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3・1独立運動100年:いまだに「不逞鮮人」恐怖を振りまく日本政府

今からちょうど100年前の3月1日、日本による強制「併合」から9年目の朝鮮で、独立と民族の尊厳の回復を求める大規模な大衆運動が始まった。「3・1独立運動」または単に「3・1運動」と呼ばれている。[1]

(略)一月二二日徳寿宮に幽閉されていた高宗(李朝第二六代の王)が急死したことも、朝鮮人の民族的感情をたかめていた。葬儀の日は三月三日と定められ、参列のため全国から多数の人びとがソウル(京城)に集まってきた。
 この機会をとらえ、天道教の第三代教主孫秉熙らは、キリスト教徒・仏教徒と協議したうえ、三月一日ソウルで独立宣言を発した。各教団の組織などをつうじて計画がつたえられていたため、ソウルのパゴダ(塔洞)公園には数万の民衆があつまり、大極旗をかかげ、「独立万歳」を叫びながら、市街をデモ行進した。運動はたちまち全土に波及し、五月末までに示威回数一五四二回、延べ参加人員二〇五万人にたっし、鴨緑江をこえて間島や沿海州にもおよんだ。

運動は当初、公園で独立宣言書を朗読し、群衆が「独立万歳」を叫びながら市街をデモ行進するという平和的なものだったが、日本側はただちに警察や軍隊を動員して残酷な弾圧を加えた。[2]

 日本側は憲兵警察・軍隊を出動させ、在郷軍人や消防隊なども動員して、運動をきびしく弾圧した。このため、最初は平和的示威であった運動も三月中旬から激烈な闘争や蜂起へと転化し、かま・くわ・棍棒で武装した朝鮮人が、官公署を襲撃する事態となり、その数は合計二七八か所にたっした。
 原内閣は四月四日、内地から歩兵六大隊および憲兵・補助憲兵約四一五名を朝鮮に派兵することを決定して、武力弾圧を強化した。
 朴殷植『韓国独立運動之血史』(一九二〇年)によると、弾圧による朝鮮人の死者は七五〇九名にのぼり、被逮捕者四万六三〇六名、焼却された民家七一五戸、同教会四七、同学校二を数える

その一例として、ソウル近郊の堤岩里で日本軍警が行った虐殺事件がある。[3]

 三一運動に対する日本の弾圧が、どれほど過酷で残虐なものであったか、その一例をみよう。
(略)
 現在の堤岩教会牧師である姜信範氏の『堤岩教会三一運動史』(一九八五年、邦訳は小笠原亮一ほか『三・一独立運動と堤岩里事件』一九八九年に所収)によると、日本軍警は「あまりにもひどい鞭打ちをくわえたことに対し謝罪しようと思ってきた」と称して、一五歳以上の男子の信徒を礼拝堂にあつめ、入口を釘付けにした。一名は脱出したが、礼拝堂のなかに二一名が閉じこめられた。日本軍警は石油をかけたうえ火をつけ、同時に包囲して射撃をはじめた。わらぶきの礼拝堂は、またたく間に燃えあがった。
 変を知って、閉じこめられた一人の男性と結婚してまだ二か月の新妻がかけつけた。彼女は斬首され、いま一人かけつけた婦人は射殺された。二人ともわらをかぶせて、死体を焼かれた。日本軍警は礼拝堂にちかい家からはじめて、村全体に放火し、三三戸のうち、遠く離れた一戸を除いて、三二戸を焼いた。さらに日本軍警は、約五〇〇メートル離れた村を襲い、天道教徒六名を銃殺し、死体を焼いた。
 長谷川好道朝鮮総督が原首相へだした報告(四月二二日)で、「検挙班員および軍隊の行動は遺憾ながら暴戻にわたり、かつ放火の如きは明らかに刑事上の犯罪を構成する」と認めざるをえなかったような蛮行であった。

「堤岩里事件」は、もちろん氷山の一角に過ぎない。この事件が広く知られるようになったのは、たまたま事件翌日に近くを通りかかったアメリカ領事や宣教師、新聞記者が現場を見て事件の存在を知り、さらにイギリス領事他による現地調査が行われて『ジャパン・アドバタイザー』紙により世界に報道されたからだ。[4]

朝鮮人側の武装闘争は、武器といってもただの棒や鎌、鍬など身近な道具を手にしただけで、そもそも日本側がデモ隊に実弾射撃を加えたり理不尽な逮捕・拷問を行わなければ発生しなかったはずのものだ。殺傷された人数も圧倒的に朝鮮人側が多い。にもかかわらず、初めて植民地支配に対する大規模な抵抗運動に直面した日本官憲はこれを深く恐怖した。彼らは日本による支配に従順に従わない朝鮮人を「不逞鮮人」と呼び、スキを見せれば彼らによって日本の支配体制が揺るがされるという妄想に囚われていった。

この妄想が、4年後の関東大震災において、軍隊・警察・自警団による官民一体となった朝鮮人虐殺へとつながっていくことになる。このとき虐殺事件が発生する大きな要因となったのが内戦状態を意味する戒厳令の発令だが、この戒厳令を出させた内務大臣水野錬太郎は3・1独立運動当時は朝鮮総督府政務総監だったし、警視総監赤池濃は同じく朝鮮総督府の警務局長だった。[5]

こうした歴史などまるでなかったかのように、外務省は明日の独立運動100周年を理由に韓国への渡航者に「注意喚起」するという。関東大震災当時の「不逞鮮人」恐怖と同根の妄想だ。百年たってもこのざまとは、まさに恥知らずとしか言いようがない。


[1] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.81-82
[2] 同 P.82
[3] 同 P.83-84
[4] 姜在彦 『日本による朝鮮支配の40年』 朝日文庫 1992年 P.82
[5] 松尾章一 『関東大震災と戒厳令』 吉川弘文館 2003年 P.2

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