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「拝謁記」で明らかになった天皇裕仁の詭弁と責任回避

8月17日に放映されたNHKスペシャル『昭和天皇は何を語ったのか ~初公開・秘録「拝謁記」~』。戦後初代の宮内庁長官となった田島道治が天皇裕仁の言動を5年近くにわたって詳細に記録した文書が新たに発見(遺族により公開)され、その内容を紹介した番組だ。

全体としては、裕仁が戦争を深く反省していたとか、軍閥の「下剋上」に逆らえずやむを得ず開戦したとか、戦後になって作られた天皇免責のためのフェイクストーリーをなぞった内容に過ぎなかったが、一部注目すべき部分もあった。

■ 「事志と違ひ」は責任転嫁の言葉

ひとつはサンフランシスコ講和条約発効(1953/5/3)を祝う式典での「おことば」を巡ってのやりとりだ。

この「おことば」の草案には、今まで知られていなかった次のような一節が含まれていた。

事志と違ひ 兵を列国と交えて敗れ

人命を失い 国土を縮め

遂にかつて無き不安と困苦とを招くに至ったことは

遺憾の極みであり

国史の成跡に顧みて 悔恨悲痛

寝食為めに 安からぬものがあります

「拝謁記」によれば、冒頭の「事志と違ひ」、つまり開戦は自分の意志ではなかった、という言葉は裕仁の強い希望により入れられたものだったが、草案の検討過程で宮内庁幹部の反対に遭い、「勢の赴くところ」という言葉に差し替えられたという。

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(略)田島が宮内庁内部の意見として「何か感じがよくないとの事であります」と説明すると、昭和天皇は、「どうして感じがよくないだろう。私は『豈あに、朕が志ならんや』といふことを特に入れて貰ったのだし、それをいってどこが悪いのだろう」「私はあの時東條にハッキリ、米英両国と袂を分かつということは実に忍びないといったのだから」と抗弁。開戦が自分の本意ではなかったこと、開戦の詔勅にも「豈、朕が志ならんや」という文言を入れさせたことなどを強調していた。

 拝謁記には、これに対して、田島が「陛下が『豈、朕が志ならんや』と仰せになりましても結局陛下の御名御璽の詔書で仰せ出しになりましたこと故、表面的には陛下によって戦が宣せられたのでありますから、志でなければ戦を宣されなければよいではないかという理屈になります」と諌めたことも記録されている。

裕仁は、開戦が自分の意志ではないことを示すために、開戦の詔勅に「豈、朕が志ならんや(どうして私の意志であろうか)」という文言を入れさせたのだと言う。ではその開戦の詔勅とはどのようなものだったか。[1]

詔 書

天佑を保有し萬世一系の皇祚を踐める大日本帝国天皇は昭に忠誠勇武なる汝有衆に示す。

朕茲に米国及英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は全力を奮て交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し、朕が衆庶は各々其の本分を尽し、億兆一心国家の総力を挙げて征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ。

抑々東亜の安定を確保し、以て世界の平和に寄与するは丕顕なる皇祖考丕承なる皇考の作述せる遠猷にして、朕が挙々措かざる所、而して列国との交誼を篤くし、万邦共栄の楽を偕にするは、之亦帝国が常に国交の要義と為す所なり。今や不幸にして米英両国と釁端を開くに至る、洵に巳むを得ざるものあり。豈朕が志ならむや。

中華民国政府、曩に帝国の真意を解せず、濫に事を構へて東亜の平和を攪乱し、遂に帝国をして干戈を執るに至らしめ、茲に四年有余を経たり。幸に国民政府更新するあり、帝国は之と善隣の誼を結び相提携するに至れるも、重慶に残存する政権は、米英の庇蔭を恃みて兄弟尚未だ牆に相鬩くを悛めず。米英両国は、残存政権を支援して東亜の禍乱を助長し、平和の美名に匿れて東洋制覇の非望を逞うせむとす。剰へ与国を誘ひ、帝国の周辺に於て武備を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有らゆる妨害を与へ、遂に経済断交を敢てし、帝国の生存に重大なる脅威を加ふ。朕は政府をして事態を平和の裡に回復せしめんとし、隠忍久しきに彌りたるも、彼は毫も交譲の精神なく、徒に時局の解決を遷延せしめて、此の間却つて益々経済上軍事上の脅威を増大し、以て我を屈従せしめむとす。斯の如くにして推移せむか、東亜安定に関する帝国積年の努力は、悉く水泡に帰し、帝国の存立亦正に危殆に瀕せり。事既に此に至る。帝国は今や自存自衛の為、蹶然起つて一切の障礙を破砕するの外なきなり。

皇祖皇宗の神霊上に在り。朕は汝有衆の忠誠勇武に信倚し、祖宗の遺業を恢弘し、速に禍根を芟除して東亜永遠の平和を確立し、以て帝国の光栄を保全せむことを期す。

  御 名 御 璽

   昭和十六年十二月八日

    各国務大臣副署

一読すれば明らかなように、結局この詔勅が言っていることは、中国と戦争になったのは「帝国の真意」を理解しようとせず、日本に武力行使をさせた中国側が悪い、米英はその中国に味方してアジアを支配しようとしている、それでも自分は我慢して平和裏に交渉を続けてきたが、もう我慢の限界だから開戦する、ということであって、「豈、朕が志ならんや」というのも、戦を欲していない自分に戦争を始めさせる米英中が悪いのだ、という責任転嫁の言葉でしかない。

「おことば」の前記の一節は、結局吉田茂首相の反対により削除されてしまうのだが、全体として見ても、先祖伝来の領地を減らした封建領主が「ご先祖様に申し訳ない」と言っているような代物であって、まったくもって自分の仕出かしたことの重大性を理解していない。こんなものが戦争への反省だとは呆れるしかない。

■ 「軍部の下剋上に逆らえなかった」も詭弁

また「拝謁記」には、暴走する軍部に逆らえずに開戦に至ったのだ、という裕仁の弁解が何度も出てくる。

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昭和天皇は昭和26年9月10日の拝謁で「東條が唯一の陸軍を抑え得る人間と思つて内閣を作らしたのだ。勿論(もちろん)見込み違いをしたといえばその通りだが」と振り返り、昭和26年12月14日の拝謁では「平和を念じながら止められなかった」、「東条内閣の時ハ既ニ病が進んで最早(もはや)どうすることも出来ぬといふ事になつてた」と述べたと記されています。

また、昭和27年5月28日の拝謁では「東條は政治上の大きな見通しを誤ったといふ点はあったかも知れぬ」としたうえで、「強過ぎて部下がいふ事をきかなくなった程下剋上的の勢が強く、あの場合若し(もし)戦争にならぬようにすれば内乱を起した事になったかも知れず、又東条の辞職の頃ハあのまゝ居れば殺されたかも知れない。兎に角(とにかく)負け惜しみをいふ様だが、今回の戦争ハあゝ一部の者の意見が大勢を制して了(しま)つた上は、どうも避けられなかつたのではなかつたかしら」と語ったと記されています。

嘘である。

軍部の暴走は事実だが、それができたのは明治憲法で「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と規定され、軍事は政府による統制を受けない天皇の専権事項とされていたからだ。だから軍部は「神聖ニシテ侵スヘカラス」とされた天皇の威を借りて政府や議会を恫喝することはできても、「大元帥」たる天皇自身の意志に逆らって戦争を始めることなど原理的に不可能なのだ。

日米開戦を運命付けたのは「帝国国策遂行要領」を可決した1941年9月6日の御前会議だが、この席で裕仁は異例の発言を行っている。[2]

『帝国国策遂行要領』は可決された。日米交渉は期限(十月上旬頃)つきとなり、対米(英、蘭)開戦意志が国家意志として決定されたのである。

 会議の終りに異例の現象が生じた。天皇が発言したことである。

天皇 私カラ事重大ダカラ両統帥部長二質問スル。
  先刻原ガコンコン述べタノニ対シ両統帥部長ハ一言モ答弁シナカッタガドウカ。
  極メテ重大なコトナリシニ、統帥部長ノ意志表示ナカリシハ自分ハ遺憾ニ思う。私ハ毎日明治天皇御製ノ

    四方よもの海皆同胞はらからと思ふ代になどあだ波の立騒ぐらむ

  ヲ拝誦シテ居ル。
  ドウカ。

 近衛手記『平和への努力』では、このあと、天皇が「余は常にこの御製を拝誦して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述せむと努めて居るものである」と発言をつづけたことになっている。満座粛然、暫くは一言も発する者なし、とある。

(略)

『杉山メモ』は、「……直接『遺憾ナリ』トノオ言葉アリシハ恐曜ノ至ナリ。恐察スルニ極力外交ニヨリ目的達成二努力スヘキ御思召ナルコトハ明ナリ。又統帥部力何力戦争ヲ主トスルコトヲ考へ居ルニアラスヤトオ考ヘカトモ拝察セラルル節ナシトセス」と、九月六日の項の末尾に誌している。

 発言しない建前の天皇が発言したのは異例のことである。つまり、天皇は意思表示せずにはいられなかったと解すべきであろう。もしそうなら、天皇は詩歌の朗読による表現などとるべきではなかった。詩歌は感傷的感懐の表現手段でしかない。事はまさに国運が決する瞬間だったのである。

(略)

「四方の海」の御製の朗読の代わりに、あるいは朗読のあとでもよかった、天皇がもし戦争は欲しなかったのなら、朕は戦争を欲せず、とひとこと言ったらどうであったか
 詩歌に意思を托したりせずに、明確に直接表現をとったら、どうであったか。
 沈黙の慣例は天皇みずからによって破られているのである。天皇の直接的意思表示が異例のこととして行われたとしても、行われてしまえば、それを輔弼ほひつするのが列席者たちの任務なのである。
 詩歌の朗読では、意思はどれほど明瞭に感取されても、手続き上は忖度そんたくでしかないから決定力を持たない。

 列席者は恐懼したが、それだけである。日米交渉に国運が懸っていたとすれば、その日米交渉妥結にとって最大の障害となる『帝国国策遂行要領』を、九月六日の御前会議は可決したのである。天皇は消極的感想を三十一文字に托しはしたが、最高権威者として否認はしなかった。沈黙の人が、決定的瞬間に沈黙を破る必要を感じ、しかも決定的なことは言わなかったのである。明らかな責任回避であった。

 これ以後、国家は、奈落への急坂を加速して転落する。

裕仁は、国家の運命を決する決定的瞬間に明確な意思表示を避けて国家元首としての責任を放棄した上、敗戦後は、自分は立憲君主だから政府の決めたことは不満があってもすべて裁可したなどと言って臣下に責任を転嫁した。

こんな人物のために命を奪われたすべての人々が哀れでならない。

[1] 芝蘭堂 『太平洋戦争 対米英宣戦の詔書
[2] 五味川純平 『御前会議』 文春文庫 1984年 P.161-163

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