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君が代は恋の歌とかいうポエムがまた出回っているので間違いを正しておく

また出てきた君が代「恋の歌」説

今回はJapaaanとかいうサイトがやらかしている。

mag.japaaan.com

オリンピックやワールドカップなど、国際競技の表彰式などでよく聴かれる国歌。

国歌は文字通り国家のテーマソングとして広く国民に親しまれており、その内容は国によって様々。国家の歴史や自然文化、そして国民性などが如実に表現されています。

さて、私たちが住んでいる日本の国歌はご存じ「君が代」。世界で一番短い国歌として知られています。今回は日本の国歌「君が代」について紹介したいと思います。

「君が代」のルーツは平安時代

君が代は 千代に八千代に さざれ石の
巌(いわお)となりて 苔(こけ)のむすまで

この短い歌詞は平安時代の勅撰和歌集『古今和歌集(延喜五905年)』に収録されている

我君(わがきみ)は 千代に八千代に さざれ石の
巌となりて 苔のむすまで

という歌(詠み人知らず。賀歌)が初出とされ、現代の国歌と少し違うものの、その意味するところはどちらも共通しています。

「愛しい君よ、願わくはいつまでも……」(イメージ)

「私の大切なあなたが、いつまでもいつまでも、さざれ石が巨岩に成長して苔が生えるくらいに末永く幸せでありますように」

要は相手に対して変わらぬ愛情を歌ういわばラブソングであり、平和を愛する日本人らしい国民的テーマソングにぴったりの歌と言えるでしょう。

後に君=君主≒天皇陛下と解釈され、中には「皇室に対する忠誠を誓わせる歌」として嫌う方も一部にいるそうですが、ここでの「君」はあくまでも「あなたにとって大切な人」ですから、その方を思い浮かべながら、心安らかに歌って頂ければと思います。

古今和歌集の「君が代」は恋の歌ではない

古今集では「題知らず よみ人知らず」とされているこの歌だが、『古今和歌集隠名作者次第』には橘清友(嵯峨天皇皇后嘉智子の父で、仁明天皇の外祖父)とあり、古注には、「平城天皇を橘清友が祝してよめる歌」とある。(その他、「寛平七年正月に人々を召て歌読給ける時、貫之歌也」との説もあり。)[1]

要するに、「後に君=君主≒天皇陛下と解釈され」たのではなく、最初から天皇の長寿と治世の永続を願った歌なのだ。

だいたい、これが恋の歌だと言うのなら、どうして古今和歌集の恋歌の部ではなく賀歌の部に載っているのか。自分で「賀歌」だと書いておいて、おかしいとは思わないのだろうか。

「君が代」の歌詞は古今和歌集から採られたのではない

まず、古今集に収録された、この歌の本来の原型は以下のとおり。

わが君千代にましませさざれ石のいはほとなりて苔むすまでに

(原本『古今集』、初稿本『和漢朗詠集』)

現在の「君が代」とはだいぶ違う。

この歌が「君が代」のルーツに当たるのは間違いないが、明治初期に国歌として「君が代」が作られた際、古今和歌集からこの歌を選び出して歌詞にしたわけではない。

この点については、「君が代」制定に深く関わった大山巌元帥が次のように語っている。[2]

「頃ハ明治三年ノ末若クハ四年ノ初ナリシナラン、薩長其他ヨリ御親兵ヲ出シタ後、未ダ久シカラザル時デアッタ、自分ハ薩藩カラ出タ砲兵ノ隊長ヲ勤メテ居タ時ノ事デアル。外国ノ陸海軍ニハ各々軍楽隊卜云フモノガ有ルニ我国ニハ此頃マデ、マダ、其レガ無カッタカラ、新タニ、之ヲ置カネバナラヌト云フノデ、年齢十六七歳バカリノ青年二三十名ヲ選ンデ横浜二遣り、同地在留英国軍楽隊二就キ練習セシメタ。

 其時、英国ノ楽長某(姓名ヲ記憶セズ)ガ、欧米各国ニハ皆其国々ニ国歌卜云フモノガ有ツテ、総テノ儀式ノ時二其楽ヲ奏スルガ、貴国ニモ有ルカト、我ガ一青年二問フタ、青年ガ之二答ヘテ、無イト云フタレバ、楽長ノ曰ク、其レハ貴国二取リテ甚ダ缺典デ在ル、足下宜シク先輩ニ就イテ国歌トモ為ルベキ歌ヲ作製スルコトヲ依頼スベシ、然ラバ予ハ之二作譜シ然ル後其歌ヨリ教授ヲ始ムベシト。

(略)

 当時御親兵ノ大隊長ハ野津鎮雄デ、薩藩ヨリ東上シテ居タ少参事ニ大迫某卜云フ人ガ居タガ、此江川与五郎ノ来タ時、適々野津大迫両人ガ来合ハシテ居テ、共ニ其話ヲ聴キ、成ル程我国ニハマダ国歌卜云フモノガ無イ、遺憾ナ事ダガ、是レハ新タニ作ルヨリモ、古歌カラ択ラビ出ス可キデアル卜云ッタ。

 其時自分ガ云ウニハ、英国ノ国歌のGod save the King(神ヨ我君ヲ護レ)ト云う歌ガアル、我国ノ国歌トシテハ宜シク宝作ノ隆昌天壌無窮ナラムコトヲ祈り奉レル歌ヲ撰ムベキデアルト云ヒテ平素愛誦スル『君が代』ノ歌ヲ提出シタ

 之ヲ聞イタ野津モ大迫モ、実二然リト、早速同意シタカラ、之ヲ江川二授ケテ、其師事スル所ノ英国楽長ニ示サシタ、自分ノ記憶スル所ノ事実ハ右ノ通リデアル。其後如何ナル手続ヲ経テ、国歌御制定二為リシカ、其辺ノ事ハ承知シテ居ラヌ云々」

「国歌二関シ大山元帥閣下ノ談話」(「君が代と万歳」昭和七年刊、所載)

大山が言う、「平素愛誦する『君が代』の歌」が、薩摩琵琶歌「蓬莱山」中の「君が代」であることは、中村祐庸初代海軍楽長の証言から分かる。[3]

「明治二年鹿児嶋藩二於テ音楽練習ノ為メ音楽生徒十六名ヲ撰定横浜ニ派遣英人音楽教師ヘントン氏二付練習セシム

 当時藩兵大隊長トシテ川村純義野津鎮雄ノ両氏在京中時々監督ノ為メ来臨セラレタリ当時吾君主ヲ謳頌スルノ楽曲ナキヲ慨歎セラレ種々詮議ノ模様ナリシガ琵琶歌蓬莱ノ曲中ニ最モ尊栄崇敬スヘキ君ケ代卜申ス古歌アリトノ事ヨリ之ヲ申分ナキ歌詞ナリトテ之ヲ撰定セラレタル様記憶セリ」

(大正三年十一月二十七日付、瀬戸口軍楽長宛書翰の一節)

この「蓬莱山」とは、次のような歌だ。[4]

蓬  莱  山


目出度やな、君が恵は久方の、光り長閑き春の日に、不老門を立ち出でて『四方の景色を眺むるに』『峯の小松に雛鶴棲みて、谷の小川に亀遊ぶ、君が代は、千代に八千代にさざれ石の、巌となりて苔のむすまで』命長らへて、雨塊を破らず、風枝を鴫らさじと云へばまた『尭舜の御代も斯くやあらん』

斯程治まる御代なれば、千草萬木花咲き実り、五穀成熟して上には『金殿楼閣甍を並べ、下には民の竃を厚うして、仁義正しき御代の春、蓬莱山とは是とかや』君が代の、千歳の松も常盤色、変らぬ御代の例には、天長地久と、国も豊かに治りて、弓は袋に『剣は箱に蔵め置く』諌鼓苔深うして、鳥も中々『驚くやうぞなかりける』

(『注解 薩摩琵琶歌集』 萩原秋彦(龍洋会)による)

まぎれもなく、君主の長寿と治世の永続を願う歌だということがよく分かる。

「君が代」に天皇崇拝以外の意味などない

こうして作られた「君が代」は、教育勅語と並んで、臣民に天皇への崇拝、絶対服従意識を植え付けるのに利用された。[5]

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尋常小学修身書 巻四 1937(昭和12)年 文部省発行
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第二十三 國歌


「君が代は、
  干代(ちよ)に
  八干代(やちよ)に、
   さざれ石の
 いはほとなりて、
  こけの
   むすまで。」

とほがらかに歌ふ聲が、おごそかな奏樂(そうがく)と共に、學校の講堂から聞こえて来ます。

今日は紀元節です。學校では今、儀式(ぎしき)が始まって、一同、「君が代」を歌つてゐる所です。

どの國にも、國歌とふうものがあつて、其の國の大切な儀式などのあるときに、奏樂に合はせて歌ひます。「君が代」は、日本國の國歌です。我が國の祝日や其の他のおめでたい日の儀式には、國民は、「君が代」を歌つて、天皇陛下の御代萬歳をお祝い申し上げます。

「君が代」の歌は、我が天皇陛下のお治めになる此の御代は、千年も萬年も、いや、いつまでもいついつまでも續いてお栄(さか)えになるやうに。」といふ意味(いみ)で、まことにおめでたい歌であります。私したち臣民が[君が代」歌ふときには、天皇陛下の萬歳を祝ひ奉り、皇室の御栄を祈り奉る心で一ぱいになります。外國で「君が代」の奏樂をきくときにも、ありがたい皇室をいいただいてゐる日本人と生まれた嬉しさに、思はず涙が出るといひます。

「君が代」を歌ふときには、立って姿勢(しせい)をただしくして、静かに真心をこめて歌はねばなりません。人が歌ふのを聞いたり、奏樂だけをきいたりするときの心得(こころえ)も同様です。外國の國歌が奏せられるときにも、立つて姿勢をただしくしてきくのが禮儀です。

そもそも、明治政府が「愛する人の末永い幸せを願う歌」なんぞを国歌にするわけがないではないか。維新以来、大日本帝国政府が目指したのは、天皇のためという名目を与えれば愛する人の命でも喜んで差し出す、従順な臣民の育成だったのだから。

天皇臭ロンダリングとしての「君が代」恋歌説

このように、「君が代」が「君主=天皇」にひれ伏して「皇室に対する忠誠を誓わせる歌」であるのは明白なのだが、にもかかわらずこれを「恋の歌」だとかいうヨタ話が定期的に現れるのはなぜか。

敗戦後、新憲法の下で新たに出発した新生日本国は、旧大日本帝国とのつながりを断ち切るためにも、その象徴だった君が代や日の丸・旭日旗はすべて捨て去るべきだった。しかし、敗戦後も政財界に居座った旧帝国時代の支配層は、そのつながりの根を断たないためにこれらを廃止させず、温存した。そして、これらの象徴がどのように使われてきたかを忘れさせるために、教育課程でもその意味を一切教えず、価値中立なただの旗や歌であるかのように扱ってきた。

しばしば現れる「君が代」恋歌説は、一般国民がその意味を教えられていないのをいいことに、「君が代」に染み付いた天皇臭・旧帝国臭を洗い落とし、「変わらぬ愛情を歌うラブソング」「平和を愛する日本人らしい国民的テーマソング」に見せかけるための、いわば来歴のロンダリングなのだ。

反社集団が行なうマネーロンダリング同様、ロクなものではない。

[1] 久曽神昇 『古今和歌集(二)』 講談社学術文庫 1982年 P.175
[2] 古田武彦 『「君が代」は九州王朝の賛歌』  新泉社 1990年 P.19-20
[3] 同 P.28
[4] 同 P.30-31
[5] 大阪教育法研究会 国定修身教科書(日の丸・君が代・靖国神社) 1920〜1942年 文部省

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