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朝鮮人虐殺否定本は英国外交文書の引用でも隠蔽・歪曲

関東大震災に関するネトウヨ連中のヘイトスピーチの元ネタとなっている悪質な虐殺否定本『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(工藤美代子、2009年)。

この本の中で工藤は、ロンドンのナショナル・アーカイブスで見つけた外交文書と称するものを紹介している。[1]

帝国ホテルの恐怖体験記

 警備当局が把握していた「鮮人による襲撃」情報が間違いではなかったことは、ここまでの新聞記事と目撃談などで明らかである。

 そのなかで、炎上する警視庁の目の前、皇居前広場、日比谷公園界隈の避難民は襲撃に脅えながら二日目の夜に入っていた。

 丸の内一帯から日比谷公園にかけてはすでに避難民が密集し、身動きもとれないほどの混乱状態を来していた。とりわけ皇居前広場では三十人からの朝鮮人の一団が、充満している避難民に抜刀し切りかかってきたとの情報が日比谷警察に入っている。事態はまさに切迫していた。

 その日比谷公園の正面にある帝国ホテルに宿泊することになったアメリカ人の記録が今回、新たに発見された。

 二人のアメリカ人旅行者が横浜で被災し、好奇心もあって東京へ向かい、帝国ホテルに投宿した。実際に彼らが見た現実がどうであったのかという実情がうかがえる。

 ロンドンのナショナル・アーカイブスに外交文書として保存されていて今回、新たに発見されたファイルからその概要を見てみよう。

 

「一九二三年九月一日より十二日までのドティとジョンストンという『エムプレス・オブ・オーストラリア号』のアメリカ人船客の日記。

 九月一日、十一時四十五分にちょうど舟は岸壁を離れようとしていた。ところがその直後にひどい振動を感じ、陸地を見たら地震であることがはっきりと分かった。桟橋や港の建物は崩れ落ちた。グランドホテルやオリエンタルパレス・ホテル、スタンダード石油の建物が崩れ落ちた。午後五時ごろにやっとひどい出火は収まった。ようやく救命ポートを下ろして、海に浮いている人々を救い上げた。

 翌日、船には千五百人以上の避難民が収容されていて、まさに足の踏み場もない状況だった。まだ火事は完全に鎮火したわけではなく、東京方面が赤々と燃えているのが見えた。

 九月三日になって、二人は船を降りて徒歩で東京へ向かうことにした。

 歩き始めてすぐに二人はライフルで武装した自警団に出会った。彼等は二人が朝鮮人と間違われないように、この辺すべての人達がしているように右腕に白か緑の腕章を捲くように強く勧めた。

 横浜の荒廃を観察した後に二人は東京へ向かい、午後七時には品川に到着した。ここで四マイル先の帝国ホテルまで行ってくれるタクシーをつかまえた。

『朝鮮人』と『赤』については説明する価値がある。過去数年の間に多数の朝鮮人が労働力として日本に流入していた。また、日本の軍隊には、シベリアから帰国してボルシェビキの影響を受けた兵たちもいるといわれていた。

 二人が帝国ホテルに到着したのは三日午後七時四十五分だった。

 ホテルは崩れていなかったが真っ暗で、軍隊の護衛がホテルの前に陣取っていた。ホテル内には一時的にアメリカ大使館が移動してきていた。

 アメリカ大使を探しに街へ出たが見つけることができずに、九時半にホテルへ戻った。その間、二人の乗った自動車は二百フィートごとに自警団か兵隊に停められて尋問された。

 街は真っ暗だったが、まだ燃え盛る火事が続いていてその明りで道路が見えた。

 三日、月曜日の夜十時二十分頃に、ホテルの管理部からすべての部屋の灯り(小さなローソクだった)を消すようにと軍部からの報せがあったと言ってきた。

 朝鮮人と赤が十分以内に襲撃してくるからとのことだった。

 それからホテルで野営をしていたさまざまな部隊はマシンガンを補給された。

 何事もなくその夜は過ぎて、翌日二人はアメリカ大使のウッズに会って、それから横浜へ帰った。(略)」(「ロンドン・ナショナル・アーカイブス所蔵」 File No.FO/3160)

まともな執筆者なら「」でくくった部分には資料の内容を正確に引用して地の文と区別するものだが、これは引用と筆者による適当な要約?との区別もつかないひどい代物だ。

以前の当ブログ記事で、仮にこの外交文書にこのとおりの内容が書かれていたとしても朝鮮人暴動の裏付けにはまったくならないことを指摘しておいたが、今回、鄭栄桓(チョン・ヨンファン)明治学院大学教授により、工藤はこの文書の重要な部分を隠蔽しており、実際には朝鮮人暴動どころか日本人による朝鮮人虐殺の事実が報告されていたことが判明した。[2]

「日本に20年以上滞在している英国人の話によると、(1923年)9月4日か5日に、朝鮮人1人が針金できつく縛られ…彼がむごたらしく死ぬまで締め上げられるのを実際に見たという」

 駐横浜英国領事館のロバート・ボールター(Boulter)総領事代理が1923年12月19日に作成した「1923年9月1日横浜の地震・火災およびその後の経過についての報告」の一節だ。(略)

 ボールター総領事代理の報告は「また別の人物は、柱に縛られて死ぬまで鋭い竹やりで刺されていたという」「それをやったのは25歳くらいの日本人で、警察官は見ていたが加担はしなかった」と続く。

(略)

 英国人の地下鉄専門家ジョン・ドーティーは、ボールター宛ての報告に「9月3日、横浜港に行くと、銃で武装した自警団に『朝鮮人と誤解されないよう右腕に白か緑の帯を巻け』と指示された」とつづった。さらに「タクシーに乗っている間、何度も自警団のように見える人物が車を止めた」「刃物や鋭い竹やり、マスケット銃で武装し、非常に興奮して恐怖でいっぱいの若者たちだった」と記した。彼らは「朝鮮人だ」と叫び続けて運転手を車から引きずり降ろそうとしたという。

 虐殺の原因について、英国の文書は「朝鮮人の暴動が実際にあったわけではなく、責任を転嫁するもの」と記録していた。ドーティーは「日本で起きたあらゆる無秩序と残虐行為を、朝鮮人やボルシェビキのせいだと見なす傾向がある」とし「地震の直後から荒唐無稽なうわさが流布され、自警団の目に付いた朝鮮人はすぐに殺害された」と報告した。

ビジウヨは憎悪扇動のためなら資料の隠蔽でも歪曲でも何でもやる。そんな扇動に乗せられる情弱な「普通の日本人」たちが、この国に再び同じ過ちを犯させるのだ。

[1] 工藤美代子 『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』 産経新聞出版 2009年 P.145-148 (注:ややこしいことに、この本には工藤の夫である加藤康男を著者とする『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった』(ワック、2014年)という「別バージョン」があるが、中身はほぼ同じである。)
[2] 兪碩在 『英外交文書「朝鮮人の暴動が実際にあったわけではなく、責任を転嫁するもの」』 朝鮮日報 2013/9/5