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1946年1月の歌会始

皇居では毎年1月、「歌会始」なるものが行われる。

今年も19日に「和」なるお題で開催され、天皇徳仁は「をちこちの 旅路に会へる人びとの 笑顔を見れば心和みぬ」と、能登半島大震災などなかったかのような呑気な歌を詠んだ。

いや、大震災があったにもかかわらずではなく、あったからこそ、まるでそんなものなどなかったかのように予定通りに宮中行事を行う必要があるのだろう。

こうした宮中行事は、現実がどうであろうと、この国は今までもこれからも平穏無事で、為政者が責任を問われるような問題は何もない、という幻想を振りまくためにこそ行われるのだ。

そうした宮中行事の本質が最も露骨に現れたのが、敗戦の翌年、1946年1月に行われた歌会始だった。

この歌会始のお題は、前年の10月25日、つまり敗戦からまだ2ヶ月ほどしか経っていない混乱の最中に発表された。

戦艦武蔵に乗り組んでいて、米軍機による集中攻撃で撃沈された地獄の戦場を生き延びた渡辺清氏は、この日の日記にこう書いている。[1]

十月二十五日

 新聞に来年の宮中の「歌御会」の題が「松上雪(しょうじょうのゆき)」に決まったということが出ている。 これについて三条とかいう御歌所長が「終戦後の今日政務御多端にあらせらるるに際し、 なお斯道に大御心をかけさせ給うことは恐懼の極みと申すべきであります。緑濃き松が枝にしずしずと積もれる雪、一面洵まことに平和の象徴とも見るべく云々……」という歯の浮くようなちょうちん談話をのせているが、「斯道」のことはとにかく「大御心」などという御託はもう聞きたくない。こっちはその「大御心」というやつに四年も戦場でだまされていたんだ。なにが「恐懼の極み」だ。

 歌会などというのは、どうせ閑人の道楽ごとだろうが、それにしても国民のほとんどが食うや食わずのこの混乱期に、そしてまだ戦争の責任もとってはいないのに、よくそんなのんきなことをいけしゃあしゃあと言っていられるものだ。「松上雪」でなにもかも覆いかくしてしまおうというのか、おれにはその神経がわからない。

歌会始が行われた翌年1月24日の日記にはこうある。[2]

一月二十四日

(略)

 天皇が歌会始で「ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松そをゝしき人もかくあれ」という和歌を発表した。

 これはおそらく、雪の重みにじっと耐えている松のように、国民も敗戦の苦しみにくじけずに耐えてほしい、という意味だろうと思うが、自分の命令ではじめた戦争で、多くの人を死なせ、国民のおおかたを塗炭の苦しみに追いこんでおいて、いまになって雪の松を見習えなどとおくびにも言えた義理ではあるまい。戦争のために現に辛酸をなめている人が同類の士を励ますために歌ったというなら肯けもするが、宣戦と敗戦の詔書を煥発した当の御本人が、こんな歌をことごとしく公表するという神経がおれにはわからない。

この年、1946年は、天皇の命令で始められた戦争のせいで家も働き手も失った遺家族や戦災孤児たちが、続々と餓死していった年である。

天皇というものが、「日本国民統合の象徴」どころか、まさにこの国の無責任の象徴であることを如実に示すエピソードだろう。

[1] 渡辺清 『砕かれた神 ― ある復員兵の手記』 岩波現代文庫 2004年 P.68
[2] 同 P.194-195