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読む・考える・書く

マスコミやネットにあふれる偏向情報に流されないためのオルタナティブな情報を届けます。

龍胆寺雄と猫

動物

 

先日、ツイッターのTLにこんなネタが流れてきた。

 

 

そして、このサボテンに名前をつけたのが、作家の龍胆寺雄(1901--1992)である、という話も。

 

 

龍胆寺雄がサボテン研究家だとは知らなかったが、この人は大の猫好きで、私があまり有名ではないこの作家の名前を知っていたのも、そちらの方向からだ。

龍胆寺は常に何匹かの猫を飼っていたが、1963年の末に、まだ2歳半だった「ゴキ」が病死したとき、その死を悼んで何篇もの詩や歌を詠んでいる。その中に、200行にもなる長編詩『ゴキの墓に』がある。

 

残念ながら私はまだこの詩を通して読んだことはない。雑誌『猫びより』[1]で紹介されていた抜粋を読んだだけなのだが、それだけでも、なんとも胸に迫るものがあった。

ここにも、さらに断片になってしまうが、一部紹介しておこう。(注:「小ベル」は飼犬の名前。)

 

ゴキよ おれはおまえを

小ベルの小屋にちかい

日あたりのいい垣根のところに

埋めよう

昼間はあたたかいし

夜は 小ベルがそばにいて

淋しくなかろうから

 

お墓はつくらない

おれはお墓はキライだし

愛するものから餞別(はなむけ)られた

存分の涙で

おまえの野辺の送りは

じゅうぶんだからだ

そのかわりに

一句をここに書きとめておく

 

  このつぎは

  ひとと生まれよ

  わが家の

 

龍胆寺は最後の三ヶ月間、自分からはものが食べられなくなったゴキに「卵の黄身と牛乳と砂糖の混ぜあわせ」を食べさせる介護を続けた。そして、ゴキは龍胆寺の腕の中で息を引き取った。

龍胆寺は、ゴキが死んだその日の夜に、この『ゴキの墓に』を一気に書き上げたという。

 

死ぬ直前 おまえは

いつにない大きな眼をあけ

冴え冴え(さえざえ)とした黒い瞳をしきりに左右に動かして

へやの中や

スタンドの灯や

おれの顔を

ふしぎにマジマジと長い間

見入っていたな

まるで

そこにみなぎっている すべておまえに向けられた愛情を

その眼で見て

心の中にたたみ込もうとするかのように

 

かくして今はこのへやは

おまえがいなかった昔にかえったわけだが

それにしては今

このへやにただよっている

虚無と落漠と孤独と切なさは

いったい何がもたらしたものだろう

とまり木をなくした愛情が

瓢々と空をさまよって

どこかへやがて消えてゆくまでの間の

しばしのオロカしい迷いなのか それとも

ゴキよおまえが

おれの人生に遺していった

ただ一つのこれが おミヤゲなのか

 

ではゴキよ

さようなら

段ボールの箱の中で

冷たく堅くなってしまった

ゴキよ

さようなら

寝床で もはや二度と

抱いて寝てやれなくなった

ゴキよ

さようなら

 

最後にもう一編、『ゴキのお葬式に』と題された詩がある。ゴキが死んだ翌日、ゴキの母猫である「カアちゃん」と一緒に、ゴキを見送った詩である。

 

ゴキのお葬式に

 

ママから貰った水飲みの欠け茶碗

オバちゃんから貰った白い毛糸あみの

古いちゃんちゃんこ

ゴキよ

これがおまえの財産のすべてだ

この二品と おれの詩を一篇と

これだけをおまえの お棺に入れておくよ

今日は昨日に引きかえて

風は強いが 雲一つない秋空

お墓の前で おまえを見送る

カアちゃんの白い毛なみが

まぶしく光る

ゴキよ さあ

今日から おまえは

ここで ひとりだ

 

ちなみに、龍胆寺がつけたゴキの戒名は「三日一舐鼻上飯粒居士」(サンジツイッテイビジョウハンリュウコジ または ミッカニヒトナメハナノウエノメシブツコジ)だそうだ。

冒頭のサボテンの命名にもなんとなく納得させられる。

 

[1]  猫びより 2003年秋号 日本出版社