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言葉の差別性に語源は関係ないことを示す追加的事例

前回記事で、朝鮮人を指す蔑称「チョン」を例に、言葉の差別性は語源などではなく使われ方で決まることを説明した。

このように、もともと差別性のなかった言葉が差別語に転化した事例は他にもある。

「チャンコロ」

中国人を指す蔑称「チャンコロ」の差別性を否定する人はさすがにいないだろうが、この言葉も、そもそもの語源から言えば差別とは関係ない中立的なものだった。

思想史研究家の安川寿之輔氏[1]によれば「清国人」、下士官(伍長)として日中戦争に従軍した三好捷三氏[2]によれば「中国人」の中国語発音が、日本式に訛ったものが語源であるらしい。

 (略)なお、私の体験で、福沢(注:諭吉)のアジア認識についての講演(不戦兵士の会、九七年)の質疑の時間に、私の方から、「明治生まれ」の参加者たちに「チャンコロ」「チャンチャン」の語源の教えを乞うた際に、小学校の先生からこう教えられたという、あり得そうな「作り話」を聞いた。日清戦争の時の日本の鉄砲は、「チャン」という小さな銃声しかでないが、そんな銃弾が当たっても中国兵は「コロリ」と死ぬので「チャンコロ」と呼ぶようになったとのことである。その時の回答で、私がそうかもしれないと納得できた中国生活体験者の説明は、当時の中国人は清国人のことであり、中国語で清国人は「チングォーレン」と発音するので、それが訛って「チャンコロ」となったということであった。事実の究明は宿題として残したい。

 また、対外的には外国の国民と軍隊を理由もなくさげすんでいた。それは中国人のことを「チャンコロ」と呼んでいたことにあらわれている。「チャンコロ」とは、中国人(チュンコレン)の発音を日本流になまったものだと思うが、その呼び万は明治二十七、八年(一八九四、五年)の日清戦争の勝利以来、中国人を日本人より数段おとる虫ケラのように弱い民族だ、と思いこんでいたことからおこった蔑称であった。この中国人蔑視が軍隊をふくむわれわれ日本人の根底にあったがために、チャンコロとの戦争などたいしたことはないとタカをくくり、それが呉淞ウースンの大犠牲となり、私たちに支給された骨董品の手榴弾となっていたともいえよう。

この、本来は中立的なはずの言葉がどのような差別的文脈の中で使われてきたかは、次の例などに典型的に見ることができる。[3]

 三七年一二月一四日東京市で四〇万人の提灯行列がおこなわれたのを頂点として、全国が南京陥落祝賀に酔いしれた。デパートや商店街はいっせいに大売出しをはじめ、各劇場では劇の途中や終幕で主役が南京陥落を告げ、観客とともに万歳を三唱したりした。作家角田房子氏はつぎのように書いている。

 この十二月十三日夜、私はたまたま歌舞伎座にいたが、芝居が終った後、六代目尾上菊五郎を中心に二人の俳優が加わり、南京陥落を祝して踊った。黒紋付に袴姿の菊五郎が金扇をかざして舞い納めた姿に、観客は狂気のような拍手を送り、上のほうからは「チャンコロ、思い知ったかあ」の声が飛んだ。あの夜の、戦勝に酔い、中国人に対するあなどりを粗暴に発散させた人々の興奮を思い起すと、寛大な和平条件を冷静に支持することがいかに困難であったかを、今にして察することができる。(『いっさい夢にござ候――本間雅晴中将伝』一九七二年)

「ジャップ」

日本人に対する蔑称「ジャップ」も、もともとの語源から言えば“Japan/Japanese”の先頭3文字を取った略称に過ぎず、差別性などない中立的な表現だった。

「チョン」は本来差別語ではなかった、などと言いたがる人たちは、自分がアメリカ人から「ジャップ」呼ばわりされたあげく、「いや、JAPはもともとJAPANESEの略語で差別語なんかじゃないんだよーw」と教え諭されたらどんな気分か、想像してみたらいいのではないだろうか。

[1] 安川寿之輔 『福沢諭吉のアジア認識』 高文研 2000年 P.162-163
[2] 三好捷三 『上海敵前上陸』 図書出版社 1980年 P.67
[3] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.320-321

 

福沢諭吉のアジア認識―日本近代史像をとらえ返す

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大系 日本の歴史〈14〉二つの大戦 (小学館ライブラリー)

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