中津川(信濃川)朝鮮人虐殺事件を伝える当時の新聞記事の中に、こんな一節があった。
読売新聞(1922/8/2)
(略)
「朝鮮人はなまけものだ」と会社の人も云う、土地の人も云う、だから虐待されるのか、殺されるのかと聞きたくなる
でも嫌われた朝鮮人と子持ちの日本の女が夫婦になった
もっともたった一組だが仲はなかなかいいそうだ
狭いところだ 奇跡でも起ったようにすぐ大した評判だ、
やれ妻有(土地の名称)始まってからの記録だの、タデ食う虫も好きずきだのと 嘲笑と罵声でかしましい(特派員記)
たとえ日本人であっても、よりによって「朝鮮人なんか」と一緒になるような女は、たちまち嘲笑と罵倒の対象となる。
この二人の境遇や一緒になった経緯などは何もわからないが、こんな短い文章からでも、この社会が朝鮮人を配偶者に選んだ女性にとってどれほど生きづらいものだったかは読み取れる。
戦後の1959年、制度的差別と蔑視によって貧困を強いられていた在日朝鮮人を北朝鮮に「帰国」させようという「人道的」大事業が始まり、1984年に事業が終了するまでの間に約9万3千人の在日とその家族が故郷でもない※北の大地に渡った。※ほとんどの在日の出身地は韓国の領域内。
このとき、在日の夫と結婚していた多くの日本人女性が、「帰国」を希望する夫を引き止めるのではなく、夫とともに北朝鮮に渡る道を選んだ。
「帰国船」が出発する新潟港で、帰国者の最後の意志確認をする日赤の委員に、ある日本人妻はこう語ったという。[1]
ところで、委員が、いちばん注意したのは、日本人妻だ。「不本意ながら子供に引かれて行くんじゃないだろうか」と、どの委員も、日本人妻の顔色に、神経を集中したという。ある日本人妻は、
「夫や子供と、いっしょに参ります。もう決めました」
と、言葉少なに、キッパリと答えた。そして五つの男の子に委員が話しかけると「ハッキリ返事しなさい」とうながし、子供の親指をとって拇印を押させて、母国日本と決別して行った。
記録上、北に渡った「日本人妻」は1831人いるが、そのほとんどが日本の家族とも再会できないまま、いま何人生存しているかさえ分からなくなっている。[2]
[1] 「日本よ、さようなら 『北朝鮮帰還』第一船の船出」 週刊朝日 1959/12/27号 P.10
[2] 「帰国望む日本人妻 「北ミサイル」が支障に?」 東京新聞 2012/4/12