り調べ時の暴行が原因になったとしか考えられないのです」と主張。

 一方、奈良県警は訴訟で、「暴行は一切ない」と全面否定し、右ひざ下に残っていた大きなあざについては、「床にあぐらをかいて座る際、右ひざを折り曲げながら地面に落とすように座り、床に打ち付けられるような形となった」などと反論。だが、出羽教授は「尻にまったくあざがないのは不自然」と指摘する。

(略)

筋挫滅による急死は、阪神淡路大震災の際、瓦礫の下から救出された負傷者に多発し、「クラッシュ症候群(挫滅症候群)」として注目を集めた症状だ。損傷を受けて壊死した筋肉からカリウム、ミオグロビン、乳酸などが血液中に大量に漏出し、これが心不全や急性腎不全を引き起こす。実際、ANNニュース(11/15)で放映されたこの遺体の画像を見る限り、被害者の足はひどい内出血を起こしており、筋挫滅が生じていたことを伺わせる。

出羽教授が言うとおり、蹴られたのだろう。それも執拗に蹴り続けなければ、こんな状態にはならない。

損傷を受けているのは足だけではない。事件性はないとした当時の鑑定書でさえ、ほぼ全身に打撲による内出血があったことを認めている。

小林多喜二の虐殺事件を連想させる遺体

遺族も言及しているが、この遺体写真から、特高警察に虐殺された小林多喜二を連想した人も多いだろう。

多喜二は逮捕されたその日(1933年2月20日)のうちに、3時間にわたる凄惨な拷問の末、虐殺された。遺体は体じゅうが殴る蹴るの暴行による傷に覆われ、内出血を示す痣だらけだった。写真が示すように、とりわけ下腹部から太腿のあたりがひどく、どす黒く腫れ上がっていた。死因は恐らく今回と同じく挫滅症候群だろうが、警察による発表は「心臓麻痺」だった。

もちろん、警察に虐殺された被害者は多喜二だけではない[1]。

(略)警察署内で虐殺された者は80人余にのぼります。西田信春は、捕らえられたあと消息が不明でしたが、九州大学医学部解剖学教室で遺体が発見されました。警察は虐殺した遺体を、身元不詳・氏名不詳の行路病者だとして運び込んでいたのです。上田茂樹のように、今なお消息が一切不明の人もいます。

 獄中で拷問、虐待が原因で獄死した者114人、病気で獄死した者1503人にのぼります。拷問・虐待が原因で発狂した人も少なくありません。また留置場・拘置所・刑務所などで病に犯され、釈放されたものの病死した人もいますが、その人数は不明です。

■ 敗戦後も精算されなかった警察の特高体質

政府はいまだにこれら拷問・虐殺被害者への謝罪すらしていない。一方で、こうした虐殺を指揮した特高官僚たちは戦後ほどなくして復活し、国家機関や地方自治体で要職についている[2]。

 小林多喜二を築地警察署で虐殺した、この権力犯罪の「主犯」格といえる中川成夫は、戦後、東京都北区教育委員長になっています。

 中川一人にとどまるものではありません。特高官僚たちは、そ知らぬ顔で国会議員となり、国家機関や地方自治体で要職についています。そのポストは国家公安委員、警察庁長官、警視総監、防衛事務次官自治事務次官、文部事務次官、厚生事務次官公安調査庁局長、県知事、副知事、市長、助役、教育委員長、まだまだあります。

特高官僚が警視総監や警察庁長官にまでなっているのだ。これでは、被疑者への虐待を当然視していた戦前戦中のままの古い体質が、民主化されたはずの戦後警察にも受け継がれただろう。

誰が聞いてもおかしいと分かる不合理な言い訳をして恥じない虚言体質もそうである。

 
今回の事件は、最初から殺すつもりで暴行を加えた小林多喜二のケースなどとは事情が違うが、自白を得るために被疑者に暴力を振るったのであれば、まぎれもない拷問である。

安倍自民党憲法の拷問禁止条項を緩和しようとしていることを考え合わせると、戦慄せざるを得ない。

日本国憲法

自民党改憲草案

第三十六条 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁止する。 第三十六条 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、禁止する。

 
この事件にはさらに、警察署内の代用監獄での長期勾留、可視化されないままでの密室での取り調べなど、人権後進国日本を象徴する様々な要素もからんでいる。このような事件をあいまいなままに終わらせては、やがて戦前並みの人権蹂躙の再来を許すことになる。

絶対に許してはならない。

[1] 柳河瀬精 『告発!戦後の特高官僚』 日本機関紙出版センター 2005年 P.11
[2] 同 P.12
 

告発戦後の特高官僚―反動潮流の源泉

告発戦後の特高官僚―反動潮流の源泉

 
証言特高警察 (新日本新書 292)

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あたらしい憲法草案のはなし

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史上最悪の証拠隠滅犯の死

歴史認識 政治屋 官僚

11月25日、キューバフィデル・カストロ国家評議会議長が死去した。90歳。20世紀の歴史を作ってきた人物がまた一人この世を去った。

朝日新聞(11/26)

フィデル・カストロ氏死去 キューバ前議長、90歳

 キューバフィデル・カストロ国家評議会議長が25日午後10時29分(日本時間26日午後0時29分)、死去した。90歳だった。弟のラウル・カストロ現議長が国営テレビで伝えた。2008年2月に議長職を辞任して以降も、指導部と国民に影響力を与え続けた「革命の英雄」の死去は、国民に深い喪失感を与えそうだ。

 ラウル議長は25日深夜、国営テレビで「キューバのいとしい国民よ。深い悲しみとともに、革命の総司令官フィデル・カストロが死んだと伝える」などと語った。本人の遺志で遺体は火葬にするという。(略)

 
一方日本では16日、奥野誠亮(元内務官僚・衆院議員・文相・法相)が死んだ。103歳だという。よくもしぶとく生き延びたものである。

朝日新聞(11/18)

奥野誠亮さん死去 文相・法相を歴任

(略)1963年、自治事務次官を経て、旧奈良全県区から衆院議員に初当選した。衆院議員を13期務めた後、2003年に90歳で引退した。国土庁長官だった88年、日中戦争について「日本に中国侵略の意図はなかった」と発言し、国内外で批判を浴び、同長官を辞任した。

毎日新聞(11/17)

奥野誠亮さん死去 筋金入りの保守派、ミスター内務省

(略)1938(昭和13)年入省。地方局事務官として戦争終結方針策定に当たり内務省解体も体験し、自治事務次官から政界入り。連続当選13回で文相、法相、国土庁長官を歴任し、卒寿(90歳)で引退した。

 閣僚としての歴史認識をめぐる発言で時に物議をかもしたこともあったが、真骨頂は「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の会長としての活動と、自主憲法制定を求める運動。自著の回顧録のタイトル「派に頼らず、義を忘れず」をそのままモットーに万事に生涯無派閥を貫き「保守のバックボーン」ともいわれた。

 大いに存在感を発揮し筋金入りの右派だったが、決して硬直した右派ではなく、リベラルにも寛容な議論好きだった。(略)

 
朝日も毎日も、訃報でこの男の最も重大な「業績」を伝えていない。こちらは歴史を作ってきたどころか、貴重な歴史史料を抹殺し、正しい歴史認識の構築を妨害し続けてきた証拠隠滅犯なのだ。

読売新聞(2015/8/11)

占領前文書焼却を指示…元法相 奥野誠亮さん 102

(略)

 「総理(鈴木貫太郎首相)は戦争の終結を固く決意している。ついては内務省で戦争終結処理方針をまとめてもらいたい」。1945年8月10日朝、迫水久常・内閣書記官長から、内務省に極秘の要請があった。

 そこで、灘尾弘吉内務次官の命を受け、内務省地方局戦時業務課の事務官(現在の課長補佐クラス)だった私が各省の官房長を内務省に集め、終戦に向けた会議をひそかに開いた。

(略)

 もう一つ決めたことは、公文書の焼却だ。ポツダム宣言は「戦犯の処罰」を書いていて、戦犯問題が起きるから、戦犯にかかわるような文書は全部焼いちまえ、となったんだ。会議では私が「証拠にされるような公文書は全部焼かせてしまおう」と言った。犯罪人を出さないためにね。

 会議を終え、公文書焼却の指令書を書いた。ポツダム宣言受諾のラジオ放送が15日にあることも聞いていたので、その前に指令書を発するわけにはいかないが、準備は整っていた。

(略)

 15日は、正午の玉音放送の直後、私を含む内務省の4人で分担し、全国の地方総監府に公文書焼却の指令書を持って行った。

(略)

 奥野さんは鹿児島で特別高等警察特高)課長などを務め、内務省に戻ると、公文書焼却の極秘作業に深くかかわるなどして終戦を迎えた。32歳だった。

 強く印象に残っているのは、自身が時折敬愛の念を込めて「天皇さん」と呼ぶ、昭和天皇の姿だという。

 「天皇さんはマッカーサー連合国軍最高司令官)に対し、飢えた国民を救ってくれと求めた。そして、全国を歩き回り、我慢してくれと国民に呼びかけた。あの行動が、日本が再起する機会の一つになった」

 戦後は保守政治家になり、1世紀余を生きてきた奥野さん。「二度と戦争をしないのは大事なことだ」と平和の尊さを訴えている。

この国では、国家的重大犯罪の証拠を大量に抹殺した隠滅犯がそれをまるで手柄のように自慢げに語るばかりか、御用マスコミが当たり前のようにそれを紙面に載せて疑問も示さない。

奥野はさらに具体的な内容を1960年の座談会で語っている。

奥野 僕が思い出すのは、十五日の何日か前に、終戦処理の方針をきめなければいけないので……これは入江さんから伺ったのです、終戦になるのだと。(略)

 そのほか公文書は焼却するとかといった事柄が決定になり、これらの趣旨を陸軍は陸軍の系統を通じて下部に通知する。海軍は海軍の系統を通じて下部に通知する。内政関係は地方総監、府県知事、市町村の系統で通知するということになりました。これは表向きには出せない事項だから、それとこれとは別ですが、とにかく総務局長会議で内容をきめて、陸海軍にいって、さらに陸海軍と最後の打ち合わせをして、それをまとめて地方総監に指示することにした。十五日以降は、いつ米軍が上陸してくるかもしれないので、その際にそういう文書を見られてもまずいから、一部は文書に記載しておくが、その他は口頭連絡にしようということで、小林さんと原文兵衛さん、三輪良雄さん、それに私の四人が地域を分担して出かけたのです。それが何日に出発したかは覚えていないのですが……。

入江 十六日だと思います。

奥野 そのときわざわざ運輸省からパスまでもらって、上陸してきたのとぶつかったらこうこうしろということまで話し合いをして、各人が地域を分担して出かけていった。その結果軍の持っている物資が流され、文書は焼いてしまうということになった。(略)

奥野が主導したこの焼却決定の結果、ありとあらゆる犯罪の証拠が闇に葬られた。

 
戦争犯罪を隠蔽し、戦争責任を否定することで日本を再び「戦争ができる国」にしようと画策し続けてきた奥野が「平和の尊さを訴えている」とはいったい何の冗談か。こんな男が何十年も国会議員をやり、文相や法相を歴任するのだから、国策企業も政治家も、何をやらかしても責任を取ろうとしないのは当たり前である。

奥野は結局何ひとつ反省せず、どのような犯罪の証拠を焼かせたのかも白状しないまま死んだ。こういう者たちがのさばるのを許し続けてきた結果が今なのだ。
 
【2016/11/28追記】99さんからコメント経由で頂いたTV番組の画像の一部を貼っておきます。

奥野誠亮

70年経ってこの言い草。この無反省、傲岸不遜は、怪物的とでも形容するしかないですね。【追記終り】
 

ドキュメント横浜事件―戦時下最大の思想・言論弾圧事件を原資料で読む

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日中アヘン戦争 (岩波新書)

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日本が知らない戦争責任ー日本軍「慰安婦」問題の真の解決へ向けて

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『プライベート・ライアン』のあの場面並みの激闘をほのぼの上陸シーンに改変してしまう人々

歴史認識 映画

■ 一瞬で「戦場」に引き込まれるあのシーン

戦争映画の名作『プライベート・ライアン』。冒頭数分間の現代の場面から第二次大戦当時に切り替わる際に使われるのが、ノルマンディー上陸作戦の激闘シーンだ。上陸用舟艇の扉が開いた瞬間から、あっという間に兵士たちがなぎ倒されていく凄惨な描写によって、見る者は有無を言わさず「戦場」に引きずり込まれてしまう。

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■ 敵前上陸を右派がまったく違う内容に改変

日中戦争の初期、上海に派遣された旧日本陸軍第3師団は上海北方の呉淞ウースンに上陸した。これは待ち構えている中国正規軍と戦いながらの強行上陸だった[1]のだが、これを小林よしのりら右派は、攻撃されるなどとは予想もせずのんびり上陸した日本軍を、日の丸の小旗を持った婦人団体に化けた便衣兵(ゲリラ)が襲撃するという、「卑怯な中国軍」エピソードに改変してしまった。

話はいささか複雑で、伝言ゲームによる3段階の改変(詳細は山本弘氏による検証記事参照)が行われている。

まず、「ジャーナリスト」鈴木明が、せいぜい兵隊たちの間で囁かれていた噂話に過ぎない「不意打ち事件」を、裏とりもせずに掲載[2]。

 昭和十二年八月九日、第一章にもふれた「大山中尉虐殺事件」が起きたとき、上海にいた日本軍は、四千人余りの「上海陸戦隊」だけであった。(略)

 はじめの頃、日本の上海陸戦隊は十倍以上の中国軍を相手に苦しい戦いを続けたが、日本軍は直ちに松井大将を総司令官として、第三師団、第十一師団を派遣、八日後の八月二十三日には、応援軍が上海に到着している。

 この部隊が上陸の際に、ちょっとしたエピソードが伝えられている。第三師団の先発梯団が本船から呉淞桟橋に上陸しようとしたとき、桟橋の上には、日本の愛国婦人会のような恰好をした多数の女性が、手に手に日の丸の小旗を持って迎えたというのである。兵士たちは安心して、次々に桟橋に降り立ったが、それまで並んでいた女性たちの姿はたちまちにして消え、次に展開されたのは、中国軍による凄まじい一斉射撃であった。不意を衝かれた日本軍の死体は、見る見るうちに山と築かれていった。指揮官の顔は一瞬土気色に変り、口惜しさに唇は噛みしめられて、血をにじませていた。

 このことは、日本軍の胸に、中国軍に対する根強い不信の念となって刻みこまれることになった。俗にいえば「畜生、やりやがったな」という感情である。このエピソードは後の部隊にも「教訓」として語り継がれ、長く憎悪の対象となったようである。

続いて否定本ライター大井満が、日の丸の小旗を持っていた女性たち自身が銃撃したかのように読める形にこれを改変[3]。

 第三師団の先鋒部隊が、上海の呉淞桟橋に上陸したおりであった。

 桟橋近くには、日本人の婦人団体とおぼしき人々が列をなし、手に手に日の丸の旗を振っての歓迎で、上陸する将兵たちの顔にも思わず微笑が浮かんだ。そして隊列が婦人団体のすぐ近くまで来た時であった。

 突如小旗は捨てられ、さっと身をひるがえすと、背後に隠していた数丁の機銃が、猛然と火をふいた。あっという間もない。たちまちのうちに一ヶ中隊はほぼ全滅、辛うじて難を逃れた兵士らは、ただ無念の涙をのむばかりであった。

 この一事は、広く将兵の知るところとなり、中国兵への怒りと憎しみを倍加させたのである。

 そしてその警戒も怠らぬようになってはいったのだが、何せ相手は一般市民の装いをしているだけに、長い間にはつい油断も出る。女だと思い、構わず飯なんか食っていると、背後から不意にやられる。こんなことも、後をたたなかったのである。

そしてこれを真に受けた小林よしのりが、「事実から目をそむけて歴史を語ることはできない!」などとゴーマンかましつつ、まったくデタラメな漫画にしてしまった[4]わけだ。

そして隊列が婦人団体のすぐ近くまで来た時であった

突如小旗は捨てられ さっと身をひるがえすと 背後に隠していた数丁の機銃が 猛然と火をふいた

あっという間もない
たちまちのうちに一個中隊はほぼ全滅

(略)

よく「女子供の死体まであった」とかいう証言があるが 女子供が便衣兵なら殺されたって仕方がない

■ 実際はあのシーン並みだった呉淞桟橋上陸作戦

上記のようなエピソードがあり得ないことは、この呉淞桟橋上陸作戦が敵前上陸だったことだけからでも明らかだが、さらに調べてみると、これが『プライベート・ライアン』のあのシーン並みの凄惨な戦いだったことが分かってきた。

まず、旧日本軍の公式記録からも、この上陸作戦がまれに見る激戦だったことが分かる。これについてはscopedogさんがアジア歴史資料センターのデジタル化史料をもとに検証されているので、一部借用させていただく。

陸軍恤兵部 『支那事変 戦跡の栞 中巻』 1938年 P.43-44:

〔呉淞鎮附近の敵前上陸〕 呉淞鎮方面の敵前上陸は二十三日午前三時四十分から四時間に亘って敢行され、激烈なる交戦の後遂に午前八時半、見事に完了した。

 わが陸軍部隊の上陸に先立ち竹下部隊長の率ゆる海軍陸戦隊の精鋭七十名は白襷に身を固め一死報国の旺んな意気と共に敵前上陸の先発隊として艦載艇により江岸にドッとばかり猛進した。敵は新手の第三十七師及び第三十八師混成の数万に上る大部隊である。

 岸壁は既に敵弾によって爆破されつくし艦載艇の舷側を寄せる術もない。雨霰と落下する敵砲弾は黄埔江の両沿岸から集中して艇に命中するもの既に数十発。しかし遂に岸壁に艇は打ちつけられた。二尺幅の板が渡されて、白襷の姿が砲火炸烈する暗中に躍りこんで行った。中には水中へ飛びこんで崩れ落ちた岸壁にかけ上る兵士達、忽ち敵陣から機銃、迫撃砲の集中攻撃を受ける。しかしこの時わが各艦の砲口も焼けよとばかり射出す掩護射撃、わが空の荒鷲もここを先途と掩護射撃を行った。

 かくて死闘数時間、戦友の屍を越えての突撃が繰返された。この間に陸軍倉永部隊を先頭とする部隊は続々と上陸。壮烈、言語に絶するもう突撃はいく度か繰返されて、夜は次第に明け放れた。さしも頑強な敵もわが陸海軍の緊密水も漏らさぬ団結猛撃の前には闘志を奪はれて次第に退却し始めた。午前七時、停車場附近はわが上陸部隊によって占拠された。敵の後退陣地は前方三千メートル、午前八時半に至って予定部隊全員の上陸は完了万歳は高らかに三唱された。

軍による記録ではいかにも激戦を制して首尾よく上陸を果たしたかのように見えるが、実際にはそんな生易しい状況ではなかったようだ。

最初に呉淞への上陸を敢行したのは、陸軍第3師団先遣隊(歩兵第6連隊第3大隊および歩兵第68連隊第5中隊他)と、上陸支援隊としての海軍陸戦隊である。残念ながらこれらの部隊の将兵の日記や手記は見つからなかったが、先遣隊からほぼ半日後に上陸した歩兵第68連隊第1大隊大隊砲中隊の春見三市准尉(当時)の手記『呉淞桟橋 戦記其一』[5]が見つかった。この手記は戦後に私家版として出版されたものだが、内容自体は戦時中(1943年5月)に執筆されている。

1. 呉淞敵前上陸並に戦闘

 八月二十三日午前十一時、巨艦霧島から我が上陸戦闘に協力すべき出雲を旗艦とする第三艦隊の軽巡○○に移乗、十一時四十五分濁流の揚子江を上航し始めた。地震のような銃砲爆撃の響は人体を震はせる。第一次上陸部隊の安危を気遣ひつつ愈々吾々の決戦も目前に迫って、総身の血は躍り始めた。(略)黒煙天に沖する大火煙と猛爆煙中に隠見する江湾の時計台を中心に猛烈なる友軍機の急降下爆撃雷鳴の如き銃砲声、一望大火煙に包まれ、百雷一時に落ちるが如き修羅場である。これが真の壮烈惨たんの戦場かなと思った。

 第一次上陸先遣隊は海軍部隊の緊密なる協力の許に本朝既にこの激戦を展開し、この渦中にあるのだ。立っても座っても居られない感じだ。(略)

 午后五時、修羅場と化した呉淞桟橋に突入し、直ちに天地を震撼する艦砲の援護射撃。上陸は開始された。弾雨を冒して艦より飛び出せば、眼前の先遣隊は激戦死闘中である。眼前桟橋付近は砲火の為天を焦す大火炎と、耳を聾する彼我の銃砲声は激しさの余り、爆音の切れ目はなく、ガァンガァンの連続。恰も幾百の大鐘を一時に打ち鳴らすようだ。喊声を発して逆襲し来る敵の大軍、「ドカンドカン」と炸裂する敵の集中砲火は、辺り一面砂塵と爆煙に包まれて居る。その中に伏屍累々として此処にも彼処にも鮮血は流れ、真に屍山血河の修羅場を現出して居る。同地一角を占領する先遣隊は集中砲火と共に襲来する敵の大軍に対し、白刃の突撃を繰り返し繰り返し死斗して居る。野砲は「ダガンダガン」と零距離射撃を以て之を阻止して居る。その爆風は軍衣を震わせ、爆音は腸まで震動する。その壮烈惨憺たる光景は言語に絶して表現の言葉もない。初陣には非らざる予ではあるが、あまりの激戦死闘、惨烈さを目前に眺め、体験したのは初めてである。

 (略)上陸を終った我が部隊は疎散なる隊形を以て、桟橋付近に遮蔽したものの、銃砲弾の飛来激しく、上陸間もなく未だ敵と一戦を交へざるに損害を受け始めた。予の部下にも死傷を出した。

 此の頃、矢住大隊長は既に戦死し、以下先遣隊の損害のあまりの多きを聞き、悲痛壮絶言わん方なく暗涙にくれた。全滅に近き死傷続出、屍山血河の死闘を敢行せるこの部隊の貴き犠牲こそ、吾々の上陸を完全に掩護し得たのである。これを思い吾等一同感謝の熱涙に咽んだのである。(略)

朝8時半には片がついていたはずが、夕方5時を過ぎてもまだ桟橋を確保できていない。春見氏が上陸した頃には前線はかなり内陸側に移っていたはずだが、それでも戦闘に入る前から死傷者が出るような状況であり、先遣隊に至っては大隊長まで戦死する全滅に近い状況だったことが分かる。

さらに凄まじいのが、下士官(伍長)として上海戦に参加させられた三好捷三氏の手記『上海敵前上陸』だ。三好氏は先遣隊の上陸から十日ほど後の9月3日に呉淞に上陸するのだが、彼が桟橋で目撃した光景は次のようなものだった[6]。

 こうしてビリから呉淞の岸壁にはいあがった私の目を射た風景は、まさに地獄であった。修羅の巷 (ちまた)もこんなにひどくないであろうと思われるほど残酷なものであった。岸壁上一面が見わたすかぎり死体の山で、土も見えないほど折り重なっていた。まるで市場に積まれたマグロのように、数千の兵隊の屍が雑然ところがっている。それと同時にへドのでそうないやな死臭が私の鼻をついた。

 これは十日前に敵前上陸した名古屋第三師団の将兵の変わりはてた姿であった。彼らはこの地に中国軍の大部隊が待ちかまえていると知ってか知らずか、上陸するやいなやつぎつぎになぎ倒されていったのにちがいない。そして兵隊たちは、何が何やらわからないまま死んでいったのだ。

 私たちが演習で教えられた上陸戦闘は、いつも砂浜を敵地と仮想して教育されていた。三師団の兵隊も、おそらく私たちと同じように砂浜戦闘を教えられていたはずであった。それが、この呉淞にきてみると、敵地は砂浜ではなく十メートル以上の高さの岸壁であった。おそらくかれらは勝手がちがい、とまどってしまったことだろう。その上やっとはいあがったときには、ものすごい弾幕にぶつかり、攻撃するにも敵の姿はなく、前進するには厚い弾幕にさえぎられて突破できず、後方へさがるにはうしろは揚子江であるから後退できず、阿鼻叫喚のなかで死んでいったにちがいない。それが八月の炎天下に十日もさらされていたために、ほとんどの屍体は完全に腐乱していたのである。

 その上それらの死体はみな、内臓腐乱のために発酵して丸くふくれあがり、その圧力で身体の軟らかい部分が外にふきだしていた。眼球が五、六センチも顔から突きだしているのである。なかにはウジ虫のかたまりとなりはてて、幾万もの虫がウヨウヨとかたまってうごめいている上を、無数のハエが黒々とたかっているものもあった。私はこのありさまを目にした瞬間、脳貧血をおこして倒れてしまいそうになった。第三師団と同じく八月二十三日、川沙口に上陸した第十一師団長山室宗武中将が戦後語っているところによれば(『丸』昭和四十六年三月号)、この呉淞上陸戦の犠牲者は一万人にものぼっていたということである。

 それから四十年以上たった今でも、私の目にはその酸鼻な風景がハッキリと焼きついている。このように戦争というものは、どのような観点からみても美化される要素はまったくなく、あるものは醜態の一語につきるのである。膨大な犠牲をはらい、相手を傷つけてまで守らなければならない国家と国民の利益とは、いったい何なのかと疑問をもたざるを得ない。

■ 平気で事実を書き換える人々

春見氏の著書(P.14)に、上海戦における沿岸地帯の中国軍防御配備の一例が図示されている。

中国軍防御配備例

こちらは三好氏の著書に掲載された中国軍のトーチカの一例。

上海戦時の中国軍トーチカ

呉淞桟橋上陸作戦は、沿岸一帯に強固な防御陣地を構築して待ち構える正規軍の大部隊に対して正面から殴り込みをかけた戦いだった。これを右派は、「卑怯な中国軍」を印象づけるために、まったく違う様相に書き換えてしまったのだ。史実派に対しては嘘だ捏造だと執拗に悪罵を投げつける彼らが裏では何をしているかを示す、典型的一例である。

[1] 防衛庁防衛研究所戦史室 『戦史叢書 支那事変陸軍作戦(1)』 朝雲新聞社 1975年 P.277
[2] 鈴木明 『「南京大虐殺」のまぼろし』 文藝春秋 1973年 P.155-156
[3] 大井満 『仕組まれた“南京大虐殺”』 展転社 1995年 P.206-207
[4] 小林よしのり 『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』 幻冬舎 1998年 P.127-128
[5] 春見三市 『呉淞桟橋 戦記其一』 私家版 1966年 P.17-23
[6] 三好捷三 『上海敵前上陸』 1979年 図書出版 P.58-59
 

日中戦争―和平か戦線拡大か (中公新書)

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南京大虐殺否定論13のウソ (KASHIWA CLASSICS)

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米民主党はサンダースを指名候補にしなかった時点でトランプに負けていた

アメリカ マスコミ

トランプが次期大統領に当選したことを受けて、11月9日、サンダースは次の声明を発表した

Sanders Statement on Trump
Wednesday, November 9, 2016

BURLINGTON, Vt., Nov. 9 -- U.S. Sen. Bernie Sanders (I-Vt.) issued the following statement Wednesday after Donald Trump was elected president of the United States:

Donald Trump tapped into the anger of a declining middle class that is sick and tired of establishment economics, establishment politics and the establishment media.  People are tired of working longer hours for lower wages, of seeing decent paying jobs go to China and other low-wage countries, of billionaires not paying any federal income taxes and of not being able to afford a college education for their kids - all while the very rich become much richer.

“To the degree that Mr. Trump is serious about pursuing policies that improve the lives of working families in this country, I and other progressives are prepared to work with him. To the degree that he pursues racist, sexist, xenophobic and anti-environment policies, we will vigorously oppose him.”

訳:

ドナルド・トランプは、支配者層による経済、支配者層による政治、支配者層によるメディアにうんざりしている、没落しつつある中間層の怒りを利用した。人々は、わずかな賃金のために長時間働くことや、まともな給与を支払われる仕事が中国その他の低賃金国に流出していくことや、連邦所得税を払わない億万長者や、経済的理由で子どもたちに大学教育を受けさせられないことにうんざりしている。しかも大金持ちたちはますます豊かになっているのに。

トランプ氏が、この国の勤労家庭の生活を改善する政策を真剣に進めるなら、私も他の進歩派も彼と協力する用意がある。しかし彼が人種差別、性差別、排外主義、環境破壊政策を推進するなら、我々は徹底的に彼と闘うだろう。

実に真っ当な見解である。彼が今回の大統領選で最も真っ当な候補者だったのだから当然ではあるが。


大方のマスコミの予想とは異なり、民主党はサンダースを指名候補にしない限りトランプには勝てないだろうとネット上では早くから言われていた。


しかし、現大統領のオバマをはじめ、トランプの勢いを甘く見ていた民主党幹部は最初からヒラリー・クリントンを指名候補者にするつもりだったのだろう。サンダースに対して露骨な妨害を行った。


ヒラリー陣営はサンダースの政策を大幅に公約に取り入れることでサンダース支持者の取り込みを図ったが、所詮は選挙対策だろうと見なされて信用されなかった。


せめてサンダースを副大統領候補にしていれば、まだトランプに勝てる可能性はあった。しかし、ヒラリーがやったのはその真逆だった。


結果は周知のとおり。得票数ではヒラリーがトランプを上回っていたことからも分かるように、決してトランプが従来の共和党候補以上に支持されたわけではない。既得権益層の代理人だったヒラリーと民主党幹部連中が徹底的にダメだったのだ。