関東大震災時の朝鮮人虐殺の際、朝鮮人と間違えられて殺されかけた日本人としては俳優の千田是也氏が知られているが、もう一人、歴史家の ねずまさし(禰津正志)氏も同じような目に遭っていた。
以下はねず氏の証言。[1]
殺されかけた私の思い出=根岸八幡橋
ねず・まさし(歴史家)大震災は私が中学三年生の頃である。私は、横浜の西南海岸にある根岸町にすむ叔父高木仁太郎の宅にいた。高木は根岸小学校のふるい教員だった。九月三日ごろになって「朝鮮人が来るぞ!」という、うわさをきいた。その夜になると町内の在郷軍人会長である、陸軍将校が青少年を集めて、「軍からの命令であるが、ただちに武装して自警団を作らねばならぬ。その理由は、不逞の鮮人が、みんなを殺しにやってくる。もう東京でも横浜市内でも、日本人が殺されている。今夜あたりは、この辺にもくる予定だ」といって、自警団を作り、十字路や橋のたもとに数名ずつ交替で、朝まで不寝番をすることを命じた。私は一大事とばかり日本刀をもちだして、定められた不寝番の場所に行った。そこで私たちは大人から、合言葉「山といえば、川と答える」などを教わった。夜中の一時頃になると、遠くの方で「朝鮮人がきたぞ!」という叫びがする。叫びはだんだん近くなり、声の数も多い。ねている人も起きだして番所に集ってきた。となりの番所から応援にきてくれ、という伝令がきた。私たちは半分弥次馬気分で、叫びのするほうへかけだした。叫びは根岸の南どなりの八幡橋の方からきこえてくる。私たちは堀割にでて、こちらの岸に集って、叫びのする方から逃げてくるはずの朝鮮人を待った。橋は八幡橋一つしかない。叫びは向岸からする。こちらの岸は人で一杯、まだ暑いから、みんな白シャツだったので、暗いなかにも白い人影がしきりと動く。向う岸でも白色のかたまりが、岸にそって長く展開している。
堀割の幅は十間ほど、岸には釣船が五、六隻つないである。突然向岸で「朝鮮人が水のなかにとびこんだ!」と叫んだ。しかし水面はまっ黒で、白い姿もない。船の上にも人影はない。要するに「朝鮮人がくるぞ!」と叫んで集ってきた人々は、実際には集っている仲間のほかに何もみないので、「水中にとびこんだ」と叫びだしたのである。ところが誰も水中にとびこんだ音をきかないし、白い影もみない。したがって、こちら岸では、あまり騒がなかった。むしろ拍子ぬけで、水面をながめていた。ボツボツ帰る人もでてきた。しかし、自警団のなかで一番わかく、そのうえおっちょこちょいの私は、いきなり岸から釣船の上にとびおりた。その時は日本刀をもたず、棒をもっていたので、船べりから水中に棒をさしこんで、人が船底の裏側にひそんではいまいかと、かきまわしてみた。五、六隻の船の上を廻って異常がないので、岸に上がろうとすると、二、三間さきで「朝鮮人がいた!」という叫びがした。びっくりしてそのほうをむくと、「そこにいる、そこにいる」といって、数人の人が私の前の岸にかけつけて、「こいつだ!、こいつだ!」と叫んだ。今まで私のすることをみていた町の人々は勢にのまれて、私をながめているだけだ。あまりの騒ぎに、驚いて口がきけなかったらしい。
「やっちまえ!やっちまえ!」と、さきの人々がさわぐ。すると町内の人らしいのが「そうだ、合言葉だ。合言葉をいえ!お前の合言葉はなんだ」と私にどなりつけた。自分が朝鮮人といわれたことに気づいた私は、すっかり上ってしまって、口がきけない。目の先には、日本刀や小銃の剣先(この小銃は小学校から持ち出してきた)が四、五本つきだされた。「早く合言葉をいえ、すぐ言わぬと、殺すぞ!」と叫ぶ。一人でなく、何人もがやがやとやりだした。いよいよ上ってしまった私は、舌がちぢんで声がでない。「合言葉がいえねば、何とかいえ!だまっているなら、いよいよ朝鮮人だ。かまわねえから、やっちゃえ!」と。向う岸の罵声も背中にひびいてくる-「やっちゃえ、早く殺しちまえ!」
しかも私は自分が殺されるとは毛頭感じない。まだ他人のことのようだった。すると、いきなり提灯と一緒に銃剣がスーッと鼻先にのびてきた。この時になってはじめて、「これは大変だ、殺される」と感じ、何かいおう、合言葉をいおうとするが、舌がちぢんで何もいえない。数時間前に教えられた合言葉はすっかり忘れてしまっている。思いだそうとするが、どうしても出てこない。キョトンとして提灯と銃剣を眺めるだけだった。この時「一寸まった。シャツがぬれていないぜ。向岸から、とびこんだんなら、シャツがぬれているはずだ。シャツがぬれていないじゃないか。まあ、みんな少しおちついてくれ。こいつを上へあげてから、殺すのはそれからでもいい」と、おちついた声が頭の上でした。しかし、「面倒くさい、やっちゃえ!」という叫びも、その人の後でする。岸の上から私の方に手がさしだされた。私はそれにつかまって、岸のふちにとびあがった。たしかにシャツはぬれていない。だが人々は我慢できない、「シャツがぬれていなくたって、朝鮮人にきまってる。船のなかにかくれていたんだろう。早いとこ、やつちまえ。合言葉をしらなけりや、朝鮮人にきまってるんだ」とさわぐ。提灯と一緒に、数十の顔が私の眼前にあらわれ、恐しいランランたる眼が私をにらんで、今にも、くいつかんばかりだ。
すると、私の町内の人らしいのが、「おや、これは朝鮮人じゃないよ。高木先生のうちにいる中学生だ。なんだ、お前か、人騒せするなあ。もう少しだまっていれば、本当に殺されるところだぜ、合言葉をいいなよ」とやさしく言葉をかけてくれた。私ははじめてホットしたが、やっぱり合言葉は出てこない。「僕は、朝鮮人が川の中にとびこんだ、というので、船の上にとびおりて、さがしていたんです」とやっと言い訳をした。シャツはぬれていないし、町内の人の話もあったので、周りのたくさんの顔は、すっかり失望してしまった。「なんだ!日本人か」といって、つまらなそうに、ちりぢりになって、立ち去っていった。向岸から「どうした、まだぐずぐずしているのか!」と叫ぶ。「ちがうよ、日本人だ!」とこっちから答える。こんな調子で人々は大地震と火事の恐怖のために、まったく朝鮮人来襲を信じこんでしまっていた。それからの数日の間、まだ来襲のうわさはつづいた。
千田氏とねず氏の証言を比べてみると、場所は東京の千駄ヶ谷(千田氏)、横浜の根岸(ねず氏)と異なるにもかかわらず、その体験に共通点が多いことに驚かされる。
事件当時、千田氏は大学生、ねず氏は中学3年生だった。血気盛んな年頃で、どちらも勇み立って、家から武器を持ち出して自ら自警団に参加している。そして、他の人々と一緒に行動していた間は何も問題なかったが、「不逞鮮人」を探すつもりで単独行動に移った結果、自分が朝鮮人に間違えられるという災難に遭っている。
取り囲んだ群衆の中にたまたま当人を知っている人がいて、この人は朝鮮人ではない、と身元を保証してくれたおかげで助かった、という点も共通している。助け舟を出してくれる人がいなければ殺されていた可能性が高いし、もちろん本物の朝鮮人だったら間違いなく殺されていただろう。
ところで、ねず氏が日本人だと分かった途端、安心するどころか「すっかり失望」し、「つまらなそうに」立ち去っていった人々の様子は、到底「不逞鮮人」の襲来に怯える、か弱い人間の姿などではない。むしろ、「天下晴れての人殺し」をやりそこなって落胆する、血に飢えた暴徒のそれだろう。
何日にもわたってこのような暴徒に狩られ、追い詰められ、殺されていった朝鮮人たちの恐怖は、どれほどのものだったろうか。
[1] 在日大韓民国居留民団神奈川県本部 『関東大震災横浜記録』 1993年 P.118-122
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