履中(17代)ー> 反正(18代)
応神朝における骨肉の争いは、仁徳の息子(応神の孫)たちの世代になると、さらに激しさを増してくる。もはや、父親が同じとはいえ日常生活では疎遠な異母兄弟間の争いではない。同じ母親のもとで一緒に育った同母兄弟同士の殺し合いである。
大雀(仁徳)は正妃石之日売(イハノヒメ 紀:磐之媛)との間に、次の四人の息子を得ている。
- 大江之伊耶本和気(オホエノイザホワケ 紀:大兄去来穂別)=履中(17代)
- 墨江之中津(スミノエノナカツ 紀:住吉仲)
- 蝮之水歯別(タジヒノミヅハワケ 紀:瑞歯別)=反正(18代)
- 男浅津間若子宿禰(ヲアサヅマワクゴノスクネ 紀:雄朝津間稚子宿禰)=允恭(19代)
大雀が死ぬと、まず長男の伊耶本和気が順当にその地位を継いだ。ところが、すぐ下の弟中津が、兄の暗殺を図って宮に放火するという事件が起こる。(日本書紀では履中の即位前の事件。)
古事記 履中記:
もと難波の宮にましましし時に、大嘗おほにへにいまして、豊の明したまふ時に、大御酒にうらげて(うかれて)、大御寝ましき。ここにその弟墨江の中つ王、天皇を取りまつらむとして、大殿に火を著つけたり。ここに倭やまとの漢あやの直あたへの祖、阿知の直、(履中を)盗み出でて、御馬に乗せまつりて、倭に幸でまさしめき。かれ多遅比野たぢひのに到りて、寤さめまして詔りたまはく、「此間ここは何処いづくぞ」と詔りたまひき。ここに阿知の直白さく、「墨江の中つ王、大殿に火を著けたまへり。かれ率ゐまつりて、倭に逃るるなり」とまをしき。
(略)
かれ上り幸でまして、石いその上かみの神宮にましましき。
ここにその同母弟いろせ水歯別の命、まゐ赴むきて謁さしめたまひき。ここに天皇詔りたまはく、「吾、汝が命の、もし墨江の中つ王と同じ心ならむかと疑ふ。かれ言かたらはじ」とのりたまひしかば、答へて曰さく、「僕は穢邪きたなき心なし。墨江の中つ王と同じくはあらず」と、答へ白したまひき。また詔らしめたまはく、「然らば、今還り下りて、墨江の中つ王を殺して、上り来ませ。その時に、吾かならず言はむ(打ち解けて話をしよう)」とのりたまひき。かれすなはち難波に還り下りまして、墨江の中つ王に近く習つかへまつる隼人、名は曾婆加里そばかりを欺きてのりたまはく、「もし汝、吾が言ふことに従はぼ、吾天皇となり、汝を大臣になして、天の下治らさむとおもふは那何いかに」とのりたまひき。曾婆詞里答へて白さく「命のまにま」と白しき。ここにその隼人に禄もの多さわに給ひてのりたまはく、「然らば汝の王を殺とりまつれ」とのりたまひき。ここに曾婆詞里、己が王の厠に入りませるを竊うかがひて、矛もちて刺して殺しせまつりき。
この説話も極めて疑わしい。伊耶本和気は、自分で言っているように、水歯別にも逆心があるのではないかと疑っている。当然、水歯別に自分の居所を知らせるはずはない。では、水歯別はどうやって逃げた伊耶本和気が石上神宮にいることを知ったのか。
再び、古田武彦氏の分析を聞いてみよう[1]。
このように見てくると、反逆者逆転のルールは、むしろ権力者継承説話の常道といっていいかもしれぬ。
(略)
まず、“大殿に火が出た”こと、これは確かであろう。しかし、その火災が放火であり、その放火犯人が墨江中王であること、さらにその放火の意図は履中殺しにあったこと、それは果していかにして確認されたことなのであろうか。
ともあれ、そのように、履中に告げた者がいたことは確かなようだ。それは誰か。履中が水歯別命に「犯人(兄)殺し」を命じたところから見ると、そのように告げた者もまた、水歯別命、またはその手の者であった可能性があろう。
そして犯人(墨江中王)は首尾よく殺され、水歯別命が次の位に即いた。第十八代の反正だ。そして右の履中記の説話は、この反正のとき、作られたのだ。その説話の背後に隠された真実を誰が知ろう。知りうること、それは「反正の兄殺し」が正当化されている。その一点である。
「反逆者」墨江之中津を殺した功績により水歯別が皇太子となった(履中紀2年正月)結果、履中の息子たちは大王となる機会を失った。
ところで、曾婆詞里に中津を殺させた後、水歯別はその曾婆詞里をも殺してしまう。
古事記 履中記:
かれ曾婆詞里を率て、倭に上り幸でます時に、大坂の山口に到りて、以為おもほさく、曾婆詞里、吾がために大き功いさをあれども、既におのが君を殺せまつれるは、不義なり。然れどもその功に報いずは、信無しといふべし。既にその信を行はぼ、かへりてその情を惶かしこしとおもふ。かれその功に報ゆとも、その正身ただみを滅しなむ(本人は殺してしまおう)と思ほしき。ここをもちて曾婆詞里に詔りたまはく、「今日は此間ここに留まりて、まづ大臣の位を給ひて、明日上り幸いでまさむ」とのりたまひて、その山口に留まりて、すなはち仮宮を造りて、忽に豊の楽あかりして、その隼人に大臣の位を賜ひて、百官をして拝ましめたまふに、隼人歓喜よろこびて、志遂げぬと以為おもひき。ここにその隼人に詔りたまはく、「今日大臣と同じ盞うきの酒を飲まむとす」と詔りたまひて、共に飲む時に、面おもを隠す大鋺まりにその進たてまつれる酒を盛りき。ここに王子まづ飲みたまひて、隼人後に飲む。かれその隼人の飲む時に、大鋺、面を覆ひたり。ここに席むしろの下に置ける剣を取り出でて、その隼人が頸を斬りたまひき。
曾婆詞里は隙を突いて中津を殺せるほどその側近くに仕えていたのだから、本当に中津が履中を殺そうとしたのかどうか、よく知っていたはずである。水歯別にとっては、この男に生きていられては都合が悪かったのだろう。
「反逆者」を直接手にかけた者は殺されるというのも、権力者継承説話の常道と言っていいのかもしれない。
[1] 古田武彦 『古代は輝いていた(2)』 朝日新聞社 1985年 P.273-274
※本記事中に引用した古事記の読み下し文は、武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説 『新訂 古事記』(角川文庫 1987年)に基き、一部変更・補足している。
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