藤岡事件よりさらに凄惨な虐殺事件がいくつも起きていた
先日、本ブログで、虐殺被害者の遺族が95年目にして初めて慰霊祭に参加した「藤岡事件」を取り上げた。
今の群馬県藤岡市で起きたこの事件は、現地に居住していた朝鮮人17名が、警察署内に保護されていたにもかかわらず、暴徒と化した周辺住民に引きずり出されて殺されたという悲惨な事件だ。
しかし、隣の埼玉県では、もっと凄惨な事件がいくつも起こっている。その一つが「本庄事件」である。
本庄事件は、藤岡事件の前日4日に、隣接する今の本庄市で起きた別の事件です。
— バージル (@vergil2010) 2018年9月17日
事件の内容は、藤岡事件よりもっと恐ろしいものでした。
「町送り」が引き起こした埼玉県内の朝鮮人虐殺事件
関東大震災時、埼玉県内で発生した朝鮮人虐殺事件には、他地域のそれとは異なる特徴があった。それは、現地に居住していた朝鮮人がその場で殺されたのではなく(一部そういう事例もあるが)、主に、他所から避難してきた人々も含む朝鮮人の集団が、「町送り」と呼ばれる移送の過程で周辺住民に襲撃され、殺されたことだ。[1]
埼玉県警察部は、東京から避難してきた朝鮮人、県内で拘束した朝鮮人を県外に移送しようとする。移送する目的は朝鮮人を自警団の暴虐から守るためと言われているが、はたしてそうなのだろうか。そのように漫然と、自明のように言われているだけで、真実のところはまだ解明されてない。
本当のところは案外、朝鮮人を隣の町、隣の県へ厄介払いしたかっただけなのかもしれない。真に保護を考えていたとするならば、対応に疑問が多すぎる。自警団から守るために移送するなら、自警団に警護させて移送すること自体がおかしいし、さらに徒歩による移送は朝鮮人を危険な自警団、民衆の前へ無防備に長時間に渡って晒すことになる。
移送するとしても県外のどこへ移送しようとしていたのかはっきりしていない。長野県か新潟県とも言われているが、現在の資料からは確実にはわからない(略)県警は最終目的地はともかく、当面はおそらく群馬県の高崎の連隊への保護移送を考えたのではないか。
そこで自警団による町送りは群馬への道、中山道を北へたどることとなった。だが、県や警察部が、政府、軍、群馬県や高崎連隊と緊密な連絡を取った上で、当面の群馬への移送をしていたとの資料は残っていない。
警察に「保護」された朝鮮人たちは、9月3日、埼玉県南部の川口付近から出発して、旧中山道を北へ北へと町や村ごとに引き渡されながら、順送りに護送されていった。[2]
九月三日、午後二時に川口警察署は消防組、在郷軍人の力を借り、保護していた朝鮮人百六十人(推定。人数についてははっきりしていない)を蕨町へ移送、集結させた。川口でいろいろなかたちで保護拘束された朝鮮人は、この、江戸時代の五街道の一つ、中山道の県内第一次の宿であった蕨で合流させられた(川口から直接自動車で移送されたり、個々的、小集団で蕨に送られた者がいた可能性もなくはない)。
(略)
蕨においては、虐殺はなかったが、虐殺には至らない「自警団によるいわゆる『朝鮮人狩り』が行われた」(略)。これら「狩られた」朝鮮人は、やはり川口から送られてきた集団に合流させられたと考えられる。
蕨に集められた朝鮮人たちは、その蕨から北に向かって駅伝、町送りにさせられる(略)。武器を持った自警団が周りを固めて、次々に伝達、送致し県外に送り出そうとしたのである。送る人間、自警団員は担当(自分の居住する地域)する町、村、字あざごとに変わるが、送られる朝鮮人は変わらない。
送る自警団は自分の担当する町、村、字を出るまで送るだけだから、伝達が終ればいくらでも休める。だが送られる朝鮮人には休みなし。送るほうは早く嫌な、危険な(と思われていた)役割から解放されたい、(略)いきおい休ませずに急がせるのが自然である。
護衛の警官もついていた。しかしそれは装備と人数において自警団に圧倒的に劣っていた。それも熊谷などの民衆、自警団の暴走を止められなかった一つの理由である。
朝鮮人たちは、周囲を武装した自警団に取り囲まれ、しばしば彼らから暴行を受けながら、何十キロもの道をひたすら歩かされた。
残暑厳しい中を、食事や水も与えられず、目的地も分からないまま連行される不安と恐怖から、途中で何人かの朝鮮人が逃亡を図った。しかし、疲労困憊し、土地勘もない彼らが逃げ切れるはずもなく、たちまち捕えられて殺された。ほとんどが鳶口やツルハシを打ち込まれて惨殺されたという。
最初の集団虐殺「熊谷事件」
彼らが蕨から約50キロの熊谷にたどり着いたときには、出発から約30時間が経っていた。4日の夕方である。ここで最初の集団虐殺が行われた。[3](熊谷事件)
熊谷町柳原地区の自警団に護送された朝鮮人が熊谷町の中心部へ、英泉の描いた八丁の地から中心部の筑波との境にさしかかろうとした時、熊谷町の中心部のほうから群集となった民衆が手に手に武器を持って押し寄せてきた。
引き継ぐはずの熊谷町中心部の自警団がすでに暴徒化していた。自警団だけでなくやはり暴徒化した熊谷町の町民が多く加わっていた。群衆は一旦暴走し始めたら止まるところを知らない。そして熊谷町中心部入り口で熊谷町最初の殺戮が行われた。
おとなしく送られてきた朝鮮人に民衆が集団で襲いかかり、牙をむけたところに熊谷の虐殺の特徴がある。
(略)
中心部入り口における殺戮に加わった民衆は、その昂奮をそのまま市街地へ持ち込んだ。彼らは血がついた刀、竹槍、棍棒を持って逃げた朝鮮人を探し、みつけ出しては殺す。そこに自警のかけらは少しもない。狂気に支配されたとはいえ、血に飢えた者が獲物を捜し求め、狩りを楽しみ、みつけたら殺戮を楽しむ、というのが実相である。
殺戮は逃げた朝鮮人に向けられるだけではすまなくなった。逃げた者を探して殺すだけでは満足できなくなった殺戮者たちは、おとなしく数珠繋ぎで連行されている、拘束されている朝鮮人へも攻撃の刃を向けるようになった。
手を縛られたまま逃げる者、それを追いかける男。おとなしく縛られたままでいる朝鮮人、それを引っ立てて刀の試し斬りにする男。自分で殺したくて、「こっちへまわせ」と息巻いている男。熊谷の町の中心部は、薄暮そして暗闇の中で殺戮のし放題であった。
熊谷町内で殺された朝鮮人の数は、およそ70~80人と推定されている。[4]
「町送り」で生き残った人々が皆殺しにされた神保原事件と本庄事件
【画像】自警団と虐殺された朝鮮人(出典:『かくされていた歴史』)
蕨から北に「町送り」された朝鮮人の一部は、途中からトラックに乗せられ、4日正午頃、埼玉県北部の本庄警察署に到着している。また、本庄町内に居住していた朝鮮人や、県南部から別のトラックで移送されてきた人々なども加わり、本庄警察署には相当数の朝鮮人が収容されていた。[5]
本庄からは、目的地?の群馬県はもう目の前である。本庄署は収容していた朝鮮人の一部をトラックに乗せて群馬県に向けて出発させたが、県境で群馬側に引き継ぎを拒否され、やむなく引き返したところ、県境近くの神保原村で暴徒化した群衆が襲撃してきた。群衆は4日の真夜中までの間に、取り残された朝鮮人のほとんどを殺してしまった。犠牲者は42人と伝えられている。[6](神保原事件)
神保原での襲撃を逃れたトラックが本庄警察署に戻ってくると、これを知った群衆は次第に本庄署に集まりはじめ、トラック上の朝鮮人たちを襲い、さらには警察署内の演武場に収容されていた朝鮮人たちをも殺し始めた。この時の様子を、現場を目撃した元本庄署巡査の新井賢二郎氏が次のように証言している。[7]
本庄署では、前夜(三日夜)から保護していた朝鮮人が四十三名いたが、電話で、デマにおびえた人達から出動要請があって、警官は出はらっていた。私が、警察に残って外からの電話に出ている時、警察がからっぽであることを見ていった奴がいたのだ。
(略)
本庄署へ引きかえしてきた三台のトラックは、朝鮮人を満載していた。私もそのトラックに乗っていたが、集まってきた群衆のなかに青木紋九郎というギュウタロウ(注:遊郭で客引き等を行う男子従業員)がいた。その紋九郎が、「あいつは、朝鮮人の偽巡査だ。あいつからやっちまえ」と煽動した。それがあいずとなって、一斉に群衆が襲いかかり、あの惨劇がはじまったのだ。
(略)
惨殺の模様は、とうてい口では言いあらわせない。日本人の残虐さを思い知らされたような気がした。何百人という群衆が暴れまわっているのを、一人や二人の巡査では、とうてい手出しも出来なかった。こういうのを見せられるならいっそ死にたいと考えたほどだ。
子供も沢山居たが、子供達は並べられて、親の見ているまえで首をはねられ、そのあと親達をはりつけにしていた。生きている朝鮮人の腕をのこぎりでひいている奴もいた。それも、途中までやっちやあ、今度は他の朝鮮人をやるという状態で、その残酷さは見るに耐えなかった。後でおばあさんと娘がきて、「自分の息子は東京でこのやつらのために殺された」といって、死体の目玉を出刃包刀でくりぬいているのも見た。
当時演武場は、警察署の方からではなく、町役場の方から電灯をひいていたので、演武場の電気は警察の方からは、消すことができなかった。私は演武場の中の四十三人が見つかっては大変だからと、電気を消すように役場の方へ頼んだが、一向に通ぜず、そのうちに、演武場の中の朝鮮人も見つかってしまったのだ。「ここにいた」というわけで、群衆は演武場へおしかけ、四十三人ことごとく殺してしまった。朝、私が演武場へ行ったとき、立てかけてあった畳の陰にいて助かった二人の婦人から水をくれ、と頼まれ、小使にもたしてよこすから、といっている間に、朝早くからやってきた群衆に見つかり、昨夜の凶行場所につれていかれ、ベンチの上でさし殺されてしまった。私はどうすることもできなかった。
警察署の構内は前夜の凶行で血がいっぱいだった。長靴でなければ歩けなかったほどだ。警察署の構内で殺されたのは八十六人だが、本庄市内で殺されたのもいた筈だ。死体も見たが十五、六人位……二十人まではいなかったと思う。
署内の留置場の中にいて一人助かったが、これも群衆が「凶行を見られてしまったからには、朝鮮へでも帰って話されたら大変」というわけで、留置場の鉄棒の間から、竹槍で突こうとしたのだが、あっちへ逃げ、こっちへ逃げて、とうとう助かったのだ。これは後でどこかへ送られた。
私は長い間、朝鮮人の「アイゴウーアイゴウ」という悲痛な叫びが耳からはなれなかった。
こうして、「町送り」で移送されてきた人々は、そのほとんどが県境を越えることなく殺されてしまった。
[1] 山岸秀 『関東大震災と朝鮮人虐殺』 早稲田出版 2002年 P.138-139
[2] 同 P.142-143
[3] 同 P.156-165
[4] 同 P.119
[5] 関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者調査・追悼事業実行委員会
『かくされていた歴史 ― 関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件』 1974年 P.41
[6] 同 P.38-40
[7] 同 P.98-103
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