日本軍によるエクソ・カニバリズム「父島事件」
文春オンラインに、アメリカ人捕虜を殺してその肉を食べた、小笠原諸島父島での事件を取り上げた記事が掲載されている。[1][2]
ガダルカナル、インパール、フィリピンなど、拙劣な作戦計画のために補給を絶たれて飢餓状態に陥った日本兵が人肉食に走った事例はよく知られている。これらの事例は、人肉だろうが何だろうが食えるものは何でも食わなければ死ぬしかないという極限状態で行われた行為なので、おぞましいとはいえ安易に非難できることではないだろう。
しかし、この「父島事件」は、特に飢えているわけでもなかったのに、島に駐屯していた部隊の隊長をはじめとする将校たちが、敵兵の肉を食う宴会を開いたという異常な事件だった。[1]
アメリカ人捕虜を殺してその肉を食べた…… “狂気の宴会”が行われた「父島事件」とは
なぜ日本兵は“人肉食”を求めたのか
(略)
「大隊は米軍飛行士ホール少尉の人肉を食せんと欲す」
この日の朝、私は部隊長室へ呼ばれた。的場部隊長はこう言った。「本日の午後、捕虜を処刑することになっているが、今夜もまたお前にキモと肉を切り取ってもらいたい。そしてそのついでに、教育中の補助衛生兵たちに解剖を見学させてやれ」。今回は部隊長直々で私に命じた。心ならずも命令に従うほかなかった。
全てを悟ったホール少尉は、さきほどの陽気な影は全く消え失せ、蒼白な顔面には悲痛の色がみなぎっていた。現場には既に穴が掘られていた。彼はその穴を前にして座らされた。自分の墓穴を目の前にした彼の心境はどうであったろう。本部付きの中村伍長が捕虜の背後に立ち、曹長刀を振りかぶって気合いもろとも切り下ろした。見事に皮一枚残して首は切断され、捕虜は前のめりに倒れた。
その夜、308大隊の全将校は防空壕内の部隊長室に召集され、大宴会が催された。ホール少尉の試食が目的であることはいうまでもなかった。「出席せよ」という部隊長の命令が届いた。満員といってよい室内では、いまや酒宴はたけなわであった。
部隊長はすぐに私を彼の右隣りの席に招いた。私が座ると、彼ははしで挟んだものをいきなり私の口の中に押し込んだ。「はっ」と思ったが、吐き出せばどんな難題を吹きかけられるか分かったものでない。私はそっとかんでみた。鶏のモツのような味がした。例の肝臓だなと思うと、どうしてもそれ以上かみ続ける気にはなれなかった。口の中でしばらく転がして、いかにも食べたようなふりをしてから便所に立った。そして口の中の物をすっかり吐き出し、そのまま自分の部屋へ帰って寝てしまった。遠くから聞こえる酒宴の音は、不愉快さに拍車をかけた
「告白の碑」=「父島人肉事件」所収
この時、いかにも奇怪な命令が口頭で出されている。的場少佐が記憶を書き留め、グアム島裁判の証拠として提出された。「極東国際軍事裁判審理要録第5巻」に載っている。
【米軍飛行士の人肉を食することに関する命令】
1. 大隊は米軍飛行士ホール少尉の人肉を食せんと欲す
2. 冠中尉は配膳を担当すべし
3. 坂部見習軍医は処刑の現場に立ち会い、肝臓と胆嚢を遺体より切除すべし
大隊長 的場末勇少佐
1945年3月9日午前9時まともな神経とは思えないが、これが戦争なのか。
記事によると、父島事件では、無差別爆撃を行う米軍への敵愾心から、戦意高揚のために人肉食を行ったらしい。[2]
「父島人肉事件の封印を解く」によれば、立花中将は全てを否定。殺害にも人肉食にも関与しておらず、何も知らなかったと主張した。態度は最後まで毅然としていたという。的場少佐は最初は部下がやったことだと主張したが、やがて全てを認め、宴会の様子なども詳しく供述した。
それに対し、吉井大佐は「全て自分がやらせた」と認めた。「小笠原兵団の最後」には、疑いをかけられてグアムに連行された海軍父島特別根拠地隊参謀の海軍少佐に漏らした「Y大佐」(吉井大佐)の言葉が載っている。「君は心配ないよ。近くここから出られると思う。森司令官、篠田防備参謀に、罪を背負うのは一人でたくさんだから、全部俺に(罪を)着せるようにと伝えてくれたまえ」。吉井大佐は法廷でも「無差別爆撃をする米空軍が悪い。パイロットは処刑されて当然。人肉は戦意高揚のために食した。命令は全て自分が出した」と主張して非を認めなかったと秦郁彦「人肉事件の父島から生還したブッシュ」(「昭和史の謎を追う」所収)は述べている。
典型的な「エクソ・カニバリズム」だ。[3]
通常の場合、人肉食は二種類に分けられる。その一つは、敵愾心ゆえに自己の集団外の者を殺害して食べる「エクソ・カニバリズム(外食人)」であり、もう一つは呪術儀礼として集団内の人間を「いけにえ」にして食べる「エンド・カニバリズム(内食人)」である。
中国人蔑視の果ての人肉食
一方、中国戦線では、同じく特に飢えているわけでもないのに、中国人の少女を殺して食うという事件が起きている。[4]
第一一一大隊第二中隊が(1945年)五月になって、とある山村に宿営したときがやはり「空室清野」であった。第一日は前の部落から略奪してきた食糧で何とかまにあわせたが、二日で食いつくした。手にはいるものといえば、村の畑にわずかに残る野菜ぐらいのものである。主食類も秋の収穫時期にほど遠いこの春らんまんの季節だ。とりわけブタ・ロバ・ニワトリなどの動物性蛋白源が全く見当らないのがこたえる。三日目の夕食の用意にとりかからなければならない時刻だった。指揮班長の榎本正代曹長にも着想がうかばない。
「今日はもう肉類が全然なくなっちゃったんでどうするかなあ」と、中隊長の伊藤誠少尉(愛知県出身)に、話しかけるともなく独り言を言った。
「そうだなあ、オイ、ひとつやっちゃうか」と伊藤少尉が榎本曹長をのぞき込むように言った。小柄だが目のクリッとした賢そうな青年だった。榎本曹長からみれば四、五歳若く、二三、四歳の上官である。榎本曹長には「やっちゃう」の意味が、その瞬間よくのみこめなかった。
「仕方がない、人間をやるんだ」と、少尉が曹長の表情に応えるようにつけ足した。中隊長はそう言い残して、宿舎として使っていた農家から出て行った。やっと榎本曹長にも、これから何事が起こるかがよくわかった。ほどなく中隊長が戻ってきた。彼が連れてきたのは、年のころ一七、八歳と見える中国人の娘だ。この部落の農民だった。皇軍は三日前この部落に侵入したときに、部落に残っていた者をことごとく捕えた。男たちは「苦力」として皇軍の使役に使われようとしていた。女たちは「尋問」の名目で捕えておくのだが、尋問をされる風にも見えなかった。若い女性が十余人はいたはずである。その一人がいま少尉に連れられて来たのだ。少尉が少女のうしろに回り、どんと榎本曹長の方に突き飛ばすのと、曹長の短剣が少女の胸を刺すのと、ほとんど同時だった。さすが「人殺しの名人」を自認しているだけに、彼の腕は確かだ。短剣は正確に少女の心臓を突いており、彼女は悲鳴もあげずに、いま二人の足元に息絶えていた。武器に鉄砲やピストルを使わなかったのは、銃声で村人や他の皇軍兵士たちに知られてはまずいという判断からだった。
二人は目配せをし合っただけで、無言のまま、たちまちにして少女を「料理」してしまった。最も短時間に「処理」できる部分として、二人は少女の太股の肉のみを切りとって、その場でスライスして油でいためてしまった。一個中隊分といっても、最前線にあっては七〇人ほどだったのだが、人肉の分量は意外に多く、各人にふた切れは渡りそうに思えた。
中隊長は別の部屋に五個小隊の炊事班員を呼び集めて言った――「今日は特別に大隊本部から肉の配給があったので各小隊に配ることにした」
もちろん中隊長は嘘をついたのである。この事実について、二人はまったく口をつぐんでいることにした。よく拷問や殺人体験を自慢話としていた「天皇の軍隊」にあっても、ただ食用の目的だけで中国人民を“屠殺”したことは、やはり口外がはばかられた。
これは、飢餓による人肉食でないばかりか、現地民の娘など別に敵ではないのだから、エクソ・カニバリズムでさえない。強いて言えば、中国人に対する蔑視の果てに、相手を家畜並みの存在と見なして気軽に「屠殺」してしまったのだろう。
人肉食というと、ウヨ本やウヨサイトでは、近代以前の事例などを理由に中国人を食人種呼ばわりして罵倒しているが、それなら20世紀も半ばという時期に、飢えてもいないのに敵兵や現地住民を殺して食った日本人のほうが、よほど立派な食人種ではないだろうか。
[1] 小池新 『アメリカ人捕虜を殺してその肉を食べた…… “狂気の宴会”が行われた「父島事件」とは』 文春オンライン 2020/8/16
[2] 小池新 『「これはうまい。お代わりだ」硫黄島激戦の裏で、日本軍将兵はなぜ“アメリカ人将校の肉”を食べてしまったのか』 文春オンライン 2020/8/16
[3] 田中利幸 『知られざる戦争犯罪 日本軍はオーストラリア人に何をしたか』 大月書店 1993年 P.238
[4] 本多勝一・長沼節夫 『天皇の軍隊』 朝日文庫 1991年 P.371-373