読む・考える・書く

マスコミやネットにあふれる偏向情報に流されないためのオルタナティブな情報を届けます。

朝鮮人虐殺:日本人の助けなしに生き延びた朝鮮人はほとんどいないのではないか?

関東大震災時の朝鮮人虐殺を生き延びた被害者たちの体験記を読んでいて気がついたことがある。どの人も、親切な日本人にかくまってもらったとか、警察署で保護されたとか言っていて、そうした助けなしに逃げたり隠れたりして自力で生き抜いたと語っている人はほとんどいないのだ。

例をあげていくと、次のようになる。

凡例:

  • 氏名(職業 年齢 被災地)
    生き延びた経緯の概要


  • 全虎厳(労働者 東京/亀戸)[1]
    工場の日本人同僚にかくまわれる → 同僚たちに守られ亀戸警察署へ → 署内で虐殺(亀戸事件)に遭遇したが生き延び、習志野収容所へ

  • 李鐘応(労働者 29歳 東京/上野)[1]
    隣組の青年団長が自警団からかばってくれる → 軍隊が巣鴨刑務所に連行し取り調べ → 職場の寮に送り返された後、日本人上司が倉庫の中にかくまう

  • 金学文(労働者 東京/玉川)[1]
    日本人上司が他の3名とともに職場内の部屋にかくまってくれ、そこで一週間過ごす

  • 全錫弼(労働者 東京/大井町)[1]
    近所の親切な日本人にかくまわれる → 近所の人々と兵隊に守られ品川警察署へ → 警察に20日ほど収容された後青山収容所へ

  • 曹高煥(労働者 21歳 東京/日暮里)[1]
    雇用主がかくまってくれ、十日ほど過ごす → 日本人同僚と警官に守られ日暮里分署へ

  • 裵達水(不明 34歳 埼玉/川口)[1]
    警官が迎えに来て川口警察署に移動し、保護される

  • 南廷冽(労働者 埼玉/本庄)[1]
    工場の主人が倉庫にかくまってくれる → 本庄警察署2階に収容され、本庄事件に遭遇するが生き延びる

  • 申湜鴻(学生 19歳 東京/九段)[1]
    日本人の学友と共に汽車で八街に移動、下宿の大家にかくまわれる → 新聞記者に守られ東金警察署へ → 習志野収容所へ

  • 曹仁承(労働者 22歳 東京)[1]
    自警団により寺島警察署に連行(途中、多くの仲間が殺される)→ 署内でも虐殺があったが生き延び、習志野収容所へ

  • 愼昌範(旅行者 東京/上野)[1]
    自警団に襲撃され重傷を負って気絶 → 死んだと思われ、寺島警察署に死体として収容 → 弟と義兄の看病で息を吹き返す → 日赤病院へ

  • 李教振(労働者 20歳 東京/寺島)[2]
    他の二人と一緒に玉ノ井の売春宿の天井裏にかくまわれる → つい外に出たところを警官に捕まり、亀戸警察署へ → 亀戸事件に遭遇したが生き延びる

  • 李性求(学生 21歳 東京/池袋)[3]
    自警団に襲われ、交番に駆け込む → 下宿の人々に助けられる

  • 金琮鎬(学生 19歳 横浜)[3]
    近所の人に頼んで自警団の印の腕章をもらう

  • 崔承萬(在日本東京基督教青年会総務 東京/目白)[3]
    自警団により板橋警察署に連行 → 警視庁に呼び出された後、再び板橋警察署で保護

  • 羅祥允(女子学生 20歳 東京/本郷)[3]
    下宿の主人が奥の部屋に隠してくれる

  • 咸錫憲(学生 22歳 東京/本郷)[3]
    自警団により駒込警察署に連行され、保護

  • 金三奎(不明 15歳 東京/九段)[3]
    三人で下高井戸に避難し、親切な日本人にかくまわれる

  • 金鐘在(不明 東京/麹町)[3]
    家主や近所の蕎麦屋の主人が自警団を説得して襲撃を止めさせてくれた。その後自警団により四谷警察署に連行され、保護。

  • 金泰燁(労組活動家 23歳 東京/淀橋)[3]
    淀橋警察署に連行され、拷問を受けるが生き延びた。

  • 尹秀相(学生 18歳 東京/牛込)[3]
    震災当日板橋警察署に収容された。その後雇用主が連れ出してくれ、他の五人と共に家でかくまってくれた。

この他、栃木県警に収容された朝鮮人37名の調書が残っている[4]が、いずれも東京から列車で避難し、下車したところで暴徒に殴られたりしているところを警察に保護された、という内容になっている。

日本人の助けを借りずに生き延びたと言える事例は、次の例くらいしか見つからなかった。

  • 尹克栄(留学生 21歳 東京/高円寺)[3]
    流暢な日本語を話せるため自警団の検問を切り抜け、仲間とともに竹林で野宿していた。その後軍隊により電信隊駐屯地に連行され、保護。

尹氏らの場合、流暢な日本語で自警団の目をごまかせたのがポイントで、朝鮮人とバレていたらその場で殺されていただろう。しかし、当時日本にいた朝鮮人のほとんどを占めていた労働者たちにはこんな芸当はできなかった。

誰にも助けてもらえず、自力で逃げ隠れして生き延びようとした朝鮮人たちがどうなったかは、次の事例などから伺える。[5]

 「旦那、朝鮮人は何うですい。俺ア今日までに六人やりました。」

 「そいつは凄いな。」

 「何てつても身が護れねえ、天下晴れての人殺しだから、豪気なものでサア。」

(略)

 「けさもやりましたよ。その川っぷちに埃箱があるでせう。その中に野郎一晩隠れてゐたらしい。腹は減るし、蚊に喰はれるし、箱の中ぢやあ動きも取れねえんだから、奴さん堪らなくなって、今朝のこのこと這ひ出した。それを見つけたから皆で掴へようとしたんだ。」

(略)

 「奴、川へ飛込んで向ふ河岸へ泳いで遁げやうとした。旦那石つて奴は中々當らねえもんですぜ。みんなで石を投げたが、一も當らねぇ。でとうとう舟を出した。ところが旦那、強え野郎ぢやねえか。十分位も水の中へもぐつてゐた。しばらくすると、息がつまつたと見えて、舟の直きそばへ頭を出した。そこを舟にゐた一人の野郎が鳶でグサリと頭を引掛けてヅルヅル舟へ引寄せてしまつた。………丸で材木といふ形だアネ。」
といふ。

 「舟のそばへ來れば、もう滅茶々々だ。鳶口一でも死んでゐる奴を、刀で斬る、竹槍で突くんだから………」

彼らには、親切な日本人にかくまってもらうか警察に保護されない限り、生き延びるチャンスはほとんどなかったのだ。

[1] 朝鮮大学校編 『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』 1963年 P.141-164
[2] 関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会 『風よ鳳仙花の歌をはこべ』 教育史料出版会 1992年 P.94-97
[3] 西崎雅夫 『証言集 関東大震災の直後』 ちくま文庫 2018年 P.188-241
[4] 姜徳相・琴秉洞 『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』 1963年 みすず書房 P.282-317
[5] 横浜市役所市史編纂係 『横浜市震災史』 第5冊 1926年 P.431-433

 

九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

 
関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後―虐殺の国家責任と民衆責任

関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後―虐殺の国家責任と民衆責任