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トロッコに乗せてくれた親切なおじさんも殺された ― 9歳の少女が体験した朝鮮人虐殺

関東大震災から70年後の1993年、経済専門誌という意外な場所に、震災当時9歳の少女だった女性の体験談が書かれていた。

少女の一家は震災のわずか10日ほど前に横浜の中心地に近い吉田町から、同じ市内ではあっても当時は田舎だった西戸部に引っ越し、ここで荷物の整理も済まないうちに震災に遭っている。引っ越したばかりで友達もなく、一人で原っぱで遊んでいた少女が体験した話である[1]。

関東大震災の思い出
                 栄 女

 大正十二年九月一日の関東大震災の時に私は数え年九歳だった。私はその時起ったことをいつか人に話したいと思って来たが、言えなかった。(略)毎年九月一日が来る度に言いたくて言えなかったことを思い出して、ああ今年も私はあのことを覚えていたと思うのだった。

 九歳の8月私はよその子よりよっぽど遅いはしかにかかって夏休み中の暑い盛りに毛布にくるまって寝ていなければならなかった(略)そして治ってすぐにどういう訳か引越しをした。横浜の伊勢佐木町のすぐ裏通りの吉田町という言わば横浜市の中心地に近い所から西戸部というずっと田舎町の方に引越したのだった。(略)西戸部へは八月の二十日を過ぎた頃に引越したばかりだったので知り人は居ないし、近所隣もあまりなくみすぼらしい家で、子供心にも何とも言えない淋しさだった。(略)
 私は独りぼっちですぐ裏から続く原っぱで何をしていたか覚えていないが遊んでいた時に、少し向うにトロッコが走っていた。そのトロッコのそば迄行って見ていたところ、トロッコを押していたその時分は朝鮮人と言っていたおじさんが、「乗りたいか」と聞いた。私はコックリとうなずいた。おじさんは私を抱いてトロッコの前に乗せてくれた。そして向う側に着くと空になった帰りのトロッコに私を渡してくれた。そして元に戻ると何かを乗せてまた私を乗せてくれた。それからはいく日か家を抜け出せる時は原っぱに行ってトロッコに乗せて貰った。私の判らない言葉で隣のトロッコにひょいと渡してくれて、とても楽しかった。何故か判らないが、このことを言っては悪いような気がして家へ帰ってもだまっていた。養母は独り遊びが好きな子だからと思っていたようであった。

 一日の大震災の時も独りだった。養父がどこから買って来たのか昔県庁にあったという大きな事務机の前の椅子に腰をかけて足をプラプラさせてその机の上で折り紙を折っていた。その時大地震が来た。椅子は倒れて足の指に少し怪我をした。私はびっくりしてしまってそのままでいた。(略)養父は一日の午前中に私の転校届を出す為に出掛けたのだが、その日は帰らなかった。一軒家で周りは原っぱだったので火は出なかった。翌日の朝のうちに養父は真黒になって帰って来た。帰る途々で梁の下になった人や、火の中から助けを呼ぶ人たちを助けて歩いて、家迄は帰れなかったということだった。

(略)その夜から恐ろしい事が起きるのだった。養父を迎えに来た人に誘われて養父も棍棒を持って出掛けた。外が騒がしくなり、そのワーワーという人声に混って人の悲鳴が聞えた。その晩養父が帰って来て言うには、悪いことをした朝鮮人を追いつめて交番の前に折り重ねて置いて来たということだった。
 私は机の下でブルブルと震えていた。そんな事はない、そんな事はないと、口出して言えないまま心の中で叫んでいた。あのおじさん達が悪いことをする筈がない、それなのに大勢の人に棍棒でなぐられて交番の前に積み重ねられている。どうして、どうして、そんなことにと、養父をはじめ追いつめた人達に言いたかった。でもどうしても言葉に出して言えなかった。「怖がることは何もないのだよ、此処へは朝鮮人は誰も来ないからね」と養父は震えている私に言った。養母は「変な子だね、地震の時に椅子に挟まれているのを引っぱり出した時には泣きもしなかったのに、さあ、もう寝なさい、此処なら地震が来ても大丈夫だから」と言って隣りの部屋に行ってしまった。私はいつ迄も震えが止まらなかった。

 その時のことは関東大震災の記念日が来る度に思い出すことなのだが.言葉に出してはどうしても言えなかった。(略)

 七十年前のあの日のことは、東京、横浜ではどこでも起きたことで.日本人の中にも朝鮮人と間違われて殺された人があるという話も聞いた。
 私はそういうことからは無縁なところで生きて来たつもりだったけれど、いやおうなしにその後日本人は戦争に巻き込まれて行った。そしていまは平和になった筈の日本中が、考えて見れば少しも平和ではない。何故だろう、何故だろう、と思うのである。

 数え年九歳の女の子の前を通って混棒を持った養父が出て行った。孤独な女の子をトロッコに乗せて遊ばせてくれたあの朝鮮人のおじさん達は、衆を頼んでのこととは言え殺された。それは養父の罪でないことは判っていたけれど、その時の事は何かに向ってどうしても許せないという想いがして消えなかった。
 私がいなくなれば養父母のお墓の在りかも判らなくなると思い、去年永代供養を済ませた。関東大震災の日となると、私に親切だったあの朝鮮人のおじさん達と養父が今でも二重写しになってなかなか消えない。だが今私の心の中で、もう忘れることにしようと思っている。


9歳の孤独な少女と、同じ年頃の娘を郷里に置いて出稼ぎに来ていたのかもしれない朝鮮人労働者とのささやかな交流。そんなおじさんたちが、家にも帰らず被災した人々を助けていた優しい父親たちの手で、理不尽に殺されたという残酷な記憶。70年もの間、誰にも言えないまま抱えてきた辛い記憶を、もう忘れたいと思うのは、人間として自然な感情かもしれない。

しかし、社会は、こうした過去を決して忘れてはならない。

[1] 栄女 『うらじろ草子 関東大震災の思い出』 国際経済研究 1993年10月号 P.25-26

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