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朝鮮人虐殺否定本に見る恣意的引用の手口

加藤康男著『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(ワック 2014年)(以後、「なかった」と略す)は、新聞記事の他にも震災当時の様々な資料を用いて、朝鮮人による暴動があったかのように読者に印象付けようとしている。そのうちの一つ、英国のナショナル・アーカイブズで最近発見されたと称するアメリカ人旅行者の記録については、朝鮮人暴動の存在を裏付けるものではまったくなく、むしろ逆に日本人による朝鮮人狩りの嵐が吹き荒れていたことを示す内容であることを、こちらの記事で説明しておいた。

今回は、「なかった」で取り上げられているもう一つの資料である『横浜地方裁判所震災略記』について見てみることにする。

 

『横浜地方裁判所震災略記』は、1935年に、同裁判所所長の長岡熊雄氏(震災当時は予審判事)が中心となって、同裁判所の被災と復興の状況、当時遭難した裁判所職員や遺家族の手記をまとめて編纂した冊子である。この本は非売品で、震災殉難者の十三回忌を期して建設された記念碑の除幕式の際に関係者に記念品として配られた。

「なかった」におけるこの本からの引用を原文(国会図書館の近代デジタルライブラリーで読める)と比べてみると、「なかった」のやり方はまさに恣意的引用による印象操作の典型と言うべきものであることがわかる。

 

まずは、「なかった」における同書からの引用部分とその前後を示す。

 横浜では発火と同時に海岸通には時ならぬ大旋風が巻き起こり、人は立っていられないほとであった。崩壊したホテルや裁判所、入管管理事務所等から辛うじて避難できた者は八方から広がる火の手を避けて丘へ、線路へ、公園へと逃げた。だが、それでも退路を断たれた人を救ったのは、折から横浜港に停泊していた各国の船舶だった。

 桟橋に停泊していた船は一旦、火炎から逃れて沖合いに碇を降ろした。その後、各船舶は応急の救助ボートを岸壁に向かわせ、多くの罹災者の救助に当たった。アンドレールボン号、エンプレス・オブ・オーストラリア号、パリー丸ほか日本郵船の丹後丸、三島丸、リマ丸、岩手丸、東洋郵船ではコレヤ丸、大阪商船のろんどん丸などである。

 次は、横浜港からパリー丸に救助された判事の遭難記録と品川の住人の目撃談である。

 

 「(二日朝)岡検事、内田検事は東京から通勤して居たので東京も不安だとの話を聞いてから自宅を心配し初めた。私も早く東京との連絡を執らうと欲って居たので若し出来ることなら両検事と一緒に上京し司法省及東京控訴院に報告しやうと思ひ、事務長に向ひランチの便あらば税関附近に上陸し裁判所の焼跡を見て司法省に報告したい、と話したが事務長は『陸上は危険ですから御上陸なさることは出来ない』といふ。何故危険かと問へぱ『鮮人の暴動です。昨夜来鮮人が暴動を起し市内各所に出没して強盗、強姦、殺人等をやって居る。殊に裁判所附近は最も危険で鮮人は小路に隠れてピストルを以て通行人を狙撃して居るとのことである。若し御疑あるならば現場を実見した巡査を御紹介しませう』といふ」(「横浜地方裁判所震災略記」パリー丸船内、部長判事長岡熊雄)

 

 「品川は三日に横浜方面から三百人位の朝鮮人が押寄せ掠奪したり爆弾を投じたりするので近所の住民は獲物を以て戦ひました。鮮人は鉄砲や日本刀で掛るので危険でした。其中に第三連隊がやってきて鮮人は大分殺されましたが日本人が鮮人に間違はれて殺された者が沢山ありました」(「北海タイムス」大正十二年九月六日)

 

 こうした証言は、あげれば際限がないほど多くを数える。だがこれに反し、逆に日本人によって多数の「無実の朝鮮人」が虐殺されたのだと主張する説が長い間、歴史観の主流を占めてきた。(P.42-44)

 

「なかった」が朝鮮人暴動の「証言」として『横浜地方裁判所震災略記』から引用しているのは、16ページほどもある長岡熊雄判事の手記のほんの一部、それもパリー号の事務長から又聞きした部分だけである。しかし、実はこのすぐ後に、判事が問題の巡査から直接聞いた内容が書かれている。

 私は初めて鮮人の暴動を耳にし異域無援の彼等は食糧に窮し斯の如き凶暴を為すに至ったのであらうと考へ事務長の紹介した県保安課の巡査(其名を記し置いたが何時か之を紛失した)に逢ひ其真偽を確めたところ其巡査のいふには「昨日来鮮人暴動の噂が市内に喧しく昨夜私が長者町辺を通ったとき中村町辺に銃聲が聲えました。警官は銃を持って居ないから暴徒の所為に相違ないのです。噂に拠れば鮮人は爆弾を携帯し各所に放火し石油タンクを爆発させ又井戸に毒を投げ婦女子を辱しむる等の暴行をして居るとのことです今の処御上陸は危険です」といふ

 私は「市内の巡査は同什したのか」と尋ねましたら「巡査も大多数は焼け出されて何処へ行ったか判らず残って居る者も飢餓に苦み活動に堪へられないのです」といふ。嗟無警察の状態か、天何ぞ我邦に災することの大なると心の内になげいて居た。

 

何のことはない。事務長はあたかも事実であるかのように語っていたが、当の巡査の言によれば「鮮人暴動」は噂でしかないのだ。銃を持っている暴徒が朝鮮人だという根拠もない。(陸軍神奈川警備隊司令官奥平少将の証言が示すように、この暴徒は不良日本人の集団である可能性が高い。)

そして、長岡判事が実際に体験・目撃した事実については、「なかった」は一切無視している。以下が、「なかった」が引用しなかった長岡判事自身による直接体験、本物の証言[1]である。

(三日)午前九時頃ランチが来た、事務長の知らせで直に之に乗る。玉上書記はビール瓶に水を入れて腰にブラ下げる、片山君は大風呂敷に吾等三人分の食糧だといって握飯を包み込んだ。桑原判事は足を嫌瓦に敷かれたので大森の自宅まで歩くことは出来ぬが碑奈川の友人を訪問するといって同乗す、山崎判事は頭に包帯をしながら妻子を捜さねばならぬといって同乗す、日下判事も同乗す、ランチは本船を離れた、庁員諸君は舷側に出て吾等一行を見送つて呉れた。

(略)

 上陸して英国領事館の焼跡の前を通ったとき路上に焼死者の横はって居るのを見た、県庁の傍に行けば其数が益多い、皆一様に空を掴んで斃れて居る、而して皆裸体だ。衣服は火に焼かれたのであろう。悶死の苦とのやうであったろう。

 県庁は焼けたのではあるが外形だけは厳然として立って居る。税関庁舎は見る影もない、税関西門前を通ったとき門内から荷を運び出す者が澤山居た、其中には門外で其荷を開けウィスキーの瓶らしきものを取出して居る者もあった、何をして居るのかと思ひながら通ったが後にて聞けは税関倉庫の焼残った品は悉く掠奪せられたといふことであるから彼等も其仲間の掠奪者であったかも知れない。

 裁判所の焼跡へ来た、煉瓦の崩れたものか堆積せる外何物もない感概無量だ、私の居た官舎は平潰ぶれに潰れて瓦は行儀よく其上を覆ふって居たのであるが之も全部火に見舞はれて灰となって居る。大内書記の居た官舎も勿論影を留めない。

(略)

(略)電車は立往生のまま焼失し馬は半死半生の体で蠢動して居るのがある。人の死体は所々に横って居る、見渡す限り焼野ヶ原で殷賑を極めた市街も今は只煉瓦の累々たるばかりだ。惨又惨、桜木町駅の辺に行くと割合に人通りがある。人毎に棒を持って居る。風体は一として満足な服装をして居る者はない、災後のこととて誰も怪しむ者はないが恰も百鬼夜行の状態だ。ここで道連れになった人が私等に赤布を腕にお巻きなさいといふ、何故かと問へば鮮人と誤認せらるる虞れがあるから其鮮人に非る標章にするのだいひ、警察部長から鮮人と見れは殺害しても差支ないといふ通達が出て居ると誠しやかに説明する。私は左様な暴令は想像することも出来ないといへば、否實際であるから仕方がないとて鮮人の暴動せること無警察の状態なること各人自警の必要なることを喋々した。其半分以上は伝聞の架空事に相違ないが如何にも誠しやかに話すので聞く人は皆真実の事のやうに思って居る。片山君は早速持合せの赤布を割いて私の腕に巻き片を玉上に興へて又自分の腕にも巻いた。

(略)

 行き行きて子安町に出た。此辺からは火災に罹った跡はない、壮丁が夥しく抜刀又は竹槍を携へて往来して居る。鮮人警戒の為だといふ。元亀天正の乱世時代を再現した有様だ。…尚進み行けば先方から自転車に乗って来た者がある。壮丁の一人は抜刀を突付けて之を誰何す、車上の男は恐縮頓首恭しく住所氏名を告げて通過を許された。壮丁の多くは車夫鳶職等の思慮なき輩で凶器を揮て人を威嚇するのを面白がって居る厄介な痴漢である。加之之を統率する者がないので一人が騒げば他は之に雷同する有様で通行人は実に危険至極である。道にて鮮人の夫婦らしき顔をして居る者が五六人の壮丁の為詰問せられ懐中を検査せられて居るのを見た。幸にして私等一行は純日本人の相貌を有するので誰何せられずに通過した。

 生麦から鶴見に行く、比辺の壮丁も抜刀又は竹槍を携へて往来して居る。路傍に惨殺された死体五六を見た。余り惨酷なる殺害方法なので筆にするのも嫌だ。事變の為人心が狂暴になるのは己むを得ないが此辺は火災もないのだ、平素訓練の足りない事がつくづくと感ぜられる。

 正午になった、私等は傍の民家に立寄り茶を貰って例の握飯を喫す。少憩して又行程を進めると警戒団の屯所らしい所がある。其前を通過するとき先駆の玉上書記が平素の昂然たる態度で無言のまま通過した。其時屯所の一人が彼奴は何者だといふ。其気色が只事でないので私は官職を告げて彼は私に随行せる書記であるといったが壮丁は裁判所が何だ、彼奴は姓名をも告げずに行った無礼な奴であると咆哮するのである。こんな狂犬のやうな者を怒らすも詮なきことと思ひ私は今姓名を告げたではないかといふに壮丁の一人は尚聴かずして馳行き玉上書記を誰何した。玉上は懐中から名刺を出して渡した、壮丁は之を見て失礼したと割合に大人しく引下った。片山君曰く「実に物騒ですね」

(略)

 午後六時頃品川に着いた、是れから東京へ行けば夜になる、夜行は危険であるから品川なる私の老父母の隠宅に一泊することにした 青物横丁から仙台坂を上り坂の中途から右折するとき私等の背後に竹槍を持った数人の者が尾行した。片山君は震へて居る。併し何事もなく隠宅に着いた。後で聞けば私等に尾行した者は町内の自警団員で私等を鮮人だろうと誤認しやっつけて仕舞へと云ふ者があったが私を識って居る鳶職が一人有ったので助かったのだといふことだ 危険千萬だ、私等の相貌は生麦鶴見辺でも誰何せられずに通過した程温順なる日本人なること一見明瞭であるのに此町内の自警団員は除程狂って居たと見へる。

 隠宅に着けば老父母と愚息義雄とは私の無事なるを見て大に喜ぶ 義雄は前日徒歩で横浜に行き私を捜したが判らず失望して帰宅し老父母も義雄の後を追ひ徒歩にて横浜に行き私を尋ね廻ったが判らず 夜半過伊勢町官舎跡に行ったとき突然横合から棒を以て臀部を殴打した者があるので何をするかと推問したら、日本人か鮮人かと問ふので日本人だと答へたところ、然らば何故合言葉を使はぬかといったので老父は東京から倅を尋ねに来たのである。比地方の合言葉など知りやうがないといひ彼是問答して居るとき巡査が来たので老父は私を尋ね廻って居る旨を告げたら同巡査は大に老父を労はり夜間の歩行は危険ですから比虜で御休息なさいと云って余熱未だ散せざる煉瓦塀の後に案内し握飯を持来りて給与したとのことである。

 隠宅は比震災の為に二階に大破損を生じ二階では住む事が出来なくなった。

 夜更けて寝に就かんとするとき俄に門前で騒ぐ声がする。何事かと思ったら自警団員が入り来り今鮮人が此邸に入った様子であると云ひ懐中電燈で縁側の下や垣根の辺を捜し歩き遂には隣家の屋根に上り諤々として騒ぎ立って居る。全く多数を頼んで面白半分に喧騒して居るのである。困った事だ。

 

長岡判事は、自らの目で朝鮮人の惨殺死体を目撃している。それどころか、判事自身、下手をすれば朝鮮人と誤認されて自警団に殺されていたかもしれないのだ。

また、この『横浜地方裁判所震災略記』には、長岡判事の手記以外にも次のような生々しい虐殺の目撃証言[2][3]が記録されている。

(二日)(略)さきに伊勢佐木町署員に逢ひし時、身分を明せし時、先夜高岡書記丈裁判所から逃げて来ましての話に、検事では九名行方不明ださうです、僕も森岡警察部長の召集で今急ぎますからと面をそむけて消えるが如くはせさりし行動より察するも主人の生は絶望と期して覚悟せしも今亦老人の話により又其意をつよくして涙に咽ぶ、左に伊勢山の焼跡を見て所長官舎は検事正官舎はと、ひまあらば見舞度きもゆるしたまへと心に念じて横浜駅へいそぐ。

     不思議の人に

         曾ひてその夜は畳の上に

 駅につく、駅の右方がガードを越えし處にて黒山の如き群集あり何ときけば××××を銃剣にて刺殺しつつあるなり頭部と言はず、滅多切にし溝中になげこむ惨虐目もあてられず、殺気満々たる気分の中にありておそろしきとも覚えず二人まで見たれ共おもひおもひ返して神奈川へいそぐ(略)

 

(二日)(略)夜に入りて土地の青年団のもの「鮮人が三百名ほど火つけに本牧へやって来たさうだからもの言って返事しないのは鮮人と見なして殺してもよいとの達しがあった、皆んな注意しろ」と叫びふれて来るあり。

 漸く命拾ひしとおもふまもなく、また火つけさわぎとはと涙さへ出ず。

 またつづきてどなり声きこゆ「屈強の男はあつまれ、鮮人三名この避難地へまぎれ込んだからさがすんだ」私等は折角出した荷物も捨つる覚悟でみち子をおぶい、子等の蒲団代りの綿入の着物三枚かかへ、食料だけはと風呂敷につつみ逃ぐる準備せり。すぐ側にわっとさけぶ声す。大勢のたくましき漁夫は手に手に竹槍いづこにて見つけしか長刀などひっさげ何やらかこみて「そんなやつ殺せ」「ころすな他にまだ二人仲間があるから証人にしろ」などめいめい勝手なことをわめき居れり。途に我等の前までおいつめ来り一度其時、「許して下さい。私は鮮人じゃありません」と泣き声きこゆ。

 如何にしてのがれしか海水の方へにげ出しぬ。気のあらき漁師たちは「そら逃げた、やっつけろ」と、とびの如きものにてひっかけ、その男は遂に半死半生にていづこかに引かれて行きたり。

 人一人殺さるるを目の前に見し私等の心は想像の及ぶべくもあらず。

 後にてよく聞けば彼は日本人にして避難民の荷物に手をかけしためなりと。其夜は鮮人騒ぎにおびやかされねもやらず涙さへ渇れて空しくあけ方をまつ。

 

資料の中から都合の良い伝聞記事だけを抜き出して引用し、遥かに重要な目撃証言は一切無視する。『横浜地方裁判所震災略記』という一例だけからでも、「なかった」がいかに資料を恣意的に利用し、その内容をねじ曲げているかがよく分かる。

 

[1] 長岡熊雄編 『横浜地方裁判所震災略記』 1935年 P.38-55 長岡熊雄部長判事(執筆時)手記
[2] 同上 P.120 福鎌恒子(故福鎌検事正代理夫人)手記
[3] 同上 P.176-177 小野房子(故小野検事夫人)手記

 

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