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玉音放送でも嘘だらけだった天皇裕仁

今日は敗戦の日(昭和天皇裕仁が、連合国に無条件降伏することを自らラジオ放送で表明した日)だが、その内容の現代語訳をハフィントンポストが紹介してくれている。

これを見ると、そのいわゆる「玉音放送」においても、裕仁の発言は嘘だらけだったことがよくわかる。

www.huffingtonpost.jp

私は、世界の情勢と日本の現状を深く考え、緊急の方法でこの事態を収拾しようとし、忠実なるあなた方臣民に告げる。

私は政府に対し、「アメリカ、イギリス、中国、ソ連の4カ国に、共同宣言(ポツダム宣言)を受け入れる旨を伝えよ」と指示した。

そもそも日本臣民が平穏に暮らし、世界が栄え、その喜びを共有することは、歴代天皇の遺した教えで、私も常にその考えを持ち続けてきた。アメリカとイギリスに宣戦布告した理由も、日本の自立と東アジアの安定平和を願うからであり、他国の主権を排して、領土を侵すようなことは、もとより私の意志ではない。だが、戦争はすでに4年も続き、我が陸海軍の将兵は勇敢に戦い、多くの役人たちも職務に励み、一億臣民も努力し、それぞれが最善を尽くしたが、戦局は必ずしも好転せず、世界情勢もまた日本に不利である。それだけでなく、敵は新たに残虐な爆弾を使用して、罪のない人々を殺傷し、その惨害が及ぶ範囲は測り知れない。なおも戦争を続ければ、我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破壊してしまうだろう。そのようなことになれば、私はどうして我が子のような臣民を守り、歴代天皇の霊に謝罪できようか。これが、共同宣言に応じるよう政府に指示した理由だ。

私は、アジアの解放のため日本に協力した友好諸国に対し、遺憾の意を表明せざるをえない。(略)

よく言うよ。

1943年5月31日に御前会議で決定された機密文書「大東亜政略指導大綱」には次のように書かれている。

第二 要綱

(略)

四、対緬(ビルマ=ミャンマー)方策

  昭和18年3月10日大本営政府連絡会議決定 緬甸独立指導要領 に基づき施策す

五、対比(フィリピン)方策

  成るべく速に独立せしむ
  独立の時機は概ね本年10月頃と予定し、極力諸準備を促進す

六、其他の占領地域に対する方策を左の通定む
  但し(ロ)(ニ)以外は当分発表せず

(イ) 「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」は帝国領土と決定し、重要資源の供給源として極力之が開発ならびに民心の把握に努む

(ロ) 前号各地域に於ては、原住民の民度に応じ努めて政治に参与せしむ

(ハ) 「ニューギニア」等(イ)以外の地域の処理に関しては、前二号に準じ追て定む

(ニ) 前記各地に於ては当分軍政を実施す

マレーシアとインドネシア主要部(スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島、セレベス海域)は、欧米植民地からの解放どころか日本領土に編入してしまう方針が明記されている。ニューギニア等の地域もいずれ日本領にするつもりだった。

また、この「大綱」ではビルマとフィリピンは独立させるとしているが、いずれも傀儡政権であり、「独立」は見せかけだけのものだった。[1]

 日本は43年8月ビルマの、10月フィリピンの「独立」を認め、両国での軍政は形式上は廃止された。しかし42年8月の「軍政総監指示」は「この独立は軍事、外交、経済等にわたり帝国の強力なる把握下に置かるべき独立なる点特に留意を要する」としており、日本の軍事的支配という実態はかわらなかった。

 この両国および満州国・汪政権・タイなど対日協力政権の代表者を東京にあつめて、43年11月、大東亜会議が開かれ、「大東亜共同宣言」を発表したが、占領の実態からかけ離れた美辞麗句をならべたものであった。

だいたい、フィリピンは日本が「独立」させるまでもなく、以前から米国が1944年7月に独立を与えると約束していた。(戦後、約束どおりフィリピン第三共和国として独立。)いや、そもそもアジア太平洋戦争自体、日本が長年にわたって中国を侵略し、その領土を掠め取る戦争を続けてきたことの必然的帰結だったではないか。

なにが「他国の主権を排して、領土を侵すようなことは、もとより私の意志ではない」だ。

また、最終的に降伏を決断した理由も、人民の犠牲を憂慮してのことなどではなく、このまま戦争を続けては自分たち天皇家が神の子孫だという神話的正統性(=「国体」の本質)を担保する「三種の神器」が失われることを恐れてのことだった。[2]

 また、「独白録」をみても、天皇が皇位の正統性の象徴としての「三種の神器」の保持に強く固執し、「敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい」という判断から、ポツダム宣言の受諾にふみきったことがわかる。「三種の神器」とは、歴代の天皇が継承してきた三つの神宝、八咫の鏡、草薙の剣、八尺瓊の勾玉の総称であり、そのうち伊勢・熱田両神宮には鏡と剣が祀られている。この「三種の神器」の喪失が「国体」を危うくするという論理は、あまりに神権主義的な色彩が強いために、現代のわれわれには理解しにくいが、現実の天皇の意識のなかでは、こうした判断が大きな比重を占めていたのだろう。

総力戦の末の敗戦という最終場面に至っても、裕仁は人民には平気で嘘を語っていたのだ。

[1] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.411-412
[2] 吉田裕 『昭和天皇の終戦史』 岩波新書 1992年 P.221

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