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戦後教育は特高官僚に破壊された

 

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際限なく反知性主義と排外主義に傾いていくこの国の惨状は、大多数の人々が近現代史についてほとんど何も知らないことに起因している。そしてその原因は、いびつな学校教育にある。

なぜそんなことになってしまったのか。雁屋哲氏が重要な指摘をしているので、氏の『戦争の記憶』から続けて引用する。

 

雁屋哲 『戦争の記憶』(日本の戦争責任資料センター 『Let’s』 2013年3月号)

空白の現代史教育

 

 日本人の思考がこのようなどつぼにはまり込んでいるのは、戦後の歴史教育のせいである。

 戦後の日本人は、現代史、中でも戦前に日本人が、韓国・中国・他のアジア各国でどんなことをしてきたか教えられて来なかった。

 私自身の経験から言うと、私は一九六二年に高校を卒業したが、小学校・中学校・高校までの学校の授業で現代史を教えられた記憶がない。日本史の時間となると、平安時代に異様に長い時間を費やし、江戸時代も最初の部分を過ぎると、駆け足で進み、三学期になってようやく明治維新に入る。明治維新についてもその意義など教わらず、ただ明治の元勲と言われる人の名前を教わるだけである。

 そして、明治維新が終わると、三学期も終わりになり、昭和の時代以降は「自分で勉強しておきなさい」と言うことになる。

 これは、私だけでなく、色々な学校を卒業した人間に尋ねたが、私より一○年近く若い人達も同じことだった。

 これでは、よほど意識の高い生徒でなければ、昭和の日本がアジア各国に侵略した事実など思い浮かべられる訳がない。

 日本が韓国や中国に明治以降どんなことをしてきたかきちんと知っている人は、意識を高く持っていてきちんと日本の現代の対アジア史を知ろうと努めている人だけである。

 

特高官僚による教育行政

 

 どうしてこんなことになったか、それは戦後の文部省の政策による物である。

 戦後に出来た文部省がどんな人間達によって作られたのか知ることは意味がある。(以下は、柳河瀬精著「戦後の反動潮流の源泉 特高官僚」によるところが多い。)

 一九五三年有名な「バカヤロー解散」の後、五月に第五次吉田内閣が成立する。

 その文部大臣に任命されたのが、大達茂雄である。

 大達茂雄は一九一六年東大卒業、内務省入省。以後高級官僚特有の移動を重ねている。

 この中で、重要なのは、一九四三年*1昭南市特別市長の役職である。 昭南市とは、シンガポールのことで、日本はシンガポールを占領した後、大東亜共栄圏に入れて名前も昭南市と変えたのである。

 日本軍は、シンガポールとマレーシアで、当地の中国人・華僑を対象にして大虐殺を行った。

 これは、華僑大虐殺、として知られている。

 私は、シドニーで仲良くなった中国系・マレーシア人(国籍はマレーシアだが、人種的には中国人)にその話を聞いて、にわかには信じられず、その友人の言ったことを確かめるために、自分自身でシンガポール・マレーシアを訪ねて、生き残りの中国人達に会い、その人達の話を聞いて、「日本人の誇り」という本にまとめた。

 戦後シンガポールを今の繁栄に導いたリー・クァンユー(李光耀)氏も、危うく日本軍による虐殺から逃れた人である。

 このときの日本軍の中国人に対する虐殺は凄まじい物で、中国人とあれば、中国共産党の手先と認めて殺したのである。

 婦女暴行も凄まじかった。私のその中国系・マレーシア人の話では、マレーシア・シンガポールの中国人の全ての家庭で自分たちの家族親戚の誰かが日本軍の犠牲になっているという。

 大達茂雄はその日本軍が残虐な支配をしていた当時のシンガポール昭南市の特別市長である。

 その大虐殺の責任は免れない。

 戦後A級戦犯にも指定された。

 

 一九五三年に中央教育審議会(中教審)が設置された。

 文部大臣に任命された大達は岩国市教育委員会が、山口県教組が編集した「小学生日記」「中学生日記」が偏向しているとして回収したことを発端として、「教育の中立性維持について」という次官通達を出し、記者会見で「教員に政治活動を許しているために教育の中立性が脅かされると判断されるなら、何らかの措置を取る。教育の中立を脅かす物として山口日記問題があるが、これは明らかに組織的・計画的なものだ」といった。

 私は、その「小学生日記」「中学生日記」の中身を知らないので、内容については何とも言えないが、市の教育委員会が、県の教祖が編集した物を回収し、さらに時の文部大臣がその教組を「組織的・計画的に教育の中立を脅かす政治活動をしている」と非難するとは、シンガポールの華僑虐殺に責任のある人間の側面を彷彿とさせる。

 その大達は、文部省の事務次官に田中義男を指名した。

 この、田中義男は一九二五年東大卒、内務省に採用後、三一年群馬県特高課長、三五年文部省思想局思想課長、四三満州国文教部次長、と言う経歴を持つ。典型的な特高官僚である。

 この大達茂雄と田中義男が、文部大臣、文部省次官として、戦後の文部省の基礎を築いた。

 さらに、初等中等教育長として、緒方信一が任命された。

 緒方信一は一九二九年東大卒、三○年内務省採用、三四年山形県警察本部、三五年青森県特高課長、三六年三重県特高課長、四一年特高部外字課長。 これも、典型的な特高官僚である。

 緒方信一は各都道府県教育長に当てて「教育の中立性が保持されていない事例の調査」を初中局長名で極秘裏に通達をだした。

 緒方は、東大同期の、国家警察本部次長の谷口寛と連絡を取って、各地の教員の思想行動調査が行われた。

 こう言うことをされたら、教員は上に目を付けられるのを恐れて自由な教育が出来なくなる。

 さらに、一九五四年衆議院の委員会で、大達茂雄文部大臣が次のように言った。

 「戦争が開始された上は、民族を滅亡から救う為に負けまいとするのは当然だし、今でもこれについて何らやましい物は感じていない。戦争裁判は野蛮人のすることだと思う。食人種の部族のケンカで勝った方が首祭りをするようなものだ」と言った。

 日本の官僚に特徴的だが、先輩のしたことを否定しない、前例を守る、先輩のしたことを覆すようなことをしたら、また前例にないようなことをしたら、その官僚は様々な冷酷な手段によって、官僚の世界から追出される。

 よく、正義漢の官僚などという言葉を聞くが、それは、日本の官僚世界ではあり得ない。

 私は、東大卒の有力官庁の官僚とこれまでに何人か会ったが、後味はすこぶる悪いものだった。

 彼らは絶対に自分の本音を語らない。

 この世で今起きている目の前のことに対して、自分自身の判断を下す言葉を絶対に発しない。

 彼の所属する官庁が後に公式見解として、一つの意見を出すまで、自分の意見は言わない。公式見解が出ると、自分の意見はその範囲です、という。

 こう言う連中が、文部官僚として、大達、田中、緒方の意図に沿った文部行政を続けているのである。

 例えば、日の丸君が代問題を見ても、文科省はそれぞれの地域の教育委員の問題にしているが、その各地方の教員委員は全員文科省の顔色をうかがっている。

 

 日本の教育状況がここまでひどいのは、一九五三年に内務省のごりごりの警察官僚、大達茂雄文部大臣にし、特高官僚である田中義男を文部次官、同じ特高官僚緒方信一を初等中等教育局長に据えて始めた文部行政が今まで続いているからである。

 日本の教育は、その根幹が、最初から特高警察に支配されていたのである。

 ついでに言うと、あの「蟹工船」を書いた小説家、小林多喜二特高警察によって虐殺されたが、その際に警視庁特高課員として虐殺にかかわった、中川成夫という人物は、警視庁巡査から、巡査部長、警部補、警部、警視と特高の中で出世を重ね、高輪署長、築地署長板橋署長のあと板橋区長、滝野川区長となり、六四年に東京都北区教育委員となり、さらに二期目に教育委員長となっている。

 関東大震災のどさくさに、大杉栄と、その妻と、幼い息子*2を殺した甘粕正彦満州の夜の帝王として君臨し、シンガポール、マレーシアの華僑大虐殺の責任者である、大達茂雄が日本の戦後の文部省の基礎を作った。

 

 今でも日本で教育改革を幾ら唱えても駄目なのは、この東大閥の特高文部官僚が力を握っているからだ。

 私たちが、戦争についての教育をきちんと受けられなかった訳だ。

 大達、田中、緒方らとその後輩達が、そんな教育を生徒達にさせないように取り締まっていたからだ。

 私たちは、とっくになくなっていたと思っていた「特高」に実は今に至るまで縛り付けられているのだ。

 日本の文部行政は、特高官僚行政だ、と言うことをしっかり認識して頂きたい。


*1: 一九四二年の間違い

*2: 息子ではなく甥

 

ちなみに、この大達茂雄という男は、小磯内閣の内務大臣として、サイパン戦から沖縄戦にかけての、民間人をも自死に追い込んでいった過酷な戦争政策を推進した責任者の一人でもある。にもかかわらず、戦後になって責任を追求されると、自分は戦争には反対だったなどと、いけしゃあしゃあと言い逃れをしている。

また田中義男は、戦後、公選制により民主的に運営されていた教育委員会を、強引に上からの任命制に変えた張本人でもある。

こうした卑劣な腐った男どもによって、戦後の教育は破壊されてきたのだ。


告発戦後の特高官僚―反動潮流の源泉

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