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読む・考える・書く

マスコミやネットにあふれる偏向情報に流されないためのオルタナティブな情報を届けます。

アフガニスタンのヤギ飼いにジレンマなどない

哲学

帰宅途中に寄った本屋に何となく気になるタイトルの本があったので、ぱらぱらと立ち読みした。マイケル・サンデル著『これからの「正義」の話をしよう』という本だ。


あなたが運転している路面電車が暴走して止められなくなり、このままだと線路上にいる作業員5人をひき殺してしまう。ハンドルを切って引込み線に入ればその5人は助かるが、そちらの線路上にいる別の作業員1人をひき殺すことになる。何もしないことで5人を死なせてしまうのと、あえてハンドルを切って―つまりあなた自身の意志で―本来死なずに済んだはずの別の1人をひき殺すのと、どちらが正しい選択なのか、といった、簡単には答えの出ない倫理的ジレンマを扱った本……なのだそうだ。


これを読んでいくうちに、ひどく引っかかる一節に出くわした。それが「アフガニスタンのヤギ飼い」というエピソードだ。これはさっきの路面電車のような仮定の話ではなく、実話なのだという。

実際に生じた命のジレンマについて考えてみたい。2005年アフガニスタンでのこと。ラトレル二等兵は特殊部隊シールズのほかのメンバー三人とともに、秘密の偵察に出発した。情報によれば目標とする人物は百五十人ほどの重武装した兵士を率いて山岳地帯の村にいるとのことだった。

彼らは山の尾根でヤギを連れた二人の農夫と少年に出くわした。民間人だがもし見逃せば、彼ら米兵の存在をタリバンに知らせてしまうリスクがあった。縛り上げるロープもなく、殺すか解放するかのどちらかしかなかった。一人は言った「我々は作戦を遂行中だ。軍人として何をすべきかは明らかだ」心の中では彼が正しいとわかっていた。ラトレルは回想記に書いている。

「どう考えてもヤギ飼いを解放するわけにはいかなかった。しかし武器も持たないこの男たちを殺すのは間違っているとキリスト教徒の心はささやいた」結局、殺さないほうへ票を投じ、彼はあとから悔やむことになる。解放してまもなく彼らはタリバン兵に包囲され、戦友は全員死亡、シールズを救出しようとしたヘリコプターも撃墜され、十六名が命を落とした。

ラトレルはかろうじて生き延びたが、当時を振り返り書いている「これまでの人生でもっとも愚かで馬鹿馬鹿しく間の抜けた判断だった。頭がおかしかったに違いない。墓穴を掘るとわかっている一票を投じたのだから。この事実は私を死ぬまでさいなむことだろう」


ラトレルは、3人のヤギ飼いを殺さずに見逃してやったために、16人が死ぬという大変な結果をまねいてしまった。良心に従った判断だったはずなのに結果は最悪。なんというジレンマか…! ということらしいのだが、本当にそうか?


では、ラトレルがこの3人のヤギ飼いを殺すという選択をしていたら、何が起こっただろうか?


当然彼らの作戦は成功し、ターゲットとしていたタリバン幹部の居場所は特定されただろう。そして米軍は、アフガンでもイラクでも何十回となく繰り返してきたように、その村に圧倒的火力で徹底的な空爆を加える。
標的とされたタリバン幹部も、部下の兵士たちも、ほとんどが殺されただろう。
その村の住民である無辜の民間人たちも巻き添えとなって殺される。たとえ命からがら空爆からは逃げおおせたとしても、家も、家畜も、蓄えていた食糧も、すべてが焼き尽くされて廃墟となってしまった村で、どうやって生きていけばいいのか?
最終的にどれだけのアフガン人が殺されることになったか推定は困難だが、少なくとも16人などという数で済まないことは明らかだ。


この本がおかしいのは、「命」についての正しさを哲学すると言いながら、「敵」「テロリスト」とレッテルを貼った相手の命は、巻き添えにされる人々の命も含めて、最初から考慮の枠外に置かれていることだ。
公正でもなければ普遍的でもない、アメリカという狭い枠の中の「正義」。
そこに、この本の最大の倫理的ジレンマがある。