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「かわいそうなぞう」を殺した大達茂雄が戦後は文部大臣となって歴史教育を殺した

官僚 政治屋 教育 歴史認識

 

「かわいそうなぞう」で描かれた猛獣虐殺を命じた東京都長官大達茂雄の経歴を見ると、いくつか重要なポイントが見つかる。

 

昭南特別市長(兼陸軍司政長官) 1942年3月—1943年7月
東京都長官 1943年7月—1944年7月
内務大臣(小磯内閣) 1944年7月—1945年4月
文部大臣(第5次吉田内閣) 1953年5月—1954年12月

 

昭南特別市とは、シンガポールのことである。アジア太平洋戦争の開戦直後、日本軍はタイ・マレー国境付近に上陸し、そのまま南下してマレー半島全域を制圧、翌1942年2月15日にはイギリス軍の重要拠点だったシンガポールを陥落させた。

その直後から、シンガポールおよびマレー半島各地で中国系住民(華僑)に対する大虐殺が始まった[1]。今でも正確な被虐殺者数は不明だが、少なくともシンガポールだけで数千人以上が殺されたと推定されている。

シンガポールは人口の八割近くを華僑が占めていたが、かれらは日本の中国侵略に対して祖国支援運動をおこなってきていたため、日本軍はそうした華僑を反日的であるとみなし、シンガポール占領後、華僑粛清をおこなうことをあらかじめ計画していた。

 山下軍司令官は河村少将をシンガポール警備司令官に任命し、二月一八日朝、「抗日分子を一掃すべし」という華僑の「掃蕩作戦命令」を下した。市内の華僑成年男子を集め、抗日分子を摘出し即時処刑せよという乱暴な命令だった。この命令を企画立案し粛清を現場で指導したのは第二五軍参謀辻政信中佐だった。(略)

 二月二一日から二三日までの間、華僑男子を市内五か所に集め、義勇軍に入っていた者、銀行員、政府の仕事をしていた者、シンガポールに来て五年未満の者などは手を挙げよと求め、手を挙げた者は抗日分子として選別した。あるいは警官などを使って抗日的とみなした者を摘発させた。そうして選別されたものは、トラックに載せられて海岸や郊外のジャングルなどに連行され、そこで機関銃で一斉に処刑された。多くの死体は海に流されたが、負傷しながらもかろうじて生き残った人たちや、処刑を物陰から見ていた付近の住民の証言から、殺戮の状況が法廷で明らかにされた。二月末には近衛師団(師団長西村琢磨中将)によってシンガポール市外の粛清がおこなわれ、同じように多くの住民が処刑された。

大達が市長兼陸軍司政長官として着任したのは3月なのでこの虐殺自体には関与していないが、日本軍が市民に対して行った暴虐とその結果はよく知っていたはずである。もちろん、シンガポール史上の暗黒時代と言われる日本軍占領期の悪政には彼にも直接の責任がある。たとえば、「現地自活」、つまり占領地からの収奪によって必要物資を調達しようとした日本軍は、極端な物不足と悪性インフレを引き起こした[2]。

 陸軍報道班員としてマラヤに派遣された井伏鱒二は、シンガポールでの思い出として軍票にふれている。ジョニーウォーカーの闇値段が、占領当初の三円五○銭から二ヶ月後には六円五○銭に値上がりし、その年一○月頃には七五円になったと記述している。軍票は、占領後日をおかずして下落を開始したのである。これは程度の差こそあれ、いずれの地域にも共通である。そして、どこかの戦線で日本軍が敗退すると、そのたびごとに、シンガポールの軍票の値がぐっと落ちていったと、井伏は書いていた(『徴用中の見聞(昭南島宿舎にて)』)。

虐殺を生き延びた華僑たちにはさらに、服従を強要する酷い仕打ちが加えられた[3]。

 もともと日本軍は、蒋介石政権=国民政府とつながる存在として、華人たちを警戒の目でみており、「実施要領」ではとくに、「華僑に対しては、蒋政権より離反し、我が政策に協力同調せしむものとす」としていた。(略)

 協力の証として求めたのは資金供出であり、その最初のケースが、シンガポールを中心とするマラヤの華人に対しておこなった日本軍への寄付の強要である。第二五軍軍政部長の名による極秘通達(四二年四月一九日付)によれば、「服従を誓い協力を惜しまざる者に対しては、その生業を奪わず権益を認め、然らざる者に対しては、断固その生存を認めざるものとす」として、「シンガポールを中心として主要都市の有力華僑全体に対し、最低五千万弗ドルの資金調達を命ずるものとす」「協力に参加せざる者に対しては、極めて峻厳なる処断を以て処理す。即ち財産の没収、一族の追放、再入国の禁止を行なうと共に、反抗の徒に対しては極刑を以て之に答え、華僑全体に対する動向決定に資せしむ」という強硬なものであった。この強制的募金のため、華人たちは土地を売り、高利貸に借金するところまでおいこまれたという。それでも二八○○万ドルしか集まらず、軍政当局は不足額二二○○万ドルを横浜正金銀行から華僑協会に貸し付け、その結果五○○○万ドルの小切手が山下奉文軍司令官に「奉呈」されたのである(篠崎護『シンガポール占領秘録』)。

こうしたシンガポールでの行政経験が、日本軍の敗勢が既に明白になっていた1943年7月に東京都長官となって帰国した大達に、「戦争はそんななまやさしいものではない」として猛獣虐殺を命令させる動機となったのではないだろうか。

 

敗戦後、大達は小磯内閣の閣僚として戦争政策を推進した責任を問われてA級戦犯容疑者とされたが不起訴となり、1953年には自由党公認で参院選に立候補し当選、同年5月から第5次吉田内閣の文部大臣となった。

大達が日本の戦争責任についてどう認識していたかは、彼自身の次の国会発言から明白だろう[4]。

○大達国務大臣 (略)私は戦争をすることにはちつとも賛成しないというか、私の考え方としては反対であつた、ただ一旦戦争になつた以上は、このままほつたらかしておいて民族が滅亡したのでは困る、だからいい悪いは問題ではない、力を尽す機会が与えられれば、民族を守るためにできるだけのことをしなければならぬ、そういうふうな考え方でいわゆる戦争に協力をしたのでありまして、私はイデオロギーとかなんとかいうような考え方であの戦争に協力したのではない(略)

 それから戦争裁判のことでありますが(略)私個人の考えを申し上げますと、これははなはだえてかつてなものである(略)ただ敵が勝つたからといつてこれを法律上あるいは道徳的な犯罪として私をさばくというのなら、相手が敵であれば私は堂々その点所信を申し述べるつもりだ。(略)私はああいうことは野蛮人のすることである、食人部落がけんかをして、勝てばあとで首祭りをするのと同じことだと思つております。

日本軍がシンガポールをはじめとする占領地で何をしたかを熟知していたにもかかわらず、侵略への反省などかけらもない。「食人部落」がケンカをするようなもの、という表現は、この男の戦争認識の幼稚さと責任感・倫理観のなさを見事に示している。

こんな男が文部大臣となって教育行政を牛耳ればどうなるか。大達は、文相に就任するとまず二人の特高官僚を要職に起用した。事務次官となった田中義男は、群馬県特高課長(31年)、長崎県特高課長兼外事課長(32年)、文部省思想局思想課長(35年)、という経歴を持つ。初等中等局長となった緒方信一は、青森県特高課長(35年)、三重県特高課長(36年)、警視庁特高部外事課長(41年)である。特に緒方は、文部省とは何の縁もなかったのに、大達によって宮崎県から呼び寄せられ、いきなり局長に抜擢されている。[5]

この人事がどれほど異常かは、戦後ドイツでナチス政権の元閣僚が教育担当大臣となり、元ゲシュタポ幹部を教育行政の高官に起用するなどということがあり得たかどうか考えてみれば分かるだろう。

当然ながら、大達と二人の特高官僚による教育行政の最大の目的は、本来なら未来の世代に過ちを繰り返させないために教育を通じて徹底的に批判しなければならなかった大日本帝国の悪行(それは彼ら自身によるものをも含む)の隠蔽と正当化だった。このために彼らがまずやったのは、「教育の中立性」を口実とした民主的教材への攻撃、警察や公安調査庁を利用した教員の思想調査と恫喝、教員の「政治的行為」を処罰する「教育二法」の推進、教育の民主性を担保していた教育委員会の公選制廃止などである[6]。(ちなみに、何が「中立性」違反や「政治的」行為であるかを決めるのは時の政権と官僚たちである。)

こうして、旧悪にまみれた内務官僚や特高官僚が戦後教育行政の方向性を決めてしまったために、日本は自国の近現代史をまともに教育しない国となってしまった[7]。

 日本人の思考がこのようなどつぼにはまり込んでいるのは、戦後の歴史教育のせいである。

 戦後の日本人は、現代史、中でも戦前に日本人が、韓国・中国・他のアジア各国でどんなことをしてきたか教えられて来なかった。

 私自身の経験から言うと、私は一九六二年に高校を卒業したが、小学校・中学校・高校までの学校の授業で現代史を教えられた記憶がない。日本史の時間となると、平安時代に異様に長い時間を費やし、江戸時代も最初の部分を過ぎると、駆け足で進み、三学期になってようやく明治維新に入る。明治維新についてもその意義など教わらず、ただ明治の元勲と言われる人の名前を教わるだけである。

 そして、明治維新が終わると、三学期も終わりになり、昭和の時代以降は「自分で勉強しておきなさい」と言うことになる。

 これは、私だけでなく、色々な学校を卒業した人間に尋ねたが、私より一○年近く若い人達も同じことだった。

 これでは、よほど意識の高い生徒でなければ、昭和の日本がアジア各国に侵略した事実など思い浮かべられる訳がない。

 日本が韓国や中国に明治以降どんなことをしてきたかきちんと知っている人は、意識を高く持っていてきちんと日本の現代の対アジア史を知ろうと努めている人だけである。

 

「かわいそうなぞう」を殺した大達茂雄は、戦後はその記憶をも含め、戦前戦中のあらゆる犯罪行為の記憶を消去するために、あるべき歴史教育そのものを殺したのだ。

その結果が今である。

 

[1] 林博史 『BC級戦犯裁判』 岩波新書 2005年 P.5-6
[2] 小林英夫 『日本軍政下のアジア』 岩波新書 1993年 P.117-118
[3] 同 P.126-127
[4] 衆議院法務委員会 1954年3月10日
[5] 柳河瀬精 『告発!戦後の特高官僚』 日本機関紙出版センター 2005年 P.58,63-64
[6] 同 P.66-68
[7] 雁屋哲 『戦争の記憶』 Let’s(日本の戦争責任資料センター)2013年3月号 P.3-4

 

BC級戦犯裁判 (岩波新書)

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シンガポール華僑粛清―日本軍はシンガポールで何をしたのか

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日本軍政下のアジア―「大東亜共栄圏」と軍票 (岩波新書)

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