2015年8月13日に放送された、NHKスペシャル『女たちの太平洋戦争 ~従軍看護婦 激戦地の記録~』。戦時中、ビルマとフィリピンの戦場に派遣された従軍看護婦たちの過酷な体験を、日赤本社に残されていた大量の記録文書と、元従軍看護婦たちの証言を通してたどった番組だ。
終戦までに召集された看護婦はおよそ3万人。その多くが国のためになりたいと自ら望んで従軍看護婦となった。幼い子どもを残して戦地に向かった女性も少なくない。しかし派遣先では、急速に悪化する戦況の中、傷病兵に十分な治療をすることは困難だった。もともと日本軍の補給体制に不備があった上に輸送路を遮断され、医薬品が欠乏。伝染病患者も負傷者も、ただ励まし見守ることしか出来ない日々が続いた。日本軍の劣勢がさらに深刻になると、完治していない者まで前線に戻され、動けない患者は置き去りにすることが命じられるようになる。そして終戦間際、連合軍に追いつめられる中で、看護婦たちを次々に惨劇が襲う。ゲリラの襲撃、飢えや病で次々と倒れる仲間たち。
戦場でおびただしい死に向き合い続けた女性たち。彼女たちの目を通した太平洋戦争の実像を描く。
番組の主題はもちろん、彼女らが想像もしていなかった悲惨な戦場の現実なのだが、その中に出てきた一つのエピソードが、私にはひどくひっかかった。
大戦末期、1945年4月のビルマ。連合軍の進撃で、安全な後方だったはずの兵站病院も撤退せざるを得なくなり、食糧もない中、敵との遭遇に怯えながらの逃避行が始まった。問題の部分を書き起こしてみる。
4月27日、ビルマ各地の兵站病院に撤退命令が下ります。敵の目を逃れての逃避行。食糧も尽き、ついには現地住民の食糧を徴発した救護班もありました。
ラングーンの北方の町、パウンデー。ここにあった兵站病院も、タイとの国境に向け、撤退を開始します。
人々が渡ったシッタン川。当時橋はなく、折からの大雨で増水した川に、多くの人々が飲み込まれました。
イギリス軍との戦闘に巻き込まれ、命を落とす人も続出します。その中を生き延びたのは、インパール作戦のために派遣された戦時救護班第490班の看護婦たち。20日間の行軍の末、軍医や衛生兵とともに、このチンドウェ村(現チャウチーパウ村)に辿り着きました。
住民:「日本兵がこっちに逃げてきて、死んだ人もいた」「日本兵4人をこの辺りで見た。後で日本人女性が一人来て、病人の手当などをしていた。」
そして、事件が起こります。
岩本あや子さん(92歳):「えらい銃砲が近くで聞こえて、『どうしたの、何の音?敵が入って来たの?』って言ったらね、あれはあの、『道案内に連れて来たビルマ人を殺したんや』言うて。生きて帰さないのよね、『私たちの行動を知らされるから』言うて。」
前回の記事で、対日協力者たちも住んでいるフィリピンの村を丸ごと集団虐殺してしまった事例を取り上げたが、このように、日本軍は実に簡単に現地住民を殺した。
こうしたエピソードは、「八紘一宇」「大東亜共栄圏」といった言葉がいかに空疎なスローガンだったかを示している。たとえ協力的な住民であっても用が済んだら「危険防止のため」殺してしまう。こうした非道な行為ができたのは、相手を自分たちと同格の人間ではなく自分たちに奉仕させるための道具程度に見ていたからだろうし、また、自分たちが現地住民の生活をいかに踏みつけにしているか、どこかで自覚していたからでもあるだろう。