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虐殺から朝鮮人を守った市井の人々

■ 大川常吉署長の行為は確かに立派だが美談化は危険

TBS「報道特集」で取り上げられたこともあり、大川常吉氏(関東大震災当時の鶴見警察署長)が注目を浴びている。

署を取り囲んだ千人もの暴徒相手に一歩も引かず、文字通り身体を張って朝鮮人たちを守った大川署長の行為は確かに立派なものだ。仮に自分が同じ状況下に置かれたらと仮定したとき、氏と同じ行動が取れると自信を持って言える人は少ないだろう。

しかし、この大川署長の行為を過度に讃えるのは危うい。実際、この話は早くも震災の翌年には、哀れな朝鮮人を救った日本人の英雄的行為として「内鮮融和」を宣伝するための美談に仕立てられている[1]。

(略) 横浜が全滅するほどの大火災は主として鮮人の為した業だといふ流説を信じきって、灼熱の体に憤怒して居る民衆は、署長の警告には少しも耳を籍さなかつた。千人もそれ以上もの群集は、警察署を包囲して今にも暴行を働かんとする気勢を示した。万事休す矣。今は鮮人の保護どころか、署も署員も危機に瀬した。最早議論の余地はない。署長は早やこれまでと決心した。「よし、君等が我輩の言ふ条理を解し得ないなら、今は是非もない、鮮人に手を下すなら下して見よ、憚りなから大川常吉が引き受ける、此の大川から先きに片付けた上にしろ、われわれ署員の腕の続く限りは、一人だって君達の手に渡さないぞ」と大声叱呼して群集を睥睨した。署長の何物も投け出してかかった覚悟の前には目に余る鳥合の衆も無下に手出しもならず、暫しどよめいて居たが、やがてその中から代表者数名が評議の末「それなら鮮人一同を責任を以て署内に預かって貰はう、その代り一人でも脱出した時はどうして呉れるか」と署長に詰め寄つた。署長はその大きな拳で胸板を叩き「我輩も男だ、若し一人でも此処から逃走した者があったら、我輩潔く君等の前で割腹して申し訳をする」、昂然として言ひ放った。(略)至誠天に通じては鬼神も為めに避く、署長の大決心大勇猛心には代表の連中も感動せずには居れなかった。そこで群衆も一応納得して、ぞろぞろ引き上げて行った。(略)

何の罪もない朝鮮人たちを逆上した日本人集団が襲撃し、大量虐殺したという事実をまず直視しなければならないのに、それを脇に置いて朝鮮人を救った「美談」のほうに目を向けるのがそもそもおかしいのである。その上、虐殺は民衆だけでなく軍隊・警察も手を下しており、警察は朝鮮人暴動デマの流布も行っている。[2]

③ 23年10月28日付け『報知新聞』夕刊市内版(記事要約)
10月25日に東京の本郷小学校で開かれた本郷区会議員・区内有志・自警団代表者の会合で曙町村田代表は「9月1日夕方曙町交番巡査が自警団に来て『各町で不平鮮人が殺人放火しているから気をつけろ』と二度まで通知に来た」と報告した。

(略)

① 東京市麹町区富士見尋常小学校六年生岩崎之隆「大正震災の記」
(9月1日の)夜が明けるが早いか巡査がやってきて、一軒々々に「かねてから日本に不平を抱く不逞○〔鮮〕人が例の二百十日には大暴風雨がありそうなのを知って、それにつけ込んで暴動を起そうとたくらんでいた所へ今度の大地震があったので、この天災に乗じて急に起って市中各所に放火したのだそうです。また横浜に起ったのは最もひどく、人と見れば子供でも老人でも殺して了しまい、段々と東京へ押寄せて来るそうだから、昼間でも戸締を厳重にして下さい」と、ふれ歩いたので、皆はもう恐くて恐くて生きた心持ちもなく、近所の人とひとつ所に集って、手に手に竹槍、バット等を持って注意をしていた。

だから、祖父の行為をむやみに美化すべきではない、人間として当たり前の行為だったと言うお孫さんの言葉は正しい。

■ 暴徒から朝鮮人を守った市井の人々

ところで、大川氏は警察署長だったのだから、管轄地域の住民である朝鮮人を保護するのは職務上当然の行為とも言える。むしろ、何ら権力の後ろ盾を持たない市井の人々が朝鮮人を守ったケースこそ賞賛に値すると言えるだろう。中でもこれなどは驚くべき事例と言えるのではないか[3]。

 やくざは、社会が暗転しょうとするとき、その侠気の発動によって、ひととき凄然と光芒を放つ。たとえば秩父困民党事件にみられるように、その即断即決による直接行動は時には民衆を蜂起に導くことさえある。
 関東大震災の陰で動いたのは関口愛治だけではなかった。たとえば関東博徒の大親分「河岸の佃政」こと佃政一家初代総長・金子政吉は、震災と自警団の襲撃で逃げ場を失った朝鮮人数千人を佃島に庇護し、暴徒に備えて子分たちに武装させて守らせている。佃政はこのとき「お前は日本人の敵か」と言われたそうだが、まったく動じなかったという。

数千人は眉唾としても、これは大川署長の行為に少しも劣らない勇気ある行動と言えるだろう。しかし、こちらのエピソードは大川氏の事例とは違い、ほとんど知られていない。ヤクザの親分では、「朝鮮人を守った立派な日本人」のモデルとしてふさわしくないと見られたからだろうか。

■ 守ってもらえなかった朝鮮人はどうなったのか

ここからは怖い話。

関東大震災を生き延びた朝鮮人の体験記が、『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』に収録されている。この中の各人の体験を整理してみると次のようになる[4]。

体験者

遭難場所

生き延びられた理由

全虎厳
(労働者)

亀戸

同じ工場で働いていた日本人の友人十数名に守られながら亀戸署に保護を求めた。署内でも虐殺が行われたが運良く難を逃れた。

李鐘応
(労働者)

上野

隣組の青年団長が暴徒から守ってくれた。その後巣鴨の刑務所に収容。

金学文
(労働者)

玉川揚水場

揚水場の場長がかくまってくれた。

全錫弼
(労働者)

大井町

近所の親切な日本人、巡査等に守られながら品川署に保護を求めた。その後青山の収容所に収容。

曹高煥
(学生・労働者)

上野

雇い主が仕事場にかくまってくれた。その後、日本人の友人と巡査に守られながら日暮里分署に保護を求めた。

裵達水

荒川銀座

巡査に保護され、警察署に収容された。

南廷冽
(労働者)

本庄

工場主が倉庫にかくまってくれた。その後本庄警察署に保護。その警察署も暴徒に襲撃されたが運良く難を逃れた。

申鴻湜
(学生)

千葉県市川

日本人の友人と一緒に汽車で避難。下宿の家主の本家に一時かくまわれた後、新聞記者に警察署まで連れて行ってもらい保護を求めた。その後習志野収容所に収容。

曹仁承
(労働者)

荒川土手

消防団に捕まり、仲間を殺されながら寺島警察署に連行された。署内でも虐殺が行われたが運良く難を逃れた。その後習志野収容所に収容。

愼昌範
(旅行者)

荒川土手

自警団に襲撃され重傷を負って気絶。死んだと思われ、寺島警察署に収容されたが死体置場で息を吹き返した。その後日赤病院に収容。


サンプル数は少ないが、いずれの場合も周囲の日本人が守ってくれるか警察に保護されることによって、かろうじて生き延びている。警察署は虐殺の舞台となった例もあり決して安全な場所ではなかったが、それでもその外よりはまだましだったことが分かる。

では、誰にも保護してもらえず、街なかに取り残された朝鮮人たちはどうなったのか。横浜の小学生たちが書いた「震災作文」から、彼らの運命を伺うことができる[5]。

寿小 学年不明 男子:
夜となると、あちらでもこちらでも朝鮮さわぎとなってきたから、僕が竹やりをもってまわりをかこっていると、むこうでは朝鮮人をころして万歳々々とさけんでいる。

寿小 5年 女子:
丁度其の時、朝鮮人が逃げて来て、後から丸たん棒や色色な物を持って追っかけて来て、其の朝鮮人をぶっていた。其の中の一人の朝鮮人は死んでしまった。後の一人は頭の真中から血が流れて来た。

寿小 高等科1年 女子:
私は聞ママのする方へ行って見ると、男の人が大ぜいで、棒を持って朝鮮人をぶち殺していました。

寿小 4年 女子:
向からかあさんのすがたが見えましたので、私はかけよって泣きすがりました。そして、きがらちやのおむすびを半分たべて、よろこんであるき久保山へ行くとちゅう朝鮮人のころすのをたくさん見ました。

寿小 学年不明 男子:
そして□不明七時頃□不明の中を歩るいて居ると朝鮮人が立木にゆわかれ竹槍で腹をぶつぶつさられのこぎりで切られてしまいました。

寿小 学年不明 男子:
其中に夜がだんだん明けて来たのでほっと息をつきました。すると僕の前で朝鮮人が一人皆にたけやりで殺されました。

磯子小 4年 男子:
それから、朝鮮人が大ぜいきました。それから刀槍薙刀や槍やで朝鮮人をのこらずころしてしまいました。

磯子小 5年 男子:
其の夜、北方の方はまさに燃えて居た。近所の人が鮮人が来たと言ったので、大人の人は棒を持って待って居ると、鮮が来のでなぐり殺した。それで其の夜は鮮がこなかったので、大人の人は寝た。そのうちに鮮が来たと言うので又目をさまし、大人の人は棒を持って待って居ると鮮が来たのでなぐり殺してしまった。

磯子小 5年 女子:
それからかんごくのかんしたちはみんなぺすとでつたり、てつのぼうでころしたり、それからそのころしたちょうせんをかんごくまえのうみへながしました。

磯子小 高等科1年 男子:
其おして朝鮮人を見ると、すぐ殺すので大騒になった。其れで朝鮮人が殺されて流れてくる様を見ると、きみの悪いほどである。

故郷を遠く離れた異国の地で、圧倒的な数の暴徒に昼夜追い回されたあげく、野良犬のように撲殺されていったのだろう。逃げようにも土地勘もなく、どこかに隠れてもいずれ見つけられてしまう[6]。

 「けさもやりましたよ。その川っぷちに埃箱があるでせう。その中に野郎一晩隠れてゐたらしい。腹は減るし、蚊に喰はれるし、箱の中ぢやあ動きも取れねえんだから、奴さん堪らなくなって、今朝のこのこと這ひ出した。それを見つけたから皆で掴へようとしたんだ。」
(略)
 「奴、川へ飛込んで向ふ河岸へ泳いで遁げやうとした。旦那石つて奴は中々當らねえもんですぜ。みんなで石を投げたが、一も當らねぇ。でとうとう舟を出した。ところが旦那、強え野郎ぢやねえか。十分位も水の中へもぐつてゐた。しばらくすると、息がつまつたと見えて、舟の直きそばへ頭を出した。そこを舟にゐた一人の野郎が鳶でグサリと頭を引掛けてヅルヅル舟へ引寄せてしまつた。………丸で材木といふ形だアネ。」
といふ。
 「舟のそばへ來れば、もう滅茶々々だ。鳶口一でも死んでゐる奴を、刀で斬る、竹槍で突くんだから………」

「親切な日本人」からの保護を得られなかった朝鮮人たちは、ほとんど殺されてしまったのではないだろうか。

[1] 中島司 『震災美談』 1924年 P.45-47
[2] 山田昭次 『関東大震災時の朝鮮人虐殺―その国家責任と民衆責任』 創史社 2003年 P.78-80
[3] 猪野健治 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』 筑摩書房 2015年 P.91
[4] 李珍珪編 『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』 朝鮮大学校 1963年 P.141-164
[5] 琴秉洞編・解説 『朝鮮人虐殺関連児童証言史料』 緑陰書房 1989年
[6] 横浜市役所市史編纂係 『横浜市震災史』 第5冊 1926年

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