読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

読む・考える・書く

マスコミやネットにあふれる偏向情報に流されないためのオルタナティブな情報を届けます。

初期の近畿天皇家では兄弟殺しの簒奪事件が続発した(その1)

古代史 天皇制

九州から近畿に侵入した初代神武から2代目綏靖への代替わりは、兄殺しによる地位簒奪だった。そして、肉親殺しを伴う簒奪行為は、これが近畿天皇家で唯一の例というわけではない。

仲哀(14代)の二人目の后だった息長帯日売(オキナガタラシヒメ 紀:気長足姫)は、健内宿禰(タケシウチノスクネ 紀:武内宿禰)と組んで、まず仲哀本人、ついで仲哀の(他の后との間の)息子忍熊王(オシクマノミコ)を殺し、自分たちの息子(応神)を初代とする新王朝を樹立した。この応神から始まる王朝*1では、とりわけ骨肉間の争いが激しかったようである。

 

■応神(15代*2) ー> 仁徳(16代)

応神は何人もの后を娶って多くの子をもうけたが、あるとき、有力な二人の息子、大山守(オホヤマモリ)と大雀(オホサザキ 紀:大鷦鷯)を呼んで、次のように告げたという。
 
古事記 応神記:

すなはち詔り別けたまひしくは、「大山守の命は、山海の政せよ。大雀の命は、食国をすくにの政執りもちて、白したまへ。宇遅能和紀郎子は、天つ日継知らせ」と詔り別けたまひき。

 
この三人の息子は、それぞれ母親が違う。応神は、最年長の大山守には山林の管理をせよ、次の大雀には国の政治を執り行え(大臣的な役割を果たせ)と命じ、そして自分の地位は一番下の宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ 紀:菟道稚郎子)に継がせる、と宣言したわけである。

説話では、応神の死後、大雀は父の言いつけをよく守ったが、大山守は宇遅能和紀郎子を殺してその地位を奪おうとしたことになっている。そしてその結果はどうなったか。
 
古事記 応神記:

 かれ天皇崩りましし後に、大雀の命は、天皇の命のまにまに、天の下を宇遅能和紀郎子に譲りたまひき。ここに大山守の命は、天皇の命に違ひて、なほ天の下を獲むとして、その弟皇子を殺さむとする情ありて、竊ひそかに兵を設けて攻めむとしたまひき。ここに大雀の命、その兄の軍を備へたまふことを聞かして、すなはち使を遣して、宇遅能和紀郎子に告げしめたまひき。かれ聞き驚かして、兵を河の辺に伏せ、またその山の上に、絁垣きぬがきを張り、帷幕を立てて、詐りて、舎人を王になして、露に呉床あぐらにませて(どこからも見えるように座らせて)、百官、恭敬ひ往来ふ状、既に王子のいまし所の如くして、更にその兄王の河を渡りまさむ時のために、船檝かぢを具へ飾り、また佐那葛さなかづらの根を春うすづき、その汁の滑を取りて、その船の中の簀椅すばし(すのこ)に塗りて、蹈みて仆たふるべく設けて、その王子は、布の衣揮を服て、既に賎人やっこの形になりて、檝を執りて立ちましき。ここにその兄王、兵士を隠し伏せ、鎧を衣の中に服せて、河の辺に到りて、船に乗らむとする時に、その厳飾れる処を望けて、弟王その呉床にいますと思ほして、ふつに檝を取りて船に立ちませることを知らず、(略)

渡りて河中に到りし時に、その船を傾けしめて、水の中に堕し入れき。ここに浮き出でて、水のまにまに流れ下りき。(略)

ここに河の辺に伏し隠れたる兵、彼廂此廂あなたこなた、一時に興おこりて、矢刺して流しき。かれ詞和羅かわらの前に到りて沈み入りたまふ。かれ釣を以ちて、その沈みし処を探りしかば、その衣の中なる甲よろひに繋かりて、かわらと鳴りき。かれ其地に号づけて詞和羅の前といふなり。

 
この説話は一読して分かるように不自然である。大山守が弟を殺すつもりで兵を率いて行ったのなら、なぜ相手の目の前まで来て、兵を河辺に残したまま、たった一人で相手側の用意した船に乗ったりしたのか。渡った後、一人でどうするつもりだったのか。本当に兵など率いていたのか。

この事件については、古田武彦氏が次のように分析している[1]。
 

 (一)この説話を理解するための背景、それは応神の子供たち(男子四人)が、いずれも母を異にしていることだ。

(略)

 その中で、応神は宮主矢河枝比売とその子、宇遅能和紀郎子を愛し、彼に次の王位を与えようとした。ここに悲劇は胚胎した。

 (二)応神の死後、まず大山守命が斃される。そのさい、二つの注目点がある。

 ① 本来は、弟二人より彼の方が正統の継承者としての資格があったはずである(母が応神の妃となった三人姉妹の長姉であり、本人も年長)。

 ② 大山守命誅殺の経緯は、大雀命の意図に従って進行しているように見える。

 大山守命の罪状としては、

   天皇(応神)の命に違ひ、猶天の下を獲むと欲し、其の弟皇子を殺さむの情有り、竊かに兵を設けて将に攻めむとす。

と記されている。

 つまり、兄(大山守命)の内心には、そのような気持があった。そのため、ひそかに準備していた。これが罪名なのである。

 疑いなく存在した事実、それは応神の死後、大雀命が行動をおこし、兄を殺させた。この一事だ。その理由として、「兄の内心と未発の準備」があげられているのだ。

 ここで、前にあげた公理を思い出してほしい。――「A天皇の治世の説話は、次のBまたはC天皇のときに作られる」と。

 応神記の説話は、次の仁徳の治世、またはその子の履中の治世に作られた。すなわち、大雀命(仁徳)の策略が成功し、兄(大山守命)を亡き者にしたあと、残った側の手によって作られたものなのである。

 とすると現実は兄殺しだ。その兄殺しの正当化、それが、実は彼の内心がしかじかであり、その準備がなされていたから、止むをえなかったのだという理由づけだったのである。

 大山守命が本当に右のような異心を内心に抱いていたか否か、誰が知ろう。確かなこと、それは、仁徳とその子(履中)たちは、人民に対し、そのように信じさせたかった。この一事である。

 
この事件の後、大雀と宇遅能和紀郎子は互いに譲りあって三年の間どちらも即位せず、結局宇遅の和紀郎子が早死したため大雀(仁徳)が即位したことになっている。古事記には死因は書かれていないが、日本書紀では、宇遅能和紀郎子は大雀に大王位を譲るために自殺したとされている。その上、知らせを聞いた大雀が駆けつけると、死後三日経っていた宇遅能和紀郎子が棺から起き上がり、大雀の徳を称えて妹(八田若郎女)を献上してから改めて死ぬというオカルト話まで付け加えられている。
 
日本書紀 仁徳即位前紀:

太子の曰はく、「我、兄王の志(大王位を自分に譲るという意志)を奪ふべからざることを知れり。豈あに久しく生きて、天下を煩さむや」とのたまひて、乃ち自ら死をはりたまひぬ。時に大鷦鷯尊、太子、薨かむさりたまひぬと聞して、驚きて、難波より馳せて、菟道宮に到ります。爰ここに太子、薨りまして三日に経りぬ。時に大鷦鷯尊、摽擗むねをうち叫び哭きたまひて、所如せむずべ知らず。乃ち髪を解き屍に跨またがりて、三たび呼びて曰はく、「我が弟の皇子」とのたまふ。乃すなはち応時たちまちにして活いきでたまひぬ。自ら起きて居します。爰に大鶴鵜尊、太子に語りて曰はく、「悲しきかも、惜しきかも。何の所以にか自ら逝ぎます。若し死をはりぬる者、知さとり有らば、先帝、我を何いかがおもほさむや」とのたまふ。乃ち太子、兄王に啓して曰したまはく、「天命なり。誰か能く留めむ。若し天皇の御所に向まうでいたること有らば、具つぶさに兄王の聖にして、且しばしば譲りますこと有しませることを奏さむ。然るに聖王ひじりのみこ、我死へたりと聞しめして、遠路を急ぎ馳でませり。豈労ねぎらひたてまつること無きこと得むや」とまうしたまひて、乃ち同母妹いろも八田皇女を進たてまつりて曰はく、「納采あとふるに足らずと雖いへども、僅わづかに掖庭うちつみやの数に充つかひたまへ」とのたまふ。乃ち且また棺に伏して薨りましぬ。

 
しかし、そもそも父(応神)の命に従うというなら、宇遅能和紀郎子には譲る必要はなく、すぐに即位すればよかったはずである。説話の言うように自ら船頭に化けて大山守を倒すほど決断力と行動力に優れていたならなおさらである。

さらに、大雀は即位後、もう一人の異母弟速総別(ハヤブサワケ 紀:隼総別)王と、宇遅の和紀郎子の同母妹女鳥(メドリ 紀:雌鳥)王を殺している。罪状はまたもや、確認しようもない謀殺の意図である[2]。
 

簒奪者だけが知っている

 (四)右のような分析を、必ずしもことさら意地悪な視点に非ず、と思わせるのは、仁徳記の女鳥王と速総別王の悲話だ。

 ここでも女烏王の罪状は彼女が仁徳殺しを(速総別王に対して)示唆した歌を歌い、仁徳がそれを聞いたことになっている。

 しかし、すでに二人が殺されたあと、履中(仁徳の子)か反正(同)のとき、この説話は作られた。その歌の真否、――それは仁徳だけが知っている。

 (五)そして大事なこと、それはこの「女烏王殺し」とは、とりもなおさず宇遅能和紀郎子の同母の妹殺しだということだ。この女鳥王殺しによって、宇遅能和紀郎子系の親族の中の大雀命(仁徳)の即位に対して異を唱える者は消滅させられてしまったのではあるまいか(八田若郎女を除く)。

 A・B・Cの三人がいた。Aと、Bの一族は消された。それぞれ邪心をいだいていた、という理由で。――そしてCが即位した。

 簡単にいってこのような状況なのである。

 
古事記によると、軍を率いて速総別王と女鳥王を追い、二人を殺したのは山部の大楯の連(ヤマベノオオタテノムラジ)だが、この男は後に、女鳥王の死体から盗んだ腕輪を自分の妻に与えたという理由で処刑されている。これも、実際は二人と接触して内情を知ってしまった大楯の連の口を封じたのではないだろうか。

この段階でも大雀の異母兄弟はまだ何人か生き残っていたはずだが、もはや大雀の支配に異を唱えられるだけの力を持った者はいなくなっていたのだろう。

記紀では、大雀(仁徳)は聖帝として賛美され、その善政を称える説話(民の家々にかまどの煙が立っていないのを見て税を免除したなど)が書かれているが、これらの話も、父の簒奪行為を正当化したい息子たちの代に作られたことを考えれば、相当に割り引いて受け取る必要がある。
 
*1:学者によって、「河内王朝」「難波王朝」などと呼んでいる。
*2:本来ならば応神を初代として数えるべきだが、混乱を避けるためここでは慣例通りの代数で示す。

[1] 古田武彦 『古代は輝いていた(2)』 朝日新聞社 1985年 P.251-252
[2] 同書 P.253

※本記事中に引用した古事記の読み下し文は、武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説 『新訂 古事記』(角川文庫 1987年)に基き、一部変更・補足している。
※本記事中に引用した日本書紀の読み下し文は、坂本太郎家永三郎井上光貞大野晋校注 『日本書紀(二)』(岩波文庫 1994年)に基き、一部変更・補足している。
 

古代は輝いていた〈2〉日本列島の大王たち (朝日文庫)
 
古事記 (岩波文庫)

古事記 (岩波文庫)

 
日本書紀〈2〉 (岩波文庫)

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)