先日亡くなられた水木しげるさんの漫画『村の朝鮮人』についての記事への反応を見ていると、「平均的」日本人というものが朝鮮人差別についてほとんど何も知らないことに驚かされる。
戦前戦中の実態は水木氏が描かれたとおりだが、戦後になっても、そこに大きな変化があったわけではない。
炭鉱の町で育ったんで昭和30年代でもこんなことはざらにあったように思う。田んぼのあぜ道の小屋に住んでた同級生、親にあそこには行くなと言われていた山の中の集落。でも学校では民族名を名乗っていた同級生は一人もいなかった。いたはずなのに。https://t.co/FpGuprO2DY
— FMN (@FMN_S_F) 2015, 12月 1
ここでは、昭和30年代(1955~1964)の実例を、水木氏の漫画が載ったのと同じ号の「潮」から紹介してみよう。在日朝鮮人男性と結婚した日本人女性の証言である[1]。
去って行った夫
日本人である私が、両親の反対を押しきって朝鮮の男性と結ばれたのが昭和三十年でした。
とうぜん、国籍は韓国籍となり、日本名・田中、韓国名・金の両刀つかいが始まった。あらたにとびこんできた姓名に戸惑いは感じたものの、好きで結ばれた男と女には、さほどの障害とはならなかった。
だが破局は、意外に早く、私たち二人に訪れた。それは子供の誕生とともに始まったともいえよう。
長男の真樹が五つになったころ、毎日のように泣いて帰ってくる。外に出ると、判で押したようにかならず目をはらし、頭には大きなコブをつくってくる。最初は子供のケンカぐらいにしか考えていなかった私も、あまりのひどさに恐怖さえ感じはじめた。
「なぜ?」 朝鮮人だからというのか。私は勇気をふるいおこして、ふとんに入ると真樹にただした。
「真樹ちゃん、いつも友だちになんていわれるの」 たずねると、真樹はまだ五つの小さなからだをふるわせて、私にしがみつき、かすれた声でこういった。
「ママ、朝鮮人て悪いことしたの?」
「真樹ちゃん、なんていわれたの、いってごらん」
私は真樹の問いに答えず、おそるおそるたずねた。だが、つぎの瞬間、真樹の口をついて出てくるであろうことばを、手でふさぎたい衝動にかられていた。母のこころの動揺も知らないわが子は、大きく息を吸い込むと、精いっぱいの声で叫んだ。
「朝鮮人!朝鮮人!」 そしてみんなから石を投げられるのだともいった。予想はしていたものの、いざ真樹の口からいわれると、思わず涙がこぼれる。
真樹が小学校に入ると、学校の友人のいじめかたは近所の子供のようになまやさしくなかった。途中で待ち伏せしていて、足をすくい、投げ出したり、石を口にぶつけ、歯を折り、顔中血だらけになって帰ってきたこともあった。
事態がここまでくると、とうぜんのごとく、夫婦間に、何か冷たい、重い空気がただよい始めた。夫は、おまえや真樹に悪いから離婚したほうが……、と真剣に考えこむようになっていた。
「こんなことでくじけてはいけないのよ、二人で真樹をりっぱに育てるまでは……。さあ元気を出して」
こうした言葉を何度いったことだろう。夜を徹して、二人で相談したこともあったが、いつも最後は涙声になり話にならない。
夫の決意はしだいに強固なものとなり、ある寒い夜、三人の子供の寝顔を見つめながら、去って行った。真樹が五年生のときだった。寒い冬がくるたびに、古傷が痛むという真樹。
三人のおさない子供をかかえて、私はこれからどうしたらいいのでしょうか。
それにしても、だ。
知らないこと自体は恥ではない。気がついたら学べばいいのだから。
しかし、ネトウヨは決して学ぼうとしない。彼らが受け付けるのは、貧相な優越感と差別意識を煽る「愛国ポルノ」だけである。
無知という以前に、知ることを拒否しているからこそネトウヨなのだということを、改めて実感した。
[1] 『日本人100人の証言と告白』 潮 1971年9月号 P.96-97
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