著者の渡辺清氏は1925年生まれ。16歳で自ら志願して海軍に入隊、大和と並んで世界最大最強と謳われた戦艦武蔵に乗り組んで米軍と戦った。
武蔵は1944年10月に撃沈されたが渡辺氏はかろうじて生き残り、その後配属された駆逐艦の艦上で8月15日の敗戦を迎えた。この日のことを、氏はある対談で次のように語っている。(『現代の眼』1962年12月号)
敗戦は挫折というよりも、ナメクジに塩をかけると溶けますが、あんなふうに自分自身が崩れていく実感がありました。
この書は、渡辺氏が故郷の村に復員した1945年9月から翌4月までの日記を収録したものだが、純粋に「現人神」昭和天皇を信仰する軍国少年のまま帝国軍人となっていた氏が、敗戦の衝撃に七転八倒しながら天皇制の呪縛から醒めていく、その過程を記した稀有の記録ともなっている。
「帝王の帝王たる尊厳」を示さなかった天皇裕仁
軍隊内部でも故郷の村でも、敗戦直後から、天皇をはじめ帝国日本の主だった者たちは連合軍によって処刑されるのではないかという噂が流れていた。
渡辺氏は、天皇の処刑などということは絶対にあってはならないと思いつつも、この戦争が天皇の命令によって開始され、そして惨憺たる敗北を喫した以上、天皇は何らかの形でその責任を取るはずだとも考えた。
9月2日の日記:[1]
だが、かりにもしこの噂が本当だとしても、天皇陛下が敵の手にかかるようなことはまずないだろう。縄をうたれた天皇陛下なぞ、たとえ天と地がさかさまに入れかわってもあり得ないことだ。だいいち、それまで天皇陛下がおめおめと生きておられるはずがない。もしそういうことになれば、そのまえに潔く自決の道を選ぶだろう。立派に自決することによって、なんぴとも侵し難い帝王の帝王たる尊厳を天下にお示しになるだろう。それをおれは固く信じている。実は、おれは降伏詔書を発布された直後に天皇陛下は自決するのではないかと思った。敗北の責任をとる手段といえば、さしずめそれ以外にない。開戦の責任者である以上、そうするのがむしろ当然だと考えたのである。
むろんおれはいまもその考えを変えていないが、ただ「八月十五日」の時点で天皇陛下があえて自決を避けられたのは、それによって敗戦の混乱と不安をいっそう大きくするという“聖慮”によるものだったかもしれない。それは十分考えられることだ。おそらく天皇陛下は、御親率の陸海軍人がほぼ復員を完了し、人心が平時に復したときか、さもなければ連合国が軍事裁判を開く前あたりをその時機とみて、あるいは御退位するおつもりかもしれない。
いずれにしろ天皇陛下は、できるだけ早い時機にその責任をおとりになるだろう。いたずらにその時機を失して、敵の法廷に立つような醜態をさらすことは、よもやないだろう。戦争は天皇陛下の御命令で開始され、惨憺たる敗北を喫したあげく、最後も天皇陛下の御命令で終止符がうたれた。そして、その間たいへんな犠牲者を出したのだ。天皇の名によっておびただしい人命が失われたのだ。畏れおおいことだが、この責任は誰よりもまず元首としての天皇陛下が負わなければならない。
だが、天皇裕仁が渡辺氏の期待に応えることはなかった。それどころか、新たな日本の支配者となった占領軍司令官マッカーサーにすり寄り、何とかしておのれの地位を守ろうと、保身に汲々とするばかりだったのだ。
それを見せつけた決定的な場面が、天皇によるマッカーサー訪問だった。
画像出典:[2]
9月30日の日記:[3]
天皇がマッカーサーを訪問(九月二十七日)。昨日ラジオでも聞いたが新聞にも五段ぶちぬきでそのときの写真が大きく出ている。
それにしても一体なんということだ。こんなことがあってもいいのか。「訪問」といえば聞こえはいい。しかし天皇がこれまで自分のほうから人を訪ねたことがあったろうか。(略)
しかも訪ねた先方の相手は、おれたちがついせんだってまで命を的に戦っていた敵の総司令官である。「出てこいニミッツ、マッカーサー」と歌にまでうたわれていた恨みのマッカーサーである。その男にこっちからわざわざ頭を下げていくなんて、天皇には恥というものがないのか。いくら戦争に敗けたからといって、いや、敗けたからこそ、なおさら毅然としていなくてはならないのではないか。まったくこんな屈辱はない。人まえで皮膚をめくられたように恥ずかしい。自分がこのような天皇を元首にしている日本人の一人であることが、いたたまれぬほど恥ずかしい。
マッカーサーも、おそらく頭をさげて訪ねてきた天皇を心の中で冷ややかにせせら笑ったにちがいない。軽くなめてかかったにちがいない。その気配は二人の写真にも露骨にでている。モーニング姿の天皇は石のように固くしゃちこばっているのに、マッカーサーのほうはふだん着の開襟シャツで、天皇などまるで眼中にないといったふうに、ゆったりと両手を腰にあてがっている。足をいくらか開きかげんにして、「どうだ」といわんばかりに傲慢不遜にかまえている。天皇はさしずめ横柄でのっぽな主人にかしずく、鈍重で小心な従者といった感じである。
(略)
ところが実際はどうだろう。わざわざ訪ねたあげく、記念のつもりかどうかは知らないが、二人で仲よくカメラにおさまったりして、恬てんとして恥ずるところもなさそうだ。おれにはそう見える。いずれにしろ天皇は、元首としての神聖とその権威を自らかなぐり捨てて、敵の前にさながら犬のように頭をたれてしまったのだ。敵の膝下にだらしなく手をついてしまったのだ。それを思うと無念でならぬ。天皇にたいする泡だつような怒りをおさえることができない。
(略)
おれにとっての“天皇陛下”はこの日に死んだ。そうとでも思わないことにはこの衝撃はおさまらぬ。
10月1日の日記:[4]
おれのこれまでの天皇にたいする限りなき信仰と敬愛の念は、あの一葉の写真によって完全にくつがえされてしまった。
おれは天皇に騙されていたのだ。
絶対者として信じていた天皇に裏切られたのだ。
それとは知らず、おれはこれまですべてを天皇のためだと信じ、そう信じていたがゆえに、進んで志願までして戦場に赴いたのだ。おれはいまも入団当日の感激をはっきり憶えている。(略)
おれはそれから海兵団の新兵教育を終えて、まもなく戦場に出ていったが、激しい戦闘のさなかにあっても、この時の誓いを忘れたことはなかった。いささかもそれにそむいたことはなかった。おれは少年兵として勇敢だったつもりだ。大人の兵隊におとらず勇敢に戦ってきたつもりだ。(略)
だが、その天皇帰一の精神もいまは無残に崩れてしまった。天皇にたいするおれのひたすらな思いは、現実の天皇とはなんのかかわり合いもなかった。むなしい一人合点にすぎなかったのだ。
それにしても、これがあの天皇だったのか。「現人神」とあれほどにあがめられていたあの天皇だったのか。
おれはいちど生身の天皇を見たことがある。(略)そのときおれは儀仗兵として右舷内の正面に立っていたので、天皇を文字通り「龍顔りゅうがん咫尺しせき」の間に見ることができた。(略)そのときのおれほ、御召艇から舷門に上がってきた天皇にむかって捧ささげ銃つつの姿勢をとりながら、瞬間、かくも身近に「玉体」を拝した光栄と感激にわなわなと体をふるわせ、「この上はもういつ死んでも悔いはない」と思ったものだ。
ところがどうだ。あのときの眼もくらむような感激は、おそろしい羞恥と怒りに変わってしまった。しかもその鬱屈した怒りはどこにも持っていきようがない。それはそのまま、そういう無節操な天皇に身ぐるみいかれきっていたおれ自身にともどもはねかえってくる。……一体おれのこれまでの「忠誠心」はなんだったのか。天皇のために死を賭していたのはなんのためだったのか。そこに一体どんな意味があったのか。
おれはもう何も信じられない。何ものも信ずることができない。自分自身すら信じられない。
天皇を絶対的なものとして信じていた自分自身の問題に向き合う
天皇に裏切られたことへの怒りにのたうち回っていた渡辺氏は、あるとき知人に自分の憤懣をぶちまけるのだが、相手からは意外な答えが返ってきた。
12月21日の日記:[5]
「君はさっきから、天皇に一方的に裏切られたとか、欺だまされたとか言ってるけど、そういう天皇を絶対的なものとして信じていた君自身には問題はなかったのかな? そこんところを考えてみたことある?」
その後渡辺氏は、この知人から借りた河上肇の『近世経済思想史論』と『貧乏物語』の2冊を読み、その内容と自分の生活実感を照らし合わせながら、天皇制というものに対する考えを少しずつ深めていく。
1月1日の日記:[6]
一日炬燵にもぐって読書。正月だから昼日なか本を読んでいても誰にも気兼ねはいらない。大威張りだ。夕方までかかってやっと『近世経済思想史論』を読み終わった。
資本家階級と労働者階級の対立、資本主義と社会主義の形態、生産力と生産関係、不変資本と可変資本、剰余価値と剰余労働等々、どれも目新しい言葉ばかりだったが、それをこの本はコップやシャツの製造過程、また卵や出産の例をたくみに織りこみながら、誰にでもよくわかるように書いてある。とにかく実にいい本だ。小説以外でこんなに熱中して読んだ本ははじめてだ。
そして、彼が敗戦まで一心に信じ続けてきた天皇とは、明治維新の最初から、「現人神」どころかこの国を牛耳る金持ちたちの親玉に他ならなかったことを理解する。(実際、敗戦までの天皇は日本最大の資本家であり、世界でも有数の大富豪だった。)
2月2日の日記:[7]
マッカーサー司令部の発表によると、皇室の財産は、所蔵の美術品、宝石、金銀の塊は別にしても、十五億九千万円もあるのだという。これにはおれも心底びっくりした。小学校三年の時だったかに、一億という金は一円札にして積み重ねていくと、富士山の高さの二倍近くにもなるという話を先生から聞いたことがあるが、十五億などという金はとても想像できない。あまりに膨大で気が遠くなるほどだ。だが、おれが驚いたのは、その金嵩かねがさではない。その膨大な財産の所有者が天皇であったということだ。
おれはこれまで天皇を金品に結びつけて考えたことは一度もなかった。金などを云々するのはわれわれ世俗のことで、天皇はそんなことにはまったく無縁な超越的な存在だと思っていた。天皇を崇高な「現人神」と信じていたのも一つはそのためだった。それがどうだろう。ひと皮はいでみればこのありさまだ。いったい天皇はこんな大金をどこでどのようにして手に入れたのか。
金というものは遊んでいては手に入らない。そのためにはどうしても働かなければならない。普通の人なら誰しもそう思うだろう。
ところが天皇は現に何も働いてないし、これまで金のたまりそうな仕事をやっていたという話も聞いたことがない。(略)それなのにどうしてこんな膨大な財産を所有することができたのか。しかも明治維新までは「禁裏十万石」とも言われていたように徳川幕府から小藩なみの扶持をもらって質素に暮らしていたという天皇家だ。そこへまさかこんな財産がひとりでに天から降ってきたわけでも地面から湧いてきたわけでもあるまい。
とすれば、誰かがそれを天皇に提供したものとみなくてはならない。むろんその財産の中には個人持ちのものもあったかもしれないが、大部分は国のものだったろうし、その誰かはおそらく国の財産を自由にとりしきることのできる政府のエライ様たちだったのだろう。
(略)
人のふところを探るような卑しいことは言いたくないが、いずれにしろ天皇一家はたいへんな金持ちだったのだ。それもそんじょそこらのお大尽や物持ちなどとは桁がちがう。十五億といえば天文学的な額だ。これを見ただけでも天皇が金持ちの中心的な存在として、金持ちからあがめられていたことがよくわかる。金持ちは真実金持ちしか相手にしないというではないか。
ちなみに、このときGHQが発表して渡辺氏を驚愕させた皇室財産15億9000万円というのは、一反歩(300坪=約1,000m2)の土地をわずか1円たらずに評価し、株式なども購入時の価格で計算したもので、大幅に過小評価した数字だった。皇室財産の総額として、より現実に近い数字としては、1917年に代議士澤木太郎が推定した70億5,300万円というものがある。[8] なお、1円の価値は、何を基準に比較するかにもよるが、1913年時点で今の1,000円から4,000円程度に相当する。
天皇は、ただの俗物の大富豪、それも国有財産を掠め取って作られた大富豪だった。
しかし、いくら教え込まれてきたせいとはいえ、そんな天皇をたやすく「現人神」と信じ、自ら望んで侵略戦争に加担してきた自分に罪はないのか? 渡辺氏はこの問いに向き合っていく。
2月10日の日記:[9]
おれは天皇に裏切られた。欺された。しかし欺されたおれのほうにも、たしかに欺されるだけの弱点があったのだと思う。(略)
考えてみると、おれは天皇について直接なにも知らなかった。(略)そのおれが天皇を崇拝するようになったのは小学校に上がってからである。おれはそこで毎日のように天皇の「アリガタサ」について繰り返し教えこまれた。「万世一系」「天皇御親政」「大御心」「現御神」「皇恩無窮」「忠君愛国」等々。そして、そこから天皇のために命を捧げるのが「臣民」の最高の道徳だという天皇帰一の精神が培われていったわけだが、実はここにかくれた落とし穴があったのだ。
おれは教えられることをそのまま頭から鵜呑みにして、それをまたそっくり自分の考えだと思いこんでいた。そしてそれをいささかも疑ってみようともしなかった。つまり、なにもかも出来合いのあてがいぶちで、おれは勝手に自分のなかに自分の寸法にあった天皇像をつくりあげていたのだ。現実の天皇とは似ても似つかないおれの理想の天皇を……。
だから天皇に裏切られたのは、まさに天皇をそのように信じていた自分自身にたいしてなのだ。現実の天皇ではなく、おれが勝手に内部にあたためていた虚像の天皇に裏切られたのだ。言ってみれば、おれがおれ自身を裏切っていたのだ。自分で自分を欺していたのだ。
(略)
天皇を責めることは、同時に天皇をかく信じていた自分をも責めることでなければならない。自分を抜きにしていくら天皇を糾弾したところで、そこからはなにも生まれてこない。それはせいぜいその場かぎりの腹いせか個人的なグチに終わってしまう。そしてそれでことはすんだつもりになって、時とともに忘れてしまい、結局、いつかまた同じ目にあわされることになるのだ。とにかく肝心なのはおれ自身なのだ。二度と裏切られないためにも、天皇の責任はむろんのこと、天皇をそのように信じていた自分の自分にたいする私的な責任も同時にきびしく追及しなければならない。おれは今にして強くそう思う。
戦争についてもまったく同じことがいえる。たしかにおれは戦争について何も知らなかったし、何も知らされていなかった。正義のためだと教えこまれていた戦争が、実は無謀な侵略戦争であり、他国へのあこぎな強盗的行為であったのだと知ったのは敗戦になってからである。それはそれでいい。だがおれ自身がその戦争を讃美し、志願までしてそれに参加した人間だという事実は、それによってすこしも消されることはない。(略)知らなかった、欺されていた、ということは責任の弁解にはなっても、責任そのものの解消にはならない。知らずに欺されていたとすれば、まずそのように欺されていた自分自身にたいして責任があるのだと思う。
(略)
戦争は悪である。なぜならそれは人間を苦しめ、人間同士の殺し合いだからである。いまになってみれば至極あたりまえなこの不易の真理についてすら、当時のおれはすこしも考えてみなかった。そして、そのまま戦争を狂信的に讃美して、おめずおくせず、それこそピクニックにでも出掛けるような浮かれた気持ちで海兵団の団門をくぐったのである。しかもそれから四年もの間、あの血ち腥なまぐさい殺戮の現場に居合わせながら、戦争の悪に眼を開くことができなかったのだ。
(略)おれの手はたくさんの人間の血で穢れている。おれは武蔵でも早波でも砲手だった。そしておれは射った。射って個人的にはなんの敵意もない米兵を倒したのだ。また海戦のたびに仲間の多くが死んだ。ある者は頭を砕かれ、ある者はガラス屑のように海に散り、ある者は断末魔の苦しみにのたうちながら、艦と運命を共にした。そしておれはそのようなおびただしい仲間の死骸を海底に沈めたまま、あまつさえある場合には見殺しにさえして、自分だけ生きて帰ってきたのだ。天皇の問題と同時に、おれはこのことも自分にたいしてあらためてはっきり確認しておきたい。
(略)
人には責任がないような顔をしてすましていることはできる。しかし自分は欺くことはできない。
「私は、これでアナタにはもうなんの借りもありません」
こうして天皇の責任と同時に騙されていた自分自身の責任にも正面から向き合った渡辺氏は、天皇裕仁に宛てて、次のような手紙を書いた。
4月20日の日記:[10]
私は昭和十六年五月一日、志願し水兵としてアナタの海軍に入りました。兵籍番号は『横志水三七五二四六』です。以来、横須賀海兵団の新兵教育と、海軍砲術学校普通科練習生の七ヵ月の陸上勤務を除いて、あとはアナタの降伏命令がでた昭和二十年八月十五日まで艦隊勤務についていましたが、八月三十日、アナタの命により復員し、現在は百姓をしています。
私の海軍生活は四年三ヵ月と二十九日ですが、そのあいだ私は軍人勅諭の精神を体し、忠実に兵士の本分を全うしてきました。戦場でもアナタのために一心に戦ってきたつもりです。それだけに降伏後のアナタには絶望しました。アナタの何もかもが信じられなくなりました。そこでアナタの兵士だったこれまでのつながりを断ちきるために、服役中アナタから受けた金品をお返ししたいと思います。
まず俸給ですが、私がアナタから頂いた俸給は次のようになっています。
(略)
計一、一二〇円七五銭
つぎに食費ですが、食事は上官から汁一杯、米一粒といえども畏れおおくも天皇陛下がくださるものだと言われ、日に三度三度、ありがたくいただきました。食費は主計兵から士官で一食三七銭、下士官兵で一食二五銭かかると聞いていましたが、このほかに戦闘航海中と夜間訓練のたびに夜食をいただき、また月二回ぐらいの割で給与令による嗜好食料品もいただいたので、それらをふくめて一食三〇銭に計算しておきます。そこで私の在籍日数は復員の当日まで加えて一、五八二日、このうち往復八日と七日の休暇を二回もらっているので、その日数を差し引くと一、五六七日になります。なお、休暇のほかに自前で外食する半舷上陸と入湯上陸が何回かありましたが、正確な日数がわからないので、それは計算にくわえませんでした。したがって食費は一日三食、九〇銭として、〆て一、四一〇円三〇銭になります。
次は被服ですが、私は上官から被服は「靴下一足、ボタン一個にいたるまで天皇陛下からお借りしたものだから大事にせい」と言われ、次の員数をきちんとそろえておくことにたいへん気をつかいました。
(略)
ただし右にあげたこれらの被服は昭和十九年十月二十四日、レイテ沖海戦で乗艦の武蔵が撃沈された際、すべて沈めてしまいました。不可抗力でした。
その後横須賀の海軍衣服廠で再度支給を受けた被服は次の通りです。
(略)
前記の沈めてしまった被服はすべてアナタからの貸与品でしたので、借料として三〇〇円、後記の再度貸与された被服は、復員の際、艦長令達によりいただいてきたので、この分は五〇〇円に計算しておきます。なおそのとき離現役一時手当金として八五〇円をいただきました。
最後にこれは一番気になっていたことですが、私はアナタから「御下賜品」として左記の品をいただきました。
(略)
たとえ相手が誰であっても、他人からの贈りものを金で見積もる失礼は重々承知のうえで、これについてはあえて一〇〇円を計算にくわえました。
以上が、私がアナタの海軍に服役中、アナタから受けた金品のすべてです。総額四、二八一円〇五銭になりますので、端数を切りあげて四、二八二円をここにお返しいたします。お受け取りください。
私は、これでアナタにはもうなんの借りもありません。
天皇裕仁、そして天皇制との、見事な決別である。
渡辺氏はその後、1960年に日本戦没学生記念会(わだつみ会)に入会して常任理事から事務局長となり、1981年に突然の病で死去(56歳)するまで戦没学生の墓参や遺稿刊行の仕事を続けた。
戦後日本人の多くが渡辺氏のように真剣に天皇制と向き合っていれば、その後の日本の歴史はまったく違ったものになっていただろう。
この本は、全日本人必読の書の一冊と言っていいと思う。
[1] 渡辺清 『砕かれた神 ― ある復員兵の手記』 岩波現代文庫 2004年 P.2-3
[2] 藤原彰 『体系日本の歴史(15)世界の中の日本』 小学館ライブラリー 1993年 P.51
[3] 渡辺 P.35-37
[4] 渡辺 P.39-42
[5] 渡辺 P.152
[6] 渡辺 P.165-166
[7] 渡辺 P.209-212
[8] 井上清 『天皇制』 東大新書 1953年 P.92
[9] 渡辺 P.220-224
[10] 渡辺 P.329-336