沖縄県知事選は、圧倒的な資金力・動員力・宣伝力(デマ含む)を持つ自公政権による組織選挙に押しまくられ、厳しい闘いを強いられている。このままでは、沖縄に日本会議につながる極右の知事が誕生し、沖縄の日米両政府に対する隷属はさらに強化されていくことになるだろう。
沖縄の若者が沖縄の歴史を知らないという現実
このような事態の背景には、沖縄でさえ若者ほど保守化(右傾化)しており、彼らが簡単に自公政権の仕掛けるプロパガンダに乗せられてしまうという現実がある。投票率さえ上がれば期日前投票で動員された組織票を覆せるような状況ではないのだ。そしてその根本的な原因は、沖縄国際大学の佐藤学教授が指摘するように、沖縄の若者たちが沖縄の歴史を知らないことだ。
名護市長選挙応援に来た小泉進次郎・衆院議員が「名護に分断を持ち込むな」と演説したとき、名護や沖縄の若者は、辺野古で座り込みをしている人々が分断を持ち込んだと、そのまま受け取った。この世代が着実に増えている。
日本にとり都合の良い、何でも受け入れる沖縄への変容、否、転落は今のままならば、必至であり、間近い。
なぜこうなったのか。根本的な原因は、近現代史教育の欠如である。
沖縄の「自決権」「民族性」に対してどのような立場を採ろうと、沖縄が他県と全く異なる近現代を生きてきた事実は否定できないだろう。
名目上とはいえ、独立王国だった琉球に対し、わざわざ廃琉置藩という一段落を置いて版籍奉還の建前に合う条件を作り、日本の他から8年遅れての廃藩置県=琉球処分を強行した歴史的事実。
第二次世界大戦最後の苛烈・悲惨な地上戦が闘われた事実。
日本の一県でありながら、日本国憲法の制定過程から県民が排除され、その後20年間にわたり日本の施政権から切り離され、日米どちらの憲法にも県民の人権が保障されなかった事実。
その条件下で、復帰運動を闘い、知事公選制を、日本で唯一、実質的に住民の運動の成果で勝ち取った事実。
そして、復帰後の歩み。
沖縄の若者は、この地域史を、一切学んでいない。
沖縄戦だけは、学校教育の現場で、様々な努力がなされて、何かは学ぶ機会を持つが、その前も、後も、沖縄の若者はまったく知らない。
(略)
無知に基づいた選択は、沖縄にとり、不幸である。その彼等が基地の情報を得るのは、スマホからだけである。ネット上に氾濫する沖縄叩きの言説が、彼等にそのまま入っていく。だから、辺野古の運動は行き過ぎだ、別な方法があるはずだ、と声を揃える。
「別な方法」の最たるものである県内各種選挙で、重ねて辺野古に反対する結果を示してきたこの20年間の経緯は、もはや古い歴史だから知らない。歴史を知らず、伝統文化を知らず、言語を知らない世代が育ってしまった。
中国は沖縄に何をしたか
今、沖縄を今後も日米両政府に隷属する二重植民地であり続けさせるために最大限に活用されているのが、中国脅威論というプロパガンダだ。中国の軍事的脅威に対抗するためには米軍基地も自衛隊も必要、これらの抑止力がなくなれば沖縄はたちまち中国に侵略され併合されてしまう、というわけだ。このプロパガンダに乗せられている限り、少しでも基地を減らすのは沖縄を危うくする行為だという認識になってしまう。
だが、「沖縄にとって」中国は本当に脅威なのか?
確かに、成長を続ける中国によって「世界唯一の超大国」という絶対的地位を脅かされつつある(いずれ必ず追い越される)米国や、その米国に従属する以外の生き方を知らない日本の保守にとっては、経済的にも軍事的にも中国はまさに脅威なのだろう。
だが、そうした状況は沖縄にとっても危機なのか?
ここで、近現代史からさらに遡って、常に東アジア最大の大国であり続けてきた中国と、その東南の海に浮かぶ小さな島国である沖縄との歴史的関係を見てみよう。
沖縄が中国と外交関係を持つようになったのは、1372年の中山王察度さっとによる明への入貢(朝貢)からである。そして察度が死ぬと、その子の武寧ぶねいの要請に応じて明は沖縄に冊封使を派遣し、武寧を「琉球国中山王」に封じた。その後、中山王尚しょう巴志はしが、対立していた北山、南山を滅ぼして沖縄本島を統一する(1429年)と、「琉球国中山王」は、琉球王国全体を治める王者の称号となった。[1]
こうして琉球王国は、中国皇帝から冊封されることによって国王の地位を安堵され、代わりに貢物を献じる使者を送って皇帝への忠誠を示す(進貢)という、いわゆる冊封体制の一員となった。
この冊封体制は、確かに中国皇帝を頂点に置き、その下に諸外国の王が従属する不平等な外交関係ではあったが、近代ヨーロッパ諸国が植民地に強いたような搾取収奪関係ではない。むしろ、冊封体制に加わった諸国はそれにより大いに利益を得ることができた。[2]
国の事情により多少の相違はあるものの、冊封をうけ進貢国となった国々の真の目的は、対中国貿易を推進することにあった。なにしろ、その頃の中国は世界最強の国家であると同時に世界最大の商品産出国でもあったから、多くの国々が明の皇帝の権威をうけいれ、魅力的な中国商品を入手しようと努めたのである。洪武帝から永楽帝の治世にかけて(一四世紀後半~一五世紀初期)、明朝の冊封体制は東アジア・東南アジアばかりでなく南アジア・中央アジア・西アジア、そしてアフリカの一部にまで及んだ。
とりわけ冊封体制に組み込まれることによって大きな利益を得たのが琉球王国だった。琉球は、明から1年に1回(年によっては2回)進貢船(貿易船)を送ることを許すという破格の待遇を得ていた。ちなみに同時期、安南やジャワは3年に1回、日本は10年に1回の進貢しか許されていなかった。[3]
こうして琉球王国は進貢貿易により莫大な利益を得て、万国津梁の鐘に「舟楫を以て万国の津梁となし、異産至宝は十方刹に充満せり」と刻まれたように、世界を航路でつなぐ交易拠点として繁栄を謳歌した。
図版出典:[4]
一言で言えば、中国は数百年に渡る琉球王国との関係において、この小国を侵略するどころか大いに利益を与えてくれたのである。
日本は沖縄に何をしてきたか
一方、日本(ヤマト)は沖縄に何をしてきたのか。
最初に無理難題をふっかけてきたのは豊臣秀吉だった。それ自体理不尽な朝鮮侵略の実行にあたって、何の関係もない琉球王国に兵糧米の提供や築城分担金の支払いを要求してきたのだ。このときは一部の要求を除いて拒否することができたが、関ヶ原後の1609年に薩摩が軍隊を送り込んで来ると、軍事力で圧倒的に劣る琉球は抵抗できず、降伏するしかなかった。この結果、琉球王国は奄美諸島を薩摩に奪われただけでなく、重税を課され、国王位の継承や王国高官の人事にまで口を出されるようになった。[5]
薩摩は琉球王国を冊封体制の一員として存続させ、そこから得られる利益を吸い上げ続けた。薩摩の重圧に苦しむ琉球王府は先島(宮古・八重山諸島)に人頭税などの重税を課すことで負担を転嫁しようとしたが、これに対する恨みは今でも沖縄本島と先島諸島との間の地域的対立の遠因となっている。
そして次が、武力を背景に首里城を明け渡させ、沖縄を完全に日本の一部として組み込んだ琉球処分(1879年=明治12年)である。
沖縄を併合すると、明治政府はウチナーンチュを日本に同化させるために、徹底的な皇民化教育を行った。今回の知事選で話題になっている教育勅語も、皇民化のための強力なツールとして大いに活用された。
そうして行き着いた先が、少年少女まで戦闘に参加させ、しまいには家族同士の殺し合い(集団自決)までさせて、県民の4人に1人を殺した沖縄戦の惨禍である。たかが本土決戦を遅らせるだけのためにだ。
しかも、話はまだ終わらない。
日本のためにこれだけの犠牲を払ったにもかかわらず、戦後も日本政府の沖縄に対する態度は少しも変わらなかった。天皇は保身のために沖縄をアメリカに売り、講和条約で独立を回復すると、日本政府は本土にあった大半の米軍基地を沖縄に押し付けた。
こうして、日本はノーリスクでアメリカの核の傘を手に入れ、戦争になれば最優先の攻撃目標となる核ミサイルはすべて沖縄に置かれることになった。実際、キューバ危機が破綻寸前で回避されなければ、沖縄は物理的に地球上から消し去られていたのだ。
一言で言えば、日本は常に沖縄に災厄をもたらし、苦しみを与え続けてきたのだ。実際に沖縄を侵略したのは中国ではなく日本だし、今も「平和憲法への復帰」を願った沖縄の人々の願いを踏みにじり続けている。
だいたい、中国の脅威と言えば真っ先に持ち出される尖閣諸島だって、日清戦争のどさくさに紛れて勝手に日本領に組み込んだのが問題の始まりであって、あくまで日本と中国(&台湾)との間の問題なのだ。沖縄と中国との問題ではない。
もう、これ以上騙されてはいけない。
今からでも遅くはない。沖縄の若い人たちには、自分の父祖たちが体験してきた郷土の歴史をきちんと知ってほしい。
[1] 高良倉吉 『琉球王国』 岩波新書 1993年 P.43-54
[2] 同 P.79
[3] 同 P.80-81
[4] 同 P.83
[5] 同 P.69-72