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中国側が「日本が尖閣を盗んだ」と言うのには十分な理由がある

 

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鳩山由紀夫氏は「日本が尖閣を盗んだ」とする中国側の主張に一定の理解を示したが、『盗んだものは返すのが当然』と自ら主張したわけではない。この点、日本報道検証機構が一連のマスコミ報道に警告を発している。

 

GoHoo(7/7)

鳩山氏「盗んだものは返すのが当然」 見出し要注意

時事通信は、6月27日付で「尖閣『盗んだものは返すのが当然』=鳩山元首相、中国でも発言」の見出しをつけ、鳩山由紀夫元首相が27日、中国の清華大学主催のフォーラムに出席した際の尖閣諸島に関する発言を報じました。この見出しだけを見ると、「盗んだものは返す」という表現がカイロ宣言の引用であることが伝わらない上、あたかも鳩山氏が尖閣諸島を中国に返すべきとの自らの考えを表明したかのように認識される可能性があります。しかし、記事本文で引用された鳩山氏の発言内容や各紙の報道も踏まえると、鳩山氏は「日中それぞれに言い分がある」と言及し、中国側の立場にも一定の理解を示してはいるものの、中国に返還すべきとの考えを表明したわけではないとみられます。

他方で、日本経済新聞(電子版)によると、鳩山氏は「領土問題にはそれぞれの国の言い分がある」とも発言した上(前出共同電もこの発言を報道)、「対立の棚上げ」など5原則を提案した台湾の馬英九総統の考えへの支持を表明したとのことです。…こうした「棚上げ」への言及や「それぞれの国の言い分がある」という発言とあわせると、鳩山氏は尖閣諸島を中国に「返すのが当然」という考えを表明したものではないと考えられます。

なお、当機構が調査したところ、時事通信が見出しにつけた「盗んだものは返すのが当然」というフレーズは、インターネット上で一人歩きして拡散し、主要紙のニュースサイトでも「尖閣について『中国から盗んだものは返さねばならない』と発言した鳩山由紀夫元総理」と書かれた外部執筆者の記事を確認(MSN産経ニュース7月6日付記事)。時事通信の見出しがきっかけで、日本の元首相が尖閣諸島を中国に返還すべきとの考えを表明したという誤った事実認識が内外に広まる可能性があります。

 

ちなみに、当人の発言内容も確認せずにヨタ記事を書き飛ばしているこの大馬鹿者の「外部執筆者」とは、花田紀凱である。

 

ところで、なぜ中国側は、尖閣諸島を日本が「盗んだ」と言うのだろうか?

これは、日本が尖閣諸島を「日本領」とした際に、どういうやり方をしたかを見るとよく分かる。

 

尖閣が「日本固有の領土」とは何かの冗談か?』でも説明したように、日本が尖閣諸島の領土編入を閣議決定したのは、日清戦争が日本の大勝利で終わる直前の1895年1月14日である。

問題はその後だ。

 

井上清 『「尖閣」列島−−釣魚諸島の史的解明』 (1972)

 明治政府の釣魚諸島窃取は、最初から最後まで、まったく秘密のうちに、清国および列国の目をかすめて行なわれた。一八八五年の内務卿より沖縄県令への現地調査も「内命」であった。そして外務卿は、その調査することが外部にもれないようにすることを、とくに内務卿に注意した。九四年十二月の内務大臣より外務大臣への協議書さえ異例の秘密文書であった。九五年一月の閣議決定は、むろん公表されたものではない。そして同月二十一日、政府が沖縄県に「魚釣」、「久場」両島に沖縄県所轄の標杭をたてるよう指令したことも、一度も公示されたことがない。それらは、一九五二年(昭和二十七年)三月、『日本外交文書』第二三巻の刊行ではじめて公開された。

 のみならず、政府の指令をうけた沖縄県が、じっさいに現地に標杭をたてたという事実すらない。日清講和会議の以前にたてられなかったばかりか、その後何年たっても、いっこうにたてられなかった。標杭がたてられたのは、じつに一九六九年五月五日のことである。すなわち、いわゆる「尖閣列島」の海底に豊富な油田があることが推定されたのをきっかけに、この地の領有権が日中両国側の争いのまととなってから、はじめて琉球石垣市が、長方型の石の上部に左横から「八重山尖閣群島」とし、その下に島名を縦書きで右から「魚釣島」「久場島」「大正島」およびピナクル諸嶼の各島礁の順に列記し、下部に左横書きで「石垣市建之」と刻した標杭をたてた(註)。これも法的には日本国家の行為ではない。

 

つまり、尖閣諸島を日本領に編入した閣議決定はそもそも公示されなかったし、「標杭建設」を閣議決定したはずだったのに、その標杭すら建てられなかった。だから、日本が尖閣を日本領に編入したなどということは、当時、清国を始めとする諸外国はもとより、日本人でさえ内閣閣僚とごく一部の関係者以外、知らなかったはずである。

まさに、こっそりと、いつのまにか「尖閣は日本領」ということにしてしまった、のである。

 

これを指摘すると、「国際法上、無主地の先占は必ずしも公示する必要はない」などと、したり顔で言ってくる人がいる。

しかしそれならば、なぜ「竹島(独島)」の領土編入は公示したのか?

 

さらに、釣魚諸島の「領有」より後のことであるが、一九〇五年(明治三十八年)、朝鮮の鬱陵島近くの、それまでは「松島」あるいは「リャンコ島」として、隠岐島や島根県沿岸の漁民らに知られていた無人島を、新たに「竹島」と名づけて日本領に編入(註)したさいも、一月二十八日に閣議決定、二月十五日、内務大臣より島根県知事に「北緯三十七度三十秒、東経百三十一度五十五分、隠岐島ヲ距ル西北八十五浬ニ在ル島ヲ竹島ト称シ、自今其ノ所属隠岐島司ノ所管トス。此ノ旨管内ニ告示セラルベシ」と訓令した。そして島根県知事は、二月二十二日内相訓令通りの告示をした(大熊良一「竹島史稿」)。

 

1905年といえば、日本による韓国の植民地化が着々と進行しつつあったときだ。既に前年の1904年、「第一次日韓協約」が締結され、日本は韓国の外交権を事実上奪い取っていた。

 

海野福寿 『韓国併合』(岩波新書 1995):

 「第一次日韓協約」が『官報』に公示された九月五日、日本政府は英文で「日韓協約に関する日本政府声明」を発表した。そこでは「日韓議定書」により韓国外交について監督の義務を負った日本が、韓国に対し「諮問的発言」をおこない、国際的問題について「助言」するため外交顧問をおいた、と説明した。

 しかし、それは日本の韓国侵略から外国の目をそらさせる偽装にすぎない。林公使が「議定書の各条を広義に且つ我が利益に解釈して韓国政府の行動を一に厳密に監督する」と述べたとおり、外交権の実質的掌握のみならず、財政を中心とした韓国内政の植民地的編成をはかる意図にもとづいていた。

 

そして1905年11月には、韓国から外交権を完全に奪って保護国化する「第二次日韓協約(乙巳条約)」を、銃剣の威嚇の下で、強制的に締結させている。

 

伊藤特派大使と皇帝のやりとり

 

 一一月九日漢城へ入京した伊藤は、翌一○日慶雲宮に参内、高宗皇帝に天皇からの親書を奉呈した。そして伊藤は、一五日の内謁見で皇帝に保護条約承認を強要した。やりとりの大要を、「日本外交文書」三八巻一冊に収録されている伊藤の復命書によってたどってみよう。

 皇帝は終始外交権の移譲、すなわち国際法上の独立国家の地位を失うことをこばんだ。それはアフリカの植民地にひとしい、とさえいった。しかし伊藤は、皇帝の「哀訴的情実談」をしりぞけ、保護条約案は日本政府の「最早寸毫も変通の余地なき確定案」であり、“もし韓国がこれに応じなければ、いっそう「困難なる境遇」に陥ることを覚悟されたい”と威嚇し、即決をうながした。

 一六日、伊藤は朴斉純外相を除く各大臣を宿所に招き、条約受諾を求めた。一方、林公使は朴斉純外相を招き、条約の日本政府案を正式に手交した。当時の大臣は、参政ハン・ギュソル、外相朴斉純、内相イ・ジヨン、度支相ミン・ヨンギ、軍相イ・グンテク、法相イ・ハヨン、学相イ・ワンヨン、農相クオン・ジュンヒョンである。ハン・ギュソルへの参政任命は、林公使の「勧告」によるものであり、以下の諸大臣も林が皇帝と「協議」してえらんだ親日的人物と目される人たちであった。それにもかかわらず、多くの大臣もまた、保護条約締結に反対だった。

 反対のまま内閣総辞職の事態を招き、交渉不能となることをおそれた伊藤と林は、いっきょに調印を強行することを決意した。

 

銃剣で威嚇しつつ調印

 

 一一月一七〜一八日、歩兵一大隊・砲兵中隊・騎兵連隊が王宮まえや目抜き通りの鐘路で演習と称する示威をおこない、日本兵が物情騒然とした市中を巡回し、市民をおびやかした。

 一七日午前一一時、林公使は大臣たちをチンコゲ(南山北麓)の日本公使館に招き、予備交渉をおこなったのち、「君臣間最後の議を一決する」ため御前会議の開催を要求した。午後三時ごろ、大臣の途中逃亡を防止するため、護衛の名目で憲兵づきで諸大臣と林が参内した。

 御前会議は夜におよんだが、条約反対の意見がつよく、結論をうるにいたらなかったので、日本側との交渉を延期することとした。「事の遷延を不得策」とみた伊藤は、あらかじめ打ち合わせしていた林から連絡をうけ、八時ごろ、長谷川駐箚軍司令官、佐藤憲兵隊長をともなって参内し、御前会議の再開を求めた。しかし、皇帝が病気を理由に出席を拒否したので、閣議形式の会議がひらかれた。外国の使臣である伊藤・林が武官とともにこれに出席すること自体、不法きわまりないが、会議は折衝の場と化した。

 慶雲宮内も日本兵が満ちていた。『大韓季年史』は「銃刀森列すること鉄桶の如く、内政府及び宮中、日兵亦た排立し、其の恐喝の気勢、以て言(ことば)に形(あらわ)し難し」と述べている。窓に映る銃剣の影が大臣たちを戦慄させたことだろう。

 伊藤は大臣一人ひとりに賛否を尋問した。ハン・ギュソル参政とミン・ヨンギ度支相は明確に反対を表明した。朴斉純外相も「断然不同意」と拒否したが、ことばじりをとらえた伊藤は、たくみに誘導し「反対と見倣すを得ず」と一方的に判定した。その他の肩を落とした四人の大臣のあいまいな発言も、伊藤によりすべて賛成とみなされた。

 こうして、国民から「乙巳五賊(ウルサオジョク)」と非難された五人の大臣の賛成をもって、会議の多数決とした伊藤は、気落ちしたハン・ギュソル参政に皇帝の裁可を求めるよううながし、拒否するならば「予は我天皇陛下の使命を奉じて此任に贋(あた)る。諸君に愚弄せられて黙するものにあらず」と桐喝した。しかし、あくまで反対のハン・ギュソル参政は、悌泣しながら辞意をもらして退室した。伊藤は「余り駄々を捏ねる様だったら殺ってしまえ、と大きな声で囁いた」(西四辻公尭『韓国外交秘話』)という。大臣たちに聞こえる程度の声でいった、という意味だろう。

 協約案は若干の文言修正ののち、午後一一時半、林公使と朴斉純外相とが記名し、外部(外務省)から日本公使館員が奪うようにして持ってきた外相職印を捺印した。一八日午前一時半ごろである。

 

このような状況では、竹島(独島)の日本領編入にどれほど反対でも、韓国は何も言うことができない。だから公然とやったのである。

一方、1895年当時の清国は、日清戦争の敗北で圧倒的劣位に立たされていたといっても、まぎれもない独立国である。だから日本は、決して清国に知られることのないよう、こっそりと尖閣を日本領に編入したのである。

まさに、中国側から見れば「盗んだ」と呼ぶにふさわしいやり方だろう。


「尖閣」列島―釣魚諸島の史的解明

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韓国併合 (岩波新書)

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