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「特亜」以外のアジアは「親日」だという妄想

その言葉を使っているだけで当人がネトウヨだと判明してしまう、リトマス試験紙のような用語がいくつかある。「特亜」(「特ア」「特定アジア」とも)もその一つだろう。

「特亜」とは中国(台湾を除く)・韓国・朝鮮の三国のことで、この三国だけが「徹底的な反日教育」のせいで日本にいわれのない悪感情を持っているという前提で侮蔑的に使われる呼称だ。逆に言うと、この三国以外のアジア諸国は「親日」だというのがネトウヨの認識らしい。

戦後の日本はフィリピンに尊敬されていた!?

こういう無知の結果、よりによって戦後の日本はフィリピンに尊敬されていたなどと言い出す者まで出てくる。

これは、1954年の日本選手団フィリピン遠征の際、彼らが現地の人々から罵倒された様子を放映した大河ドラマ『いだてん』への反応として出てきたツイートだが、もちろん正しいのはこの人ではなくNHKの方だ。

フィリピンにおける日本軍の蛮行

開戦当時、フィリピンは米国の植民地だったが、米国は1946年1944年には独立を与えると約束しており、1935年時点で既に自治政府が成立していた。そこに日本軍が攻め込んだわけだが、米軍を追い出した後に日本が始めたのはその米国よりはるかに過酷な支配と収奪だった。そして、反発したフィリピン人民がゲリラ組織を作って抵抗を始めると、日本軍はゲリラに通じていると見なした村の住民を皆殺しにするような凄まじい虐殺でこれに応じた。

たとえばこれはパナイ島での一例[1]。(注:バランガイは日本の村などに相当する基礎自治体で、バランガイ・キャプテンは村長。)

1 手作りの記念碑

 レオンは、イロイロから南南西に三十キロほどの低い山々に囲まれた田舎町である。片側だけに十数軒の商店が続き、その裏は午前中だけ開かれる野菜や魚や肉などを売る市場になっていた。

 日本軍の虐殺があったのは、バランガイ・ハーモックで、町から四キロほど山に入らなければならない。ジプニーは走っていないので、トライシカーが唯一の交通機関である。

(略)

「俺の家では、父も母も日本軍に殺されたんです」

 年配の男が、黙っていられないという口調で言い出した。この人が、七十歳になるナサレオさんであった。

両親の他に祖母と六人の妹や弟たち、全部で九人も殺されてしまった。残ったのは、わしだけだよ。
 わしが二十三歳だったから、一九四三年だったと思う。四月十日の午前二時頃だったが、突然日本軍がやって来た。(略)こっそり外に見に行ったら、日本軍スパイのフィリピン人が『出てこい。逃げると殺すぞ』と言って、みんなを集めていた。これは大変だと思い、逃げ出したところ、日本兵にあやうくつかまりそうになった。しばらくたって、家にこっそり帰ると、もう誰もいなかった。みんなつかまったらしく、水牛しか残っていなかった」

 彼の声が急に小さくなったので思わず見ると、目がうるみ赤らんでいた。

「それから山に逃げた。次の日、山に隠れてバランガイのほうを見ていると、悲鳴が聞こえてきた。午後になって家が燃え出した。日本軍は虐殺した後で、火をつけたんだ。三十軒ほど家があったけど、みんな焼かれてしまった。日本軍がいなくなってからバランガイに戻って来ると、一人の男が立っていた。男は死体の前で泣いていた。行ってみると人間の死体は炭みたいになって、歯だけが白くって……」

 彼は涙声になり、唇をかすかに震わせていた。

あんた、家族を一度にみんな失ったことがありますか?……希望なんかなんにもない。一人になるって異常な気持ちになるものですよ。こんな思いをしたフィリピン人が、わしばかりでなくいっぱいいたってことを、日本人に知ってほしい。戦争中にこの国で何が起こったのか、日本人は何も知らないそうだからね

(略)

 住民が虐殺された小さな広場に立ってみた。すぐ脇に、手づくりの教会が建っていた。

「あちらに、八十六名を埋めた場所があるから行って見ませんか?」

  バランガイ・キャプテンが誘ってくれた。

 彼女についてヤシ林の細道を行くと、六畳ほどの広さのコンクリートのたたきがあり、その奥に高さ三十センチほどのいかにも素人が作ったに違いない素朴な十字架が立っていた。

「殺されたうえに焼かれたもので、誰が誰だかわからないので、大きな穴を掘ってここに埋めたんですよ。毎年、四月十日の虐殺の日には、ここで犠牲者の霊をなぐさめるミサをやっています」

こちらはバタンガス州での虐殺例[2]。日本軍が虐殺するときは、パス(通行証)をやるからと騙して住民を集めて縛り上げ、谷川など死体処理のしやすい場所に連行して銃剣で突き殺すのが一つのパターンになっていた。

 ガルシアさんは目で息子を押さえてから、私に顔を向けた。

「あの頃、俺は十九歳で、子どもが一人いた。
 前の夜、日本軍がパスをくれるから集まるように言われた。だから、みんなと一緒にカルメルの神学校に並んで行くと、百二十五番という札を貰ったよ。パスはカトリックの大聖堂でくれるというから、二十人位が日本兵に連れられて出かけた。途中で突然に『空襲だ。退避しろ』って怒鳴られたんで、急いで空き家に逃げ込んだ。そこで隠れていた兵隊に縛られて、つながれた。せまい洞窟を出ると小さい谷川だった。すぐ竹やぶを上ってココナツ林に連れ込まれた。(略)

 彼は日焼けしたこげ茶色の顔を、かすかにしかめた。

「俺は、三人一緒に銃剣で突かれるのに気がついたが、あとは夢中で目をつむっていたよ。あっという間に、深い谷川に投げ込まれた。川に投げ込まれても生きているのがわかると、また日本兵が突き殺していたよ。
 俺はこことここで、五カ所もやられた」

 彼は半袖シャツをめくって傷跡を見せてくれた。一カ所は胸の左下から突かれて背中に突き抜けていた。右胸下も前から刺されて後ろに突き抜けていた。

「ひどい傷だったけど、なんとか生きたい、死んでたまるかと思い、投げ込まれてくる死体をかきわけて、少しずつ上に登って行った。(略)
 たぶん、十時頃にやられて、十二時頃だった。ちょうど、日本兵が昼食の時間になった。俺はそのすきに、そろりそろり痛みをがまんして逃げだした。(略)ゆっくり少しずつ歩いたけど出血がひどかったので、誰もいない小さな家を見つけて水を飲んで休んだ。もう歩く気力もないので、そこに寝てしまったよ。家にやっと戻ったのは次の日だった。
 うちでは、父と叔父と俺が虐殺に遭い、このバランガイで叔父と俺だけが生き残った。叔父はその日のうちに戻って、パミンタハンのことを女どもに知らせたから、みんな泣きながらも急いで疎開を始めた」

そして、フィリピン戦も末期となると、日本軍はゲリラとの関係を疑った村ばかりか、自軍に協力的だった村の人々まで虐殺し始めた。まさに狂気の沙汰だ。[3]

「だいたいこのバランガイは日本軍に協力的だった。マカピリ(注:日本軍への協力者)がたくさん住んでいたわけではないけど、日本軍のいう通りにしてきた。それなのに皆殺しをはかった。理由は二つほど考えられる。一つは、マカピリが二派に別れて争っていたから、日本軍は困ってしまいマカピリを含めて殺したのではないか。二つ目は、日本軍の秘密を知り過ぎてしまったこともあったと思う。最後の抵抗のために山に掘ったトンネルのことなどは、みんなが知っていた。そんなことで、バランガイの全滅をはかったんだろうけど、女や子どもまで殺す理由があるかね?……あんたはどう思う?……。妻の姉妹はひどかったよ。十四人いた姉妹のうち、妻だけが残って三歳から十六歳までの十三人、全員殺されたんだ。あまりにも残酷じゃないかい? そして、このバランガイの千七百人のうち千六百人以上も虐殺されてしまった

憎まれ、石を投げられた日本兵たち

当然ながら、敗戦・投降の段階では日本兵に対する現地住民の怒りが爆発した。それでも日本兵の大多数がリンチにかけられずに済んだのは、米軍が捕虜となった日本兵を住民から保護してくれたおかげだ。

以下は、大阪毎日新聞や東京日日新聞に勤めたジャーナリストで、敗戦時フィリピンで日本軍部隊とともに米軍に投降した石川欣一氏の手記。

 昭和二十年九月六日、北部ルソン、カピサヤンにて新聞報道関係者二十三名の先頭に立って米軍に投降。(略)九時頃、自動車の爆音が聞え、大型のトラックが何台か現れた。それと前後して乗用車も着き、数名の米軍将校が日本の連絡将校と一緒にやって来た。M君の姿も見られた。間もなく、作業服の米兵が、チューイング・ガムを噛みながら、呑気な顔をして我々の前を歩いて過ぎ、引続いて武器の没収が終ると、トラックに四十人ずつだか乗れという命令が出た。(略)

 ある場所でトラック隊が停止した。前のトラックから米兵が連絡に来て「このさきの集落で昨日、比島人がトラックに石を投げ、日本のプリゾナーが数人怪我をした。同じことが再び起ってはならぬと指揮官はいっている。注意しろよ」と運転手と警乗兵に話した。こいつはひどいことだと僕は頸を縮めた。果してそこから百メートルばかり先の、家が五、六軒固まった所へさしかかると「バカヤロー、ドロボー」と待ってました!とばかりの声が飛んで来た。英語の出来るらしいのは「ジャパン・ノー・モール」といい、のぞき上げた二階では、醜い女が醜い顔を引きつらせて、右手で自分の首を斬る真似をしながら「何とかしてパタイ」と叫んでいる。お前等は首を斬られて死ぬんだといってるんだろう。バラバラと石や土塊が投げられ、警乗兵は銃を構えた。

 この時ばかりでなく、米国兵は実によく我々を守ってくれた。米国兵だけではない、比島兵も――比島兵が警乗したことは、僕はたった一度、ゴンサカという所へ行った時しか経験していないが――忠実に職務を遂行した。

1970年代、にせユダヤ人「イザヤ・ベンダサン」として南京大虐殺否定論などを展開した歴史修正主義者山本七平でさえ、自身の体験した現地住民の憎悪については正直に書いている。

日本による侵略のせいで、フィリピンでは当時の人口1,800万人のうち100万人以上が死亡している。さらに、日本軍による攻略時と連合軍による奪還時の二度にわたる戦いでほぼ全土が戦場となったフィリピンは経済面でも壊滅的打撃を受けた。こんな経験をさせられたフィリピンの人々が、戦争が終わったからといって簡単に「親日」になどなるはずがないではないか。

何も知らないのは日本人だけ

フィリピン以外の東南アジア諸国でも状況は大同小異だ。

シンガポールのダウンタウン・コアには、「血債の塔」とも呼ばれる、「日本占領時期死難人民記念碑」が立っている。ここはラッフルズ・ホテルにもほど近い繁華街の真ん中であり、シンガポールを訪れた日本人のほとんどがこの塔の姿を目にしているはずだ。しかし、その碑文に「深く永遠の悲しみをもって、日本軍がシンガポールを占領していた1942年2月15日より1945年8月18日までの間に殺されたわが市民の追悼のために、この記念碑は捧げられる」と刻まれていることを知っている日本人がどれだけいるだろうか。

War Memorial Park 2, Singapore, Aug 06

By User:Sengkang (Own work) [Copyrighted free use], via Wikimedia Commons

陸軍将校として日中戦争を経験した歴史学者の故藤原彰氏は、この「血債の塔」についてこう書き記している。[5]

 一昨年、東南アジアを視察する小旅行の機会にめぐまれた。忘れがたいのはシンガポールの中心ラッフルズ広場にそびえたつオベリスク「血債の塔」である。日本人観光客をのせたバスガイドの華僑は、その広場で解散するまで、塔の存在にひとことのコメントもせず、ただショッピングの注意だけをくり返した。バスの中にひとり残った筆者の「中国人虐殺の記念碑はどこにあるのか」との質問に対して、ガイドは沈黙したまま目の前のオベリスクを指さした。外貨を得たいシンガポール人は、日本人に対してみずから「大虐殺」を語ろうとはしない。しかし彼らの沈黙は忘却ではない。マグマとなって沈潜しているのだ。「血債の塔」は永遠に残り、殉難華僑を追悼する記念式は毎年行なわれる。同地の学校教科書は日本軍の蛮行をくわしく書き記している。

 国際化の時代の日本人はいや応なく地球の各地で活動し、生活していかなければならない。「日本近現代史授業の改善」や『大東亜戦争の総括』はそのような日本人にとっておそらくとんでもない災厄となってはねかえるであろう。教育はそのような事態を見すえて「未来の日本人」に責任を負わなければなるまい。

『いだてん』のセリフの中に、「彼らにとって 戦争はまだ終わってなかったんだ」という一節があったが、戦争が終わり復員してきた皇軍兵士たちは、自らの蛮行については家族にも語らず、日常生活に埋没する中で、やがて思い出すこともなくなっていった。しかし、やられた側は決して忘れることはない。

戦後日本は、自らの戦争責任について反省せず、従ってまともな謝罪も賠償もせず、教育もしてこなかった。結果、戦後世代は自国の近現代史をろくに知らないまま育ち、その基本的知識がないために簡単に歴史修正主義者の妄説に騙されている。

国境の内側に引きこもっている限りはそれでも不都合はないのかもしれない。しかし、一歩外に出れば話は別だ。

沖縄を例外として住民を巻き込んだ地上戦を経験することなく降伏した日本は、戦後はアメリカの庇護のもと急速な成長を遂げ、アジア随一の経済大国となった。一方、大戦中は日本軍に国土を蹂躙され、戦後も内戦や独立戦争を戦わねばならなかったアジア諸国は疲弊し、経済力では日本とは比較にならない状態が続いてきた。

経済力で圧倒できている間は、海外在住の日本人が歴史認識問題で「不快な」思いをすることもほとんどなかっただろう。だが、自民党政権の失政で30年以上も衰退の続く日本と成長するアジア諸国との差は縮まり続けており、もうすぐ逆転されるのは間違いない。

これからは、日本の若者が職を求めて海外に出ていかなければならない時代になる。そのとき、ウヨサイトからコピペしたような妄説をドヤ顔で開陳したらどうなるか。

何度も言っていることだが、ツケは必ず回ってくるのだ。

[1] 石田甚太郎 『ワラン・ヒヤ 日本軍によるフィリピン住民虐殺の記録』 現代書館 1990年 P.34-38
[2] 同 P246-247
[3] 同 P.284
[4] 石川欣一 『比島投降記 ある新聞記者の見た敗戦』 中公文庫 1995年
[5] 藤原彰他 『近現代史の真実は何か』 大月書店 1996年 P.198

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