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日本政府の公文書隠蔽・廃棄・改ざん(要するに嘘つき)体質はあまりに根が深い

安倍政権だけの問題ではない日本政府の嘘つき体質

森友・加計学園問題や自衛隊のイラク・南スーダン日報問題が示すように、日本政府の公文書隠蔽・廃棄・改ざん体質は、安倍政権の下で極まっているように見える。

確かに、国会答弁で平然と見えすいた嘘をつき、嘘だという証拠を突きつけられてもまた別の嘘をついて誤魔化そうとする安倍政権の虚言癖体質は異常としか言いようがない。しかし、日本政府(単に自民党政権というだけでなく、中央官庁の高給官僚たちをも含めた行政府全体)の嘘つき体質は、安倍政権などよりはるかに以前からのものではないのか。

2001年に情報公開法が制定されて以来、開示請求した文書がことごとく全面黒塗りの「海苔弁」状態で出されてうんざりさせられた例は枚挙にいとまがない。

民主党・鳩山政権時には、沖縄の普天間基地問題をめぐって、外務省が県外移設は不可能とする「極秘文書」を捏造し、鳩山首相を騙して移設を諦めさせるという事件が発生している[1]。(結局この方針転換が原因となって鳩山内閣は総辞職に追い込まれた。)

 民主党政権時の2010年4月19日、防衛、外務の官僚たちが、官邸に鳩山首相を訪ねた。
 前年夏の総選挙で鳩山が唱えていた「米軍基地の沖縄県外への移設」についてレクチャーするためだ。
 官僚の一人は「アメリカ大使館と交渉した結果こうなった」と言って、3枚つづりの文書を鳩山に差し出した。
 文書のタイトルは「普天間移設問題に関する米側からの説明」。右肩には『極秘』の判が麗々しく押されている。
 “極秘文書”には米軍のマニュアルとして次のように書かれていた ―
 「航空部隊と陸上部隊の訓練の一体性を考えると、移転先は普天間から65マイル(105km)以内に限る」。
 沖縄全島は70マイル。沖縄以外はダメということだ。(移転先の候補にあがっていた)徳之島はあきらめろという内容である。
 「アメリカがそういう条件であれば、沖縄以外に持って行くことは不可能」。鳩山は県外移設を断念した。
(略)
 鳩山は決定打となった米軍マニュアルについて琉球新報に調べてもらったが、そんなマニュアルはどこにもなかった。
 極秘の指定期間は2015年4月18日。極秘が解除されたため、鳩山側近の川内博元衆院議員が外務省に問い合わせた。
 文書を扱う大臣官房総務課は「公文書ではない。外務省が作成したものかどうか分からない」と回答した。“極秘文書”はガセだったのである。

中曽根政権時代の1987年には、核兵器持ち込みに関する密約文書を公開しないよう、外務省が米側に要請するという事件も起っている[2]。

 【ワシントン山崎健】日本の外務省が1987年、米政府に対し、核兵器の持ち込みに関する密約を含む50年代後半の日米安全保障条約改定交渉など、広範囲にわたる日米関係の米公文書の非公開を要請していたことが、西日本新聞が米情報自由法に基づき入手した米公文書で明らかになった。密約などについて米側は要請通り非公開としていた。米公文書公開への外務省の介入実態が判明したのは初めて。

(略)

 文書によると、日本側が非公開を求めたテーマは(1)「核兵器の持ち込み、貯蔵、配置ならびに在日米軍の配置と使用に関する事前協議についての秘密了解」(2)「刑事裁判権」(3)「ジラード事件」(57年、群馬県で在日米軍兵士が日本人主婦を射殺した事件)(4)「北方領土問題」(5)「安保改定を巡る全般的な討議」。(1)(2)については「引き続き(公開)禁止を行使する」との結論が明記されていた。

 日米外交史に詳しい菅英輝・京都外国語大教授は(1)について安保改定時の「米核搭載艦船の通過・寄港を事前協議の対象外とした核持ち込み容認の密約」だと指摘。今も関連文書の一部は非公開だ。(2)は53年の日米行政協定(現在の日米地位協定)の改定時に、米兵らの公務外犯罪のうち重要事件以外は日本政府が裁判権を放棄したとされる問題とみられるという。

この密約について、当然歴代首相や外相は承知しており、事実を知りながら嘘の答弁を繰り返してきた[3]。

  岡田克也外相は9日、日米の密約に関する外務省調査結果と有識者委員会の検証報告書を公表した。併せて公開された機密文書から、政府が1968年に核兵器搭載の疑いのある米艦船の寄港・通過を黙認する立場を固め、その後の歴代首相や外相らも了承していたことが判明。寄港の可能性を知りながら、「事前協議がないので核搭載艦船の寄港はない」と虚偽の政府答弁を繰り返していた。非核三原則は佐藤栄作首相の67年の表明直後から空洞化していたことになる。見つからなかった重要文書も多く、有識者委は破棄の可能性など経緯調査の必要を指摘した。

(略)

 この文書は歴代首相や外相への説明に用いられており、余白には当時の佐藤首相が読んだことや、田中角栄、中曽根康弘、竹下登の各氏らが首相在任時に説明を受けたことを示す記載がある。また、添付された89年のメモには、首相就任直後の海部俊樹氏に説明したと記されている。

(略)

 朝鮮半島有事の際に、在日米軍が事前協議なしに出撃できるとの密約についても、根拠とされてきた非公開の議事録の写しが見つかり、有識者委は「密約」と位置づけた。

嘘つき体質は敗戦時の文書大量焼却以来の「伝統」か?

このような隠蔽・嘘つき体質の元をたどっていくと、まずは敗戦時の公文書大量焼却事件に行き当たる。主犯は奥野誠亮である。

画像提供:99さん

この奥野誠亮は鈴木善幸内閣で法相を勤めている。重大犯罪の証拠隠滅犯が司法行政のトップとなったわけだ。

実は明治維新までさかのぼる?

とはいえ、日本政府のこうした嘘つき体質は敗戦前後から始まったものではない。戦前戦中はもっとひどく、政府はすべてを知りながら「臣民」には嘘ばかり吹き込んでいた。歴史の転機をなした重大事件について、たとえば1928年の張作霖爆殺事件が関東軍の河本大佐らによる犯行だったことも、1932年の柳条湖での満鉄線爆破が関東軍による自作自演の謀略だったことも、一般人民がその真相を知り得たのは敗戦後である。

南京大虐殺についても、政府首脳部は当然その事実を知っていた。当時外務省東亜局長だった石射猪太郎は次のように書いている[4]。

 南京は暮れの十三日に陥落した。わが軍のあとを追って、南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告が我々を慨嘆させた。南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である。憲兵はいても少数で、取締りの用をなさない。制止を試みたがために、福井領事の身辺が危いとさえ報ぜられた。昭和十三年一月六日の日記にいう。

 ◯上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の頽廃であろう。大きな社会問題だ。

(略)

 私は三省事務局長会議で度々陸軍側に警告し、広田大臣からも陸軍大臣に軍紀の粛正を要望した。軍中央部は無論現地軍を戒めたに相違なかったが、あまりに大量な暴行なので、手のつけようもなかったのであろう、暴行者が、処分されたという話を耳にしなかった。当時南京在留の外国人達の組織した、国際安全委員なるものから、日本側に提出された報告書には、昭和十三年一月末、数日間の出来事として、七十余件の暴虐行為が記録されていた。最も多いのは強姦、六十余歳の老婆が犯され、臨月の女も容捨されなかったという記述は、殆ど読むに堪えないものであった。

(略)

 日本新聞は、記事差止めのために、この同胞の鬼畜の行為に沈黙を守ったが、悪事は直に千里を走って海外に大センセーションを引起した。あらゆる非難が日本軍に向けられた。わが民族史上、千古の汚点、知らぬは日本国民ばかり、大衆はいわゆる赫々たる戦果を礼賛するのみであった。

そもそも、この国を不正義かつ無謀な戦争に引きずり込んだ政治家や官僚連中がまともな処罰もされずに復活を遂げたことが戦後の嘘つき政府の始まりなのだ。周知のとおり、東条内閣の商工大臣だった岸信介は敗戦からわずか12年で首相となった。その孫が安倍晋三である。

で、この戦前の嘘も、昭和になって急に始まったというわけではない。明治維新以来、政府の体質などずっと変わらなかったのだから、当然最初から嘘だらけだったのだ。

明治維新は、幕府を支持していた孝明天皇の不可解な「病死」(毒殺の疑いが濃厚)の後、15歳の若さで即位した明治天皇による「討幕の密勅」によって本格的に始動する。しかし、この密勅は偽造されたものだった[5]。

 これが慶応三(一八六七)年十月十三日のこと。十四日には前さきのごんの大納言正親町おおぎまち三条実愛さねなるが右の二人を召し、薩長両藩への「討幕の密勅」を下した(薩摩島津家宛ては十三日付)。これは慶喜が大政奉還の上表を提出した日でもあるから、奉還の動きと密勅降下の請願は舞台の表と裏で同時に進行し、ゴールに同着した形となった。

 これによって薩長は挙兵の大義名分を得た、と思う向きもあろうが、幕末史最大の問題点がここにある。討幕の密勅二通は同文で「詔みことのりす」と始まり、「賊臣慶喜を殄戮てんりく(誅殺)し速かに回天の偉勲を奏し」とつづいてゆく(原文は和風漢文)。「詔す」とあるからには天皇の発した詔書らしいが、辰筆しんぴつの日付もないし辰裁した印の「可」の字もない。摂政・大臣以下の連署もなければ「天皇御璽」も捺されていない、ないない尽くしの代物で、その写真版を見ると本文の次行最下部に「奉」とあり、三人の署名が並んでいる。

 正二位藤原(中山)忠能、正二位藤原(正親町三条)実愛、権中納言藤原(中御門)経之。「奉」とあれば天皇の意志を奉じた綸旨りんじのようだが、ならば文は三人称になるべきなのに「朕」という一人称が使われているので綸旨でもない(石井孝『維新の内乱』参照)。しかも三人の署名は同じ筆であり、今日、これらは岩倉が国学者玉松操に書かせたものと知れている。要するに岩倉と右の三人は大久保らから「相当の宣旨」がほしいとせっつかれ、偽文書を捏造して不敵にも密勅と騙ったのだ。

天皇の命令を記した詔書といえば、まさに公文書中の公文書である。明治政府の成立を可能にしたその公文書第一号がそもそも偽造だったのだ。そんなやり方で権力を握った連中やその後継者たちが隠蔽捏造にまったく躊躇しなかったのは当然と言えるだろう。

明治維新どころではない。日本の歴史はその始まりから嘘だらけ

では、幕末維新期の「志士」たちが嘘つき日本政府の元祖・元凶なのか。

確かに、直接的にはそう言っていいだろう。しかし、公的記録を改ざんし、あるいは捏造するという手口自体はもっとはるかに古く、この国の歴史の黎明期から始まっている。

現存する日本最古の歴史書である古事記は712年、次の日本書紀は720年に成立している。ほぼ同時代に二種類の史書が作られた理由が不明である上、古事記は後の史書にその成立が記載されていないことから偽書説が唱えられたこともあるが、現在ではほぼ否定されている。

この古事記と日本書紀の内容は、全体としてはよく似ているが、いくつか重大な違いがある。

たとえば、景行天皇ことオホタラシヒコオシロワケ(12代)の九州大遠征。日本書紀によれば、景行は軍を率いて九州に渡り、ほぼ時計回りに九州を一周しながら多くの敵を打ち破る大遠征を行っている。日本書紀の記載のとおりなら、このときヤマト王権は初めて九州全土を支配下に収めたことになり、まさに赫々たる大戦果と言える。

図版出典:[6]

ところが、景行のこの重大な事績が、古事記には一切現れないのだ。古事記に出てくる景行の事績といえば、「田部たべを定め、また東あづまの淡あはの水門みなとを定め、また膳かしはでの大伴部おほともべを定め、また倭やまとの屯家みやけを定めたまひ、また坂手さかての池を作りて、すなはちその堤に竹を値ゑしめたまひき」という程度でしかない[7]。池を作って竹を植えたなど、どう考えても九州大遠征より優先して書くべきことではないだろう。

これは一体どういうことなのか。古田武彦氏が説明するとおり、実際に行われた大遠征を天皇家の史書である古事記が無視することなどあり得ない以上、日本書紀が話をでっち上げた(あるいは天皇家以外の史書から剽窃した)と考えるしかない[8]。

 (六)一番肝要の点、それはこの華麗な景行の九州大遠征譚が『古事記』に全く出現しないことである。これは記紀間の大矛盾だ。

 以上、この矛盾をいかに解くべきか。その根本は(六)にある。記紀いずれが原形、いずれが改変形か、という問題である。これに対するわたしの基本の立場は次のようだ。“記紀ともに、近畿天皇家内の成立である以上、天皇家にとって有利に加削することはあっても、不利に加削することはありえない”――この公理だ。

 そして右の有利、不利とは、もってまわった考察や、一部のインテりにのみ通じるような、うがった見方の類からではなく、万人に通ずる明々白々たる印象にもとづくものでなければならぬ。

 このような立場から見るとき、問題の景行の九州大遠征譚が、近畿天皇家にとって赫々たる大勝利譚であり、光栄ある大親征譚の形をとっていることは、疑いを容れない。

 これを記載した『書紀』の方が原形であるとすると、『古事記』の作者(伝承者・記録者等)がこれを削除したこととなる。これは先の公理によってみると、ありうることではない。

 これに対して『古事記』の方が原形とした場合、『書紀』はこれを付加・挿入したこととなろう。この方が、先の公理から見ると、ありうるケースである。

 以上の吟味によってみれば、景行の九州大遠征譚は、他からの挿入によるもの、そのように見なすほかはないのである。

この他にも、ヤマトタケルことヲウス(景行の子)による東北地方の蝦夷征伐、神功皇后ことオキナガタラシヒメ(14代仲哀の妻の一人)による九州筑後での征伐など、古事記には現れず日本書紀にだけ書かれている征伐譚が存在する。

古事記は嘘が足りないためボツになった試作品

私は、古事記は日本書紀の「ボツになった試作品」だと考えている。なぜボツになったかといえば、天皇家の支配を正当化するための嘘の程度が足りず、当時の権力者を満足させることができなかったからだろう。

千数百年の時を経ても、時の権力者の都合に合わせて記録を改ざんし、あるいは継ぎ合わせて辻褄を合わせる官僚たちの心根は大して変わっていないのではないか。まさに骨絡みの嘘つき体質と言うしかない。

[1] 『外務省と防衛省が首相をハメ、辺野古に戻させた』 田中龍作ジャーナル 2016/2/4
[2] 『外務省 核密約 米に非公開要請 「際限ない」米側不快感』 西日本新聞 2017/1/3
[3] 『核密約 歴代首相ら黙認 外務省極秘メモ公開』 朝日新聞 2010/3/10
[4] 石射猪太郎 『外交官の一生』 読売新聞社 1950年 P.305-306
[5] 中村彰彦 『幕末・明治の残照 86』 東京新聞 2017/10/1
[6] 古田武彦 『古代は輝いていた(2)』 朝日新聞社 1985年 P.118
[7] 武田祐吉訳注 『新訂 古事記』 角川文庫 1987年 P.110
[8] 古田 P.120-121

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