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日本にはソ連の日ソ中立条約違反を非難する資格はない

 1945年8月9日、ソ連は突然ソ満国境線を破り、怒涛の勢いで日本軍への攻撃を開始した。同年4月5日、ソ連は日本側に対し、日ソ中立条約の不延長を通告していたが、同条約は翌年4月まで有効期間が残っており、この対日参戦は条約違反であった。また、この攻撃の過程で、ソ連軍は虐殺・強姦・掠奪等、様々な非人道的戦争犯罪を行った。

日本では、このソ連の対日参戦はソ連側が一方的に条約を破った卑劣な背信行為であるとして、ありとあらゆる非難を浴びせてきた。だが、ソ連軍が行った戦争犯罪行為は別として、ソ連による条約違反自体を非難する資格が日本にあるかといえば、そんなものはない、と言わざるを得ない。
 

日ソ中立条約は1941年4月13日、モスクワで締結された(条約発効は4月25日)。

第一条 両締約国ハ両国間ニ平和及友好ノ関係ヲ維持シ且相互ニ他方締約国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スヘキコトヲ約ス

第二条 締約国ノ一方カ一又ハ二以上ノ第三国ヨリノ軍事行動ノ対象ト為ル場合ニハ他方締約国ハ該紛争ノ全期間中中立ヲ守ルヘシ

第三条 本条約ハ両締約国ニ於テ其ノ批准ヲ了シタル日ヨリ実施セラルヘク且五年ノ期間効力ヲ有スヘシ両締約国ノ何レノ一方モ右期間満了ノ一年前ニ本条約ノ廃棄ヲ通告セサルトキハ本条約ハ次ノ五年間自動的ニ延長セラレタルモノト認メラルヘシ

ところが本条約の締結後間もない6月22日、ナチスドイツは独ソ不可侵条約を破ってソ連への侵攻を開始した。膨大な機甲部隊を投入したドイツ軍の電撃作戦によりソ連は大敗を喫し、たちまち国家存亡の危機に追い込まれた。

このとき、条約の一方の当事者である日本はどうしたか。独ソ開戦10日後の7月2日、御前会議で次の『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』を決定している。

第二 要綱

  1. 蒋政権屈服促進の為更に南方諸地域よりの圧力を強化す 情勢の推移に対し適時重慶政権に対する交戦権を行使し且支那に於ける敵性租界を接収す
     
  2. 帝国は其の自存自衛上南方要域に対する必要なる外交交渉を続行し其の他各般の施策を促進す 之か為対英米戦準備を整え先つ「対仏印泰施策要綱」及「南方施策促進に関する件」に拠り仏印及泰に対する諸方策を完遂し以て南方進出の態勢を強化す 帝国は本号目的達成の為対英米戦を辞せす
     
  3. 独「ソ」戦に対しては三国極軸の精神を基体とするも暫く之に介入することなく密かに対「ソ」武力的準備を整え自主的に対処す 此の間固より周密なる用意を以て外交交渉を行う 独「ソ」戦争の推移帝国の為有利に進展せは武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す 
     
  4. 前号遂行に当たり各種の施策就中武力行使の決定に際しては対英米戦争の基本態勢の保持に大なる支障なからしむ
    (以下略)

この「国策要綱」は、天皇臨席の御前会議で決定された正式な国策である。その国策で、密かに対ソ戦の準備をし、ドイツの勝利が間違いないと思える状況になれば日本も参戦すると言っているのだ。この国策のどこにも日ソ中立条約を遵守しようとする意志は見られない。御前会議の席上、原枢密院議長は次のような発言を行っている[1]。

原枢府議長 次二独「ソ」開戦ハ日本ノ為真二千載一遇ノ好機ナルヘキハ皆様モ異論ナカルヘシ。「ソ」ハ共産主義ヲ世界二振り蒔キツツアル故、何時カハ打タネハナラヌ。現在支那事変遂行中ナル故「ソ」ヲ打ツノモ思フ様ニ行カヌト思フケレトモ、機ヲ見テ「ソ」ハ打ツヘキモノナリト思フ。帝国トシテハ対「ソ」戦争間英米トノ開戦ハ望マナイ。国民ハ「ソ」ヲ打ツコトヲ熱望シテヰル。此ノ際「ソ」ヲ打ツテモライ度イ。三国条約ノ精神ニヨリ少シデモ独逸二利益ヲ与ヘルヤウ努メテモライタイ。

日本は、このような国策を決定するだけでなく、実際に対ソ戦の準備を推進した。「関東軍特種演習」である[2]。

 対ソ武力行使は、ノモンハン事件の惨敗の経験からいっても、うかつにはできなかった。そこで極東ソ連軍が対独戦投入のためヨーロッパに西送され、極東ソ連の兵力が手薄になるのをまって攻撃をしかけることとし、「関東軍特種演習(関特演)」という秘匿名称のもとに、七月二日総兵力八五万人という空前の大動員が発動された。なお、「関東軍特別演習」は七月に予定されていた「教育練成」のための演習で、「関特演」とはまったくべつのものである。

日本は、日ソ中立条約締結からわずか三ヶ月の時点で、明白な条約違反となることを承知のうえで対ソ戦準備を進めていた。実際には戦端を開くことなく終わったが、それは単にドイツの進撃が期待したほどには有利に進展せず、極東ソ連軍の西送も予想したほどのペースでは進まなかったからに過ぎない。

しかもこの対ソ戦準備は、日独伊三国同盟に基いてドイツを支援するためでさえなかった。ドイツが単独でソ連を打倒してしまったら、日本は「分け前」を要求できなくなるからである。6月25日の連絡懇談会で、松岡洋右外相が次のように述べている[3]。

外相 独ガ勝チ、「ソ」ヲ処分スルトキ、何モセズニ取ルト云う事ハ不可。血ヲ流スカ、外交ヲヤラネバナラヌ。而シテ血ヲ流スノガー番宜シイ。「ソ」ヲ処分スルトキ日本ガ何ヲ望ムカカ問題ナリ。

   独モ日本ハ何ヲスルカドウカト考ヘテ居ルダラウ。

日本は、ソ連が窮地に立たされていたときには、日ソ中立条約を破って対ソ戦に参戦し、「分け前」を得ることを当然のことと見なしていた。自分自身条約を守る意志などなかった日本に、ソ連の条約違反を非難する資格はないのである。
 
[1] 五味川純平 『御前会議』 文春文庫 1984年 P.97
[2] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.371
[3] 五味川同上書 P.69
 

御前会議 (文春文庫 (115‐11))

御前会議 (文春文庫 (115‐11))

 
御前会議 (文春文庫 (115‐11))

御前会議 (文春文庫 (115‐11))

 
大系 日本の歴史〈14〉二つの大戦 (小学館ライブラリー)

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