「自粛警察」の異常行動が頻発
コロナ問題によるイライラが募るなかで、「自粛ポリス」とか「自粛警察」と呼ばれる人たちの異常行動が頻発している。
「うるさい。こっちはコロナでイライラしているんだ」。休校中の4月、友人数人で公園内のグラウンドでサッカーをしていた東京都内の男子高校生(16)は、高齢の男性から注意を受けた。その数日後には、「サッカーをやっている人がいる」と通報があり警察官が駆けつけた。
その場には男子高校生ら以外に人はおらず、大声も出していなかった。「やめろと強制はできないが、注意をしてくださいといわれた」と警察官。「サッカーをしていただけで通報されるなんて、監視されているみたいで怖かった」。男子高校生は打ち明けた。
「外出自粛の中、お前らどういうつもりじゃ!」。4月、大阪市阿倍野区の公園に男性の大声が響いた。
当時、公園では30人近くの子供と親たちが集まり、遊具で遊んだり、かけっこしたりしていた。「親もどうかしてるわ! 緊急事態宣言が台無しや」。男性は険しい表情でこう言い放つと、自転車で立ち去った。こうしたケースは後を絶たない。
各自治体が自粛要請を出して以降、警察には新型コロナウイルスに関する通報が急増している。東京都では2月中は24件だったが、3月中で192件、4月には1000件を超えた。
おばあちゃんが細々やってる駄菓子屋さんにこれを貼るとはね。。自粛警察を自粛させようよ。物申す系YouTuberとか思考停止の自粛警察に凸して動画流してやればいいのに #自粛警察 pic.twitter.com/kB9MZ2Iein
— もえみ (@moemoejapan) May 1, 2020
一部の暴力的な人間が攻撃性を抑制できなくなっている?
彼らはどうしてこのような迷惑行為に走るのか。いろいろな人たちがその心理を解説しているのだが、腑に落ちないものも多い。
たとえば内田樹氏は、「そういうことをしても許される社会的な空気」を感知した一部の暴力的な人間が、自らの攻撃性を抑制できなくなっているのだと言う。
「こういうこと」ができるのは、「そういうことをしても許される社会的な空気」を彼らが感知しているからである。いまなら「そういうこと」をしても処罰されない、少なくとも「私は市民として当然の怒りに駆られたやったのだ」という自己正当化ができると知ると「そういうこと」をする人たちがいる。
私はそういう人たちをこれまで何度も見て来た。前にも書いたが今度も繰り返す。
私たちの社会は「自分がふるう暴力が正当化できると思うと、攻撃性を抑制できない人間」を一定数含んでいる。彼らがそのような人間であるのは、彼らの責任ではない。一種の病気である。
人間は「今なら何をしても処罰されない」という条件を与えられたときにどのようにふるまうかで正味の人間性が知れる。これは私の経験的確信である。前に嫌韓言説について書いたときに私はこう書いた。読んだことがある人もいると思うが、大切なことなので再録する。
嫌韓言説の一番奥にあるほんとうの動機は「おのれの反社会的な攻撃性・暴力性を解発して、誰かを深く傷つけたい」という本源的な攻撃性である。「ふだんなら決して許されないふるまいが今だけは許される」という条件を与えられると、いきなり暴力的・破壊的になってしまう人間がこの世の中には一定数いる。ふだんは法律や常識や人の目や「お天道さま」の監視を意識して、抑制しているけれども、ある種の「無法状態」に置かれると、暴力性を発動することを抑制できない人間がいる。
確かに、社会には一定の割合で暴力的な人間がいるのは事実だろう。しかし、今の状況は「無法状態」とは言えないし、彼らが「法律や常識や人の目」がないのをいいことに自らの攻撃欲求を満たしているとは思えない。もしそうなら、嫌がらせの多くが警察への通報という形を取ることはないはずだ。
いわゆる「正義の暴走」なのか?
一方、こちらはいわゆる「正義の暴走」説。
「正義」だから堂々とやってしまう
「ちょっと喉がつっかえてゴホンと言っただけで、『コロナだ! あっちいけ!』となる。県外ナンバーの車も、本当はどこからきているのか確かめる術がないのに、『とにかく危なっかしい奴らは出ていけ』。店の貼り紙も投石も、自粛ポリス的な発想の人たちには『正義』ですから、堂々とやってしまうんです」社会心理学者の碓井真史さんは、「自粛ポリス」とも呼ばれる人々の心理をこう分析する。
(略)
今、日本中に広まりつつあるのは、人それぞれの「正義」だ。非常時に人々がパニック状態になり、よそ者や少数派を攻撃する心理は、SF映画などでもよく描かれてきた。理由を探し出し、独自の正義感から悪に対して鉄槌を振るう。
「コロナ禍の現在は、県外ナンバーも、人が集まる商店も、少し咳をしている人も、仲間ではなく敵。『敵は追い出さねばならない、それが正義だ』という発想です。(略)心に余裕があれば、他人を攻撃する必要はない。病気への不安、経済的な不安から、『他人の行動が許せない』という怒りを増大させていると思います」
自粛ポリスの多くが、自分の行為を正義だと考えているというのはその通りだろう。しかし、それは「人それぞれの「正義」」とは言えない。各人の信念に基づく「人それぞれの「正義」」なら文字通り「人それぞれ」に異なるはずだが、テレビが毎日毎日政府や自治体からの「自粛要請」のアナウンスを繰り返し、今日のどこそこの人出は以前の何パーセントだったとか自粛要請に従わないパチンコ屋にこんなに行列ができているとか流し続ける中で、彼らの攻撃の方向性はきれいにそちらに揃っている。
要するに、批判精神ゼロのマスコミが流す「正しいこと」、それは政府が民衆に要求している「正しい行動」そのままだが、自粛ポリスはそれに反するように見える行為を探し出しては叩いている。彼らは自分たちの行為が権力の意向に沿った「官許」のものだと確信しているからこそ、安心して暴力を振るっているのだ。
「官許の暴力」を振るう自粛警察は関東大震災時の自警団に似ている
これは関東大震災時の自警団の心理に近いのではないか。
あのときも、当初は流言に過ぎなかった「朝鮮人暴動」説を治安当局が公認し、その情報を全国に流して取締りを指示した[1]ことにより、自警団による朝鮮人狩りは「官許の暴力」となった[2][3]。
九月二日の内務省警保局長の朝鮮人暴動の認定
以上の史料は個々の警察官や個々の警察署が朝鮮人が暴動を起こしたと誤認した情報を流したことを示すが、九月二日には治安当局の中枢部の内務省警保局長が、朝鮮人暴動が事実起こったと誤認してその情報を全国に流す処置を取ったと考えられる。その根拠の第一は、海軍東京無線電信所船橋送信所から九月三日午前八時一五分に広島県の呉鎮守府(海軍の根拠地)副官経由で、各地方長官に送られた内務省警保局長の左記の電文である。これは東京で朝鮮人が暴動を起こしたと告げ、各地での朝鮮人の取締りを命じたものだった。「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対して厳密なる取締を加えられたし」
なにしろ天下晴れての人殺しですからね。私の家は横浜にあったんですが、横浜でもいちばん朝鮮人騒ぎがひどかった中村町に住んでいました。
そのやり方は、いま思い出してもゾッとしますが、電柱に針金でしばりつけ、なぐるける、トビで頭へ穴をあける、竹ヤリで突く、とにかくメチャクチャでした。
何人殺ったということが、公然と人々の口にのぼり、私などは肩身をせまくして、歩いたものだ。(略)
「旦那、朝鮮人は何うですい。俺ア今日までに六人やりました。」
「そいつは凄いな。」
「何てつても身が護れねえ、天下晴れての人殺しだから、豪気なものでサア。」
この国では、戦後も含めてただの一度も政府が朝鮮人虐殺の罪を謝罪したことがなく、このようなおぞましい惨劇がなぜ起きたのか、きちんと教育することもしてこなかった。だからこの国の民衆にはあのときと同様な自警団的心性 ― 危機にあたって権力が指差す「敵」を疑念も持たずに攻撃する心性 ー が、今も変わらず受け継がれているのだ。
[1] 山田昭次 『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』 創史社 2011年 P.63-64
[2] 山田昭次 『関東大震災時の朝鮮人虐殺―その国家責任と民衆責任』 創史社 2003年 P.209
[3] 横浜市役所市史編纂係 『横浜市震災史』 第5冊 1926年 P.431