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「保育園落ちた日本死ね!!!」が開く社会の連帯

昨夜、「保育園落ちた日本死ね!!!」に関する記事を書いたばかりだが、今朝届いた東京新聞を開いてみたら、貴戸理恵氏(関西学院大学准教授)による、同じ問題についての優れた論考[1]が載っていたので驚いた。とりあえず内容をメモ。

 「保育園落ちた日本死ね」というある母親の匿名ブログの文章がマスメディアやインターネットを通じて拡散し、国会で議論された。首相や一部議員による「匿名なので確認できない」という反応に対し、「保育園落ちたの私だ」とするプラカードを掲げて国会前に集まるアクションが起き、保育制度の充実を求める二万七千の署名が集まった。

 ブログが書かれたのは、二月中旬だ。一カ月もたたないうちに、具体的な声が届けられ、政権は対応を迫られることになった。何とスピーディーな「民主主義」だろう。(略)

 これを可能にしたポイントのひとつに、「怒り」があったと思う。「保育園落ちた」が「私どうしよう」という個人的な悲しみ困惑としてではなく、「日本死ね」という国に対する明確な怒りの表現を取ったことに意味があった。怒りとは「この社会の一員」としての権利意識があるところに生まれる感情だからだ。

 「保活」という言葉がある。子どもが保育園に入所できるよう親が行う活動のことだ。「就活」や「婚活」と同様、「激化する市場」に放たれた個人が計画的に準備して目的を達成する、というニュアンスがある。そこには「勝者」と「敗者」がいる。

 (略)人の命を支える制度であるべきなのに、制度のために命がコントロールされては本末転倒だ。だが「保育園への入所は親の自己責任」といういう認識のもとでは、それをしないことが親の「自業自得」とさえ見なされうるのだ。

 あのブログの母親は、保育園に入所できなかったことを日本政府への「怒り」として表現した。その背景には、働きながら子どもを産み育てることは正当な権利であり、社会はそれを保証するべきだという認識がある。

(略)

 私たちはみなこの社会の一員だ。「私」が自己責任として引き受け、無言のうちに我慢すれば「私も自力で切り抜けたのだから、あなたもそうすべきだ」というメッセージへと通じていく。まずは「私」の現実に怒ることが「あなた」が不当におとしめられていることへの告発に扉を開く。

 「保育園落ちたの私だ」と国会前に立った人の中には、当事者でない人もいたという。「私」の利益のみのためではなく「あなた」のために怒った人がいた。そこにあるのは「勝者/敗者」ではなく、「社会の連帯」だ。

 怒りによって連帯が生まれた。「一人で落ち込まなくてもよい、同じ境遇の人とともに主張してよい」と思える「空気」ができた。保育制度の充実の重要性とともに、そのことを確認しておきたい。


この問題は、日本社会にはびこる「自己責任論」がいかに罪深いものかについても気づかせてくれたのではないだろうか。ともに怒り、声をあげ、この社会をより良くしていこうと連帯すべき「私」たちを、競争と足の引っ張り合いしかできない「勝者/敗者」に分断する道具が「自己責任論」である。そこから利益を得ている者たちこそが、真の「社会の敵」なのだ。

[1] 貴戸理恵 『時代を読む 怒りが連帯をつくる』 東京新聞 2016.3.20

 

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