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信用できない歴史関連本の見分け方

いま、ある調べ物をする必要から北康利『白洲次郎 占領を背負った男』という本を読んでいるのだが、一読してみて、この本の内容はまったく信用ならない、という結論になった。

なぜこの本が信用できないかを説明していくと、ある意味、一見もっともらしいが実際には信用に値しない歴史関連本の見分け方の解説にもなると思うので、ちょっと書いてみることにする。

参考文献の恣意的利用

この本の中に、こういう記述がある。日本国憲法のGHQ草案では国会が一院制とされていたことに関する話である。[1]

 このとき、松本が勇気を振り絞って口を開いた。

「一つ申し上げておきたいが、二院制というのはただなんとなく二つあるというのではなく、チェック&バランスの役割を果たしているのです」

 松本のその言葉に対し、ホイットニーは意外にも素直に耳を傾けた。後年、「参議院など不要だ!」と発言する次郎も、このときばかりは松本を応援したい気持ちになっていた。一院制はケーディスの発案で盛り込まれたものだったが、彼もさして反論はしなかった。それはそうだろう。草案制定会議の議事録を見ると、

「マッカーサー元帥は一院制のほうがいいと思っているようだ」

 というケーディスの一言で、何の理論的裏づけもないまま一院制が採用されていたにすぎない。いい加減なことこの上ない。だがこれ以外の問題となると、彼らはまったく聞く耳を持たなかった。

この本では、GHQは単なる思いつきで一院制を草案に入れてきたものの、松本烝治(幣原内閣の憲法改正担当国務大臣、法学博士)に教えられて考えを改めたかのように描いているが、実際は違う。古関彰一が『新憲法の誕生』で次のように指摘している。[2][3]

 もっとも最後の四一条の一院制は日本政府との「取引きの種として役に立つことがあるかも知れない」とのケーディスの判断で加えられたという。「われわれが一院制を提示し日本側がその採用に強く反対したときには、この点について譲歩することによって、もっと重要な点を頑張ることができるよう」考えたというのである。

 いかにも「自信家」の松本らしい受けとり方である。しかしこのGHQ案の一院制は、すでに述べたごとく、作成の最終段階で、日本政府との「取引きの種として役に立つことがあるかも知れない」という、きわめて戦略的に、承知の上でケーディスが入れたものであった。しかし「自信家」の松本には、相手が「自分達の思うようになってきたぞ」と思って松本の方を見ていた顔が、「なるほどと思った」顔に見えたのであろう。ヤボな自信ほど恐ろしいものはない。(略)

松本は、この件で議会制度の基本も知らない素人のGHQに対して交渉上優位に立てたと思い込み、自分の憲法改正案を採用するよう求める「憲法改正案説明補充」を白洲に届けさせているが、もちろんこれはあっさり却下された。何のことはない、松本や白洲などの日本側は、GHQの手のひらの上で踊らされていただけなのである。[4]

とはいえ、これだけなら、著者の北康利は勉強が足りなかったというだけの話である。

問題なのは、北が古関の『新憲法の誕生』を参考文献に入れていることだ。しかもそこから引用までしている。[5]

 古関彰一は著書『新憲法の誕生』の中で、次郎の役回りについて触れ、〈憲法制定のこの役は結果的には“汚れ役”になったのであるから、吉田が表に出ず、白洲にその役を演じさせたことで吉田はその政治生命をどれだけ救われたか計り知れない。白洲がいなかったとしたら、吉田はその数ヵ月後に首相となることはなかったかも知れない〉

 と述べている。(略)

つまり北は、古関の指摘を読んでこの件の真相を知っていながらこれを無視したわけだ。無視した理由は、憲法のことなど知らない素人のGHQが慌てて作った粗雑な憲法案を押し付けてきた、というストーリーを描く上で都合が悪いからだろう。

参考文献の扱い方として、極めて不誠実というほかない。

見てきたような感情描写

この本では、「主人公」の白洲次郎はもちろん、GHQ側の人間についても、しばしば「生き生きとした」感情描写が行われている。例えば憲法草案の改訂作業を直接担当したGHQ民政局のケーディスに関して、こんな描写がある。

  • 「ウィロビーの英語には強いドイツ語訛りがあったが、ケーディスはそれを聞くたびに虫酸が走った。」(P.126)
  • 「“まんまとやられた”次郎と“してやったり”というケーディス――視線さえあわさずともふたりの間にはある感情の交換があった。」(P.141)
  • 「ケーディスは日ごろ生意気な次郎が陸に上がった魚のようになっているのを見て内心ほくそ笑んでいた。」(P.144)

「虫酸が走った」とか「内心ほくそ笑んでいた」などというのは、言葉はもちろん表情にすら表れない内心の感情である。こんなことは、相手としっかりとした信頼関係を築いた上で長時間のインタビューでもしなければ知り得ないはずだ。では、ケーディスに直接取材したわけでもない筆者になぜそんな内心の機微が分かるのか。

ケーディスは晩年になってマスコミの取材を受けるようになり、日本でのことについて「堰を切ったように話し始めた」[6]とのことだが、「あのときは内心ほくそ笑んでいたんですよ」などとわざわざ自分を悪役にするような発言をしたとは考えにくい。

登場人物たちの言動だけでなく、資料的根拠のない内心の思いや感情を想像で描きながら物語を紡いでいくのは、歴史小説の手法である。司馬遼太郎がその典型だろう。

つまりこの本は、とんでもない憲法草案を押し付けてきた傲慢なGHQ(とりわけその代表的悪役としてのケーディス)と、日本のあるべき姿を守るために戦った白洲次郎、という物語を語っている小説なのである。(わざわざ「ケーディスとの最終決着」という章まで設けている。)

言うまでもないことだが、小説を根拠に歴史を理解しようとしてはならない。

[1] 北康利 『白洲次郎 占領を背負った男』 講談社 2005年 P.145
[2] 古関彰一 『新憲法の誕生』 中公文庫 1995年 P.146-147
[3] 古関 162-163
[4] 古関 P.164
[5] 北 P.190
[6] 北 P.269