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戦時中のプロパガンダ写真を根拠に日本軍を擁護するビジウヨのあきれた手口

民衆が日本軍を歓迎している写真があるから南京大虐殺は嘘?

時々TLにツイートが流れてくる某ウヨさん、日中戦争当時の新聞やグラフ雑誌に載った写真をツイートに貼って、このように日本軍は中国の人々に親切だった、歓迎されていた、だから南京大虐殺は嘘、などと繰り返している。

開いた口がふさがらないほどのアホな主張だが、ネタ元は何かというと、水間政憲というビジウヨだった。

水間は、例えば南京戦当時の国内グラフ雑誌の写真を引用して、こんなことを書いている。[1]

 106頁上の写真は、南京城陥落から1週間目の写真です。中国や反日日本人が「宗教」のように信じている「南京大虐殺」が、仮に事実であれば日々数千人が虐殺されていたクライマックスの報道写真がこれなのです。

 南京城内の広さは約40平方キロ、東京都世田谷区(約59平方キロ)の約4分3のスペースで、山手線の内側とだいだい同じ広さです。

 そして安全区は、南京城内の約10分の1(約3・8平方キロ)です。

 仮に南京城内で30万人が虐殺されていたとなると、南京の民衆は避難民地区(安全区)にいましたので、この写真が撮されている最中に「ギャー・ヒィー」とか、阿鼻叫喚の悲鳴が聴こえていた状況なのです。

南京城内だけで30万人虐殺されたとか、南京市民がみな安全区内にいたとか言っている研究者はいないので、まずこの点からしてデタラメなのだが、それはともかく、この手のプロパガンダ写真やニュース映画がどのようにして撮影されていたか、当時野蛮な日本軍から民衆を保護するために奔走していた南京安全区国際委員会のジェームズ・マッカラム牧師が次のように書き残している。[2]

(1938年)一月九日

 難民キャンプの入口に新聞記者が数名やって来て、ケーキ、りんごを配り、わずかな硬貨を難民に手渡して、この場面を映画撮影していた。こうしている間にも、かなりの数の兵士が裏の塀をよじ登り、構内に侵入して一〇名ほどの婦人を強姦したが、こちらの写真は一枚も撮らなかった。

まさに阿鼻叫喚のかたわらで、日本国内向けに「平和立ち返る南京」みたいな演出がなされていたのだ。

また水間は、別の本ではこんなことも書いている。[3]

難民救済に奔走していた日本軍

 上海や漢口など都市部では、日本軍の勢力下になったことを聞きつけた難民が続々押し寄せ、日本軍は国連の難民救済業務のように忙殺されていたのです。

 これが実態だったにもかかわらず、中国戦線に従軍していただけで戦後「白い目」で見られていた軍人たちの無念は、想像するに余りあります。

自軍の兵隊に食わせる食糧も満足に補給できなかった日本軍が難民のために食糧支援とは、バカバカしいにも程がある。この写真で配って見せている米を、いったいどこから持ってきたというのか。

例えば、食糧に関して南京で日本軍が何をしていたか、当時第16師団歩兵第30旅団長だった佐々木到一少将が手記にこう書いている。[4]

    ◇(1937年)十二月十五日

 我第十六師団の入城式を挙行す、師団が将来城内の警備に当るのだとゆふものがある。終って冷酒乾盃。

 各師団其他種々雑多の各部隊が既に入城してゐて、街頭は先にも云つた如く兵隊で溢れ、特務兵なんかに如何いかがはしき服装の者が多い、戦闘後軍紀風紀の頽廃を防ぐため指揮官がしっかりしないと憂うべき事故が頻発する。

 城内に於て百万俵以上の南京米を押収する、この米の有る間は後方から精米は補給しないとゆふ、聊いささか癪だが仕方が無い、因ちなみに南京米はぽろぽろで飯盒の中から箸では掬へない。

だいたい、南京や漢口などを含む華中地域は、駐留日本軍の「現地自活」用食糧の主要な供給地であり、支援どころか、本来なら中国の人々の口に入るはずだった大量の米が日本軍に奪われていたのだ。[5]

 これより少し前の1940年度における中支全軍の所要米は年間約10万トン(1トン=約7石)であり(8),日本の粳米と同様の品質をもつ米を生産する蘇州を中心とする「三角地帯」から「現地自活」用に調達された。その他に,南京上流の「蕪湖米」が軍需用として約7万トン調達され,①軍の補給米,②「三角地帯」産出米10万トンの代替米,③軍票交換用米,④補給廠及び停泊場等の常備苦力の飯米,⑤その他宣撫治安維持用米,として使用された。

戦闘が終わり日本軍の占領支配が確立してからは南京戦当時のような強奪ではなく買上げという形をとってはいたが、代金として支払われたのは日本軍が何の裏付けもなく乱発する軍票(1943年4月以降は汪兆銘傀儡政権の発行する中央儲備銀行券)であり、その価値はわずかな間に際限なく下落していった。結果は経済破綻と飢餓である。[6][7]

(略)日本は占領地域において、価値維持のてだてが不十分なまま軍票を主要通貨として強制流通させただけでなく、戦局が悪化するとそのてだてすら放棄して、紙切れ同然の軍票を濫発した。その結果、中国本土、東南アジア諸国の経済をインフレのるつぼに陥れたのである。人びとは財産を失い、はなはだしくは餓死するところまで追いこまれた。さきの天文学的発行額をみるとき、軍票がアジアの民衆にあたえた被害がどれほどすさまじいものだったかを想像できるだろう。

(略)また、復旦大学のある教授は、儲備券インフレのひどさをつぎのように語ってくれた。

国際飯店で二、三人で食事をするのに、二〇センチほどの札束を二つ三つもっていく必要があった。お金を数えていては食事をする暇がないので、銀行の帯を信用してもらって支払った。敗戦まぎわになると儲備券はまったく信用されず、使用が禁止されているはずの法幣〔中国国民政府発行の紙幣〕がブラック・マーケットで流通していて、大きな取引には金の延棒が必要だった。四五年五月には、家を借りるにも金の延棒が必要になっていた。

プロパガンダ写真が証拠になるならナチスも占領地住民に歓迎されていたしホロコーストなどなかったことになる

戦時中のプロパガンダ写真を根拠に日本軍を擁護するこの主張がどれだけ馬鹿げているかは、次のような例と比べてみれば分かりやすいだろう。

例えばこれは、チェコスロバキア占領後、現地の子どもに温かい食事を与えるドイツ軍。ナチスさん親切ですねぇw

画像出典:alamy

こちらはドイツ占領下のフランスで、ドイツ軍の「移動スープキッチン」から食事の提供を受ける住民たち。喜ばれたでしょうねw

画像出典:alamy

こちらは逆に、ポーランドの占領後、ほほ笑む現地の女性から食事を提供されているドイツ軍兵士たち。歓迎されてたんですねぇw

画像出典:alamy

こちらはダッハウ強制収容所で、行列して食事の提供を受けている被拘禁者たち。収容所は人道的に運営されていたわけで、ホロコーストなんて嘘ですねw

画像出典:alamy

ネオナチが、こうした大戦中のプロパガンダ写真を根拠に、ドイツ軍は占領地域の住民に優しくしていて歓迎されていた、などと主張したら世界からどう見られるか。水間らがやっているのはこれと同レベルの恥知らずな行為でしかない。

関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定する加藤康夫・工藤美代子と同様の手口

南京大虐殺否定論というのは、だいたい東京裁判での弁護側主張の中に原型があるのだが、こんな主張はさすがに含まれていない。当時の日本人は、大本営発表を始めとする戦時中の報道がいかにデタラメだったか、骨身にしみて思い知らされていたからだ。

水間のようなトンデモ主張は、戦争を体験した日本人がほぼいなくなり、また近現代史をまともに教えない文科省教育の成果で無知な日本人が大量生産された結果、初めて可能になったと言えるだろう。

こうした水間の主張と発想がよく似ているのが、震災発生当初の新聞に氾濫した誤報記事(避難民の間に流布した噂をそのまま記事にしたもの)を根拠に、関東大震災時には朝鮮人による暴動が実際に発生し、自警団は自衛のためにこれと戦ったのであって虐殺ではない、などと主張する加藤康夫・工藤美代子夫妻の朝鮮人虐殺否定論だ。こちらも、日本人の無知につけ込んだ悪質な歴史修正である。

まともな近現代史教育の欠如がどんどん日本人を愚かにしていく。やがてこの国はまた同じ過ちを犯すことになるのだろう。

[1] 水間政憲 『完結「南京事件」』 ビジネス社 2017年 P.105-106
[2] 南京事件調査研究会 『南京事件資料集 ①アメリカ関係資料編』 青木書店 1992年 P.266
[3] 水間政憲 『ひと目でわかる「日中戦争」時代の武士道精神』 PHP研究所 2013年 P.40
[4] 南京戦史編集委員会 『南京戦史資料集』 偕行社 1989年 P.380
[5] 平井廣一 『日中戦争以降の中国占領地における食糧需給』 北星学園大学経済学部論集 2011年9月
[6] 小林英夫 『日本軍政下のアジア』 岩波新書 1993年 P.4-5
[7] 同 P.13-14