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南京の「便衣兵狩り」は不当な大量虐殺そのもの

南京大虐殺の話を書くと必ず「便衣兵ガー」というウヨが出てくるので、やはりこのことは何度でも書いておく必要がある。

そもそも便衣兵とは

「便衣(biànyī)」とは、中国語で、軍服ではない民間人の服装を指す。つまり「便衣兵」とは、平服を着たまま戦闘行動を行うゲリラ兵を意味する。

右派が南京に関して必ず「便衣兵」を持ち出すのは、南京戦当時の国際法では、こうしたゲリラ兵には戦闘員としての資格が認められておらず、従って敵軍に捕まった場合、捕虜として扱われる権利がない(処刑されても文句は言えない)とされていたからだ。

つまり、南京陥落後に日本軍が狩り出した大量の中国兵は捕虜資格のない「便衣兵」であって、だから彼らを殺した行為も合法だった、と言いたいわけだ。

南京には便衣兵などいなかった

しかし、上記の論理は成立しない。南京には「便衣兵」などほとんどいなかったからだ。[1]

 しかし、本来の意味での戦闘者としての「便衣兵」は、南京ではほとんど存在しなかったといっていいだろう。この点について、陥落直後の南京で、撃墜された日本軍機の搭乗員の遺体捜索活動に従事した奥宮正武(第一三航空隊分隊長)は、こう書いている(『私の見た南京事件』PHP研究所、一九九七年)

 便衣兵あるいは便衣隊といわれていた中国人は、昭和七年の上海事変のさいはもとより、今回の支那事変の初期にも、かなり積極的に、日本軍と戦っていた。が、南京陥落直後はそうとはいえなかった。私の知る限り、彼らのほとんどは、戦意を完全に失って、ただ、生きるために、軍服を脱ぎ、平服に着替えていた。したがって、彼らを、通常いわれているゲリラと同一視することは適当とは思われない。

小林よりのりは『戦争論』で、ニューヨーク・タイムズ紙のダーディン記者の書いた記事を引用して、次のように、いかにも悪そうな「便衣兵化する中国兵」を描いている。[2]

あの南京事件の時 国民党軍の兵がどんな有様だったのか 「ニューヨーク・タイムズ」のダーディン記者が記事にしている 次のように…

一部隊は銃を捨て軍服を脱ぎ 便衣を身につけた。
記者が十二日の夕方、市内を車で回ったところ、一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽といってよいほどの光景であった。
多くの兵士は下関シャーカンに向かって進む途中で軍服を脱いだ。
小路に走りこんで便衣に着替えてくる者もあった。
中には素っ裸となって 一般市民の衣服をはぎ取っている兵士もいた。
軍服とともに武器も遺棄されて 街路は小銃・手榴弾・剣・背嚢・軍服・ヘルメットでうずまるほどであった。

兵が同胞の一般市民の服をはぎ取って化ける!
なんという卑劣さ…!

だが、引用されている記事の中身を見れば、この中国兵たちは軍服だけでなく武器まで洗いざらい捨てている。つまり彼らは戦闘意欲を失い、武器を捨て、ただ逃げ隠れしているだけの敗残兵・逃亡兵であって、便衣兵などではなかったのだ。

そして小林が引用しなかった同じ記事の続きの部分で、ダーディン記者は次のように書いている。[3]

(略)袋のねずみとなった中国兵の大多数は、戦う気力を失っていた。何千という兵隊が、外国の安全区委員会に出頭し、武器を手渡した。委員会はその時、日本軍は捕虜を寛大に扱うだろうと思い、彼らの投降を受け入れる以外になかった。たくさんの中国軍の集団が個々の外国人に身を委ね、子供のように庇護を求めた。

(略)

 南京を掌握するにあたり、日本軍は、これまで続いた日中戦争の過程で犯されたいかなる虐殺より野蛮な虐殺、略奪、強姦に熱中した。抑制のきかない日本軍の残虐性に匹敵するものは、ヨーロッパの暗黒時代の蛮行か、それとも中世のアジアの征服者の残忍な行為しかない。

 無力の中国軍部隊は、ほとんどが武装を解除し、投降するばかりになっていたにもかかわらず、計画的に逮捕され、処刑された。安全区委員会にその身を委ね、難民センターに身を寄せていた何千人かの兵隊は、組織的に選び出され、後ろ手に縛られて、城門の外側の処刑場に連行された。

 塹壕で難を逃れていた小さな集団が引きずり出され、縁で射殺されるか、刺殺された。それから死体は塹壕に押し込まれて、埋められてしまった。ときには縛り上げた兵隊の集団に、戦車の砲口が向けられることもあった。最も一般的な処刑方法は、小銃での射殺であった。

日本軍が行った「便衣兵狩り」は、間違いなく、捕虜として扱うべき中国軍兵士たちを無慈悲に殺した虐殺にほかならない。しかもその過程で、軍とは関係ない一般住民の男性たちまで、兵士と誤認されて大量に殺されている。

南京陥落後、中国兵たちはどうすればよかったのか?

首都防衛軍司令部が逃亡し指揮命令系統が崩壊した後、南京に取り残された中国軍の将兵はどうすればよかったのか?

普通に考えれば、彼らは素直に日本軍に投降すればよかったはずである。

だが日本軍は、投降すれば命を助けてくれるような、まともな軍隊ではなかった。

第16師団長中島今朝吾は、12月13日(南京陥落当日)の日記にこう書いている。[4]

一、大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之これを片付くることとなしたる〔れ〕共ども千五千万の群集となれば之が武装を解除することすら出来ず唯ただ彼等が全く戦意を失ひゾロゾロついて来るから安全なるものの之が一旦掻〔騒〕擾そうじょうせば始末に困るので

 部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ

 十三日夕はトラックの大活動を要したり(略)

一、後に到りて知るに依りて佐々木部隊丈だけにて処理せしもの約一万五千、大〔太〕平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇其仙鶴門附近に集結したるもの約七八千人あり尚続々投降し来る

一、此この七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず一案としては百二百に分割したる後適当のヶ〔か〕処に誘きて処理する予定なり

つまり、彼にはそもそも捕虜をとるつもりはなく、投降してきた中国兵は皆殺しにするのが「方針」だったわけだ。そして実際にも、この日たった一日で、第16師団だけで約一万六千三百人を殺し、さらに「七八千人」を「片付ける」予定だと言っている。

また、第114師団歩兵第66連隊第1大隊の戦闘詳報にはこうある。[5]

[12月12日午後]

 第三中隊方面は大なる抵抗を受くることなく予定の通り進捗せり

 午後七時頃手榴弾の爆音も断続的となり概ね掃蕩を終り我が損害極めて軽微なるに反し敵七〇〇名を殪たおし捕虜一、五〇〇余名及多数の兵器弾薬を歯獲し該方面に遁入南門城扉を鎖され退路を失いし敵を城壁南側「クリーク」の線に圧迫し殆んど殲滅し其策動を封ずるを得たり

 最初の捕虜を得たる際隊長は其の三名を伝令として抵抗断念して投降せば助命する旨を含めて派遣するに其の効果大にして其の結果我が軍の犠牲を尠すくなからしめたるものなり

 捕虜は鉄道線路上に集結せしめ服装検査をなし負傷者は労はり又日本軍の寛大なる処置を一般に目撃せしめ更に伝令を派して残敵の投降を勧告せしめたり

 一般に観念し監視兵の言を厳守せり

(略)

[12月13日午後]

 午後二時零分聯隊長より左の命令を受く

   左 記

 イ、旅団命令により捕虜は全部殺すべし
   其の方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何

(略)

 午後三時三十分各中隊長を集め捕虜の処分に附意見の交換をなしたる結果 各中隊(第一第三第四中隊)に等分に分配し監禁室より五十名宛連れ出し、第一中隊は路営地南方谷地 第三中隊は路営地西南方凹地 第四中隊は露営地東南谷地附近に於て刺殺せしむることとせり

 但し監察室の周囲は厳重に警戒兵を配置し連れ出す際絶対に感知されざる如く注意す

 各隊共に午後五時準備終り刺殺を開始し概ね午後七時三十分刺殺を終り 聯隊に報告す

 第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失敗せり

 捕虜は観念し恐れず軍刀の前に首を差し伸ぶるもの 銃剣の前に乗り出し従容とし居るもありたるも 中には泣き喚き救助を嘆願せるものあり 特に隊長巡視の際は各所に其の声起れり

こちらはさらに悪質で、「投降すれば殺さない」と宣伝して多数の捕虜を得たのに、翌日にはこの捕虜たちを有無を言わさず皆殺しにしてしまったわけだ。

戦えば殺される。投降しても殺される。これでは、中国兵たちはたとえ民間人から強奪してでも便衣に着替えて身を隠すしかなかっただろう。彼らの一部が南京安全区国際委員会に出頭したのも、直接日本軍に投降するのではなく欧米人に仲介してもらえば助かるかもしれないと考えたからだろう。(結局その願いはかなわなかったわけだが。)

卑劣だったのは見境なく殺しまくった日本軍

前記のとおり、南京には実際には便衣兵などほとんどいなかった。

しかし、仮にこのとき便衣兵が存在し、盛んにゲリラ戦を展開していたとしたらどうか。その場合、中国兵の大量処刑は正当化されるだろうか。

もちろんそんなことはない。

野蛮な日本軍の行為を正当化するのに腐心していた当時の日本の国際法学者の意見を採用したとしても、処刑が正当化されるのは実際にゲリラ戦に参加している便衣兵だけであって、それ以外の、武器を捨ててただ隠れているだけの敗残兵まで一緒くたに殺していいことにはならない。

さらに、捕まえた便衣兵を処刑するには、隠し持っている武器などの証拠に基づいてその敵対行為を認定する軍事裁判の手続きが必要だった。[6]

(略)確かに、当時の国際法の下では、「便衣兵」による戦闘行動は、「戦時重罪」にあたるとされていたが、前述したように、その処刑には軍事裁判(軍律法廷)の手続きを必要とした。この点については、法学博士、篠田治策の「北支事変と陸戦法規」(『外交時報」第七八八号、一九三七年)も、「死刑に処するを原則とすべき」行為の一つに、「一定の軍服又は徽章を着せず、又は公然武器を執らずして、我軍に抗敵する者(仮令ば便衣隊の如き者)」をあげてはいるが、そこに次のような条件をつけている。

而して此等の犯罪者を処罰するには必ず軍事裁判に附して其の判決に依らざるべからず。何となれば、殺伐なる戦地に於いては動ややもすれば人命を軽んじ、惹いて良民に冤罪を蒙らしむることあるが為めである。

しかし、南京の日本軍は ゲリラ/武器を捨てた敗残兵/一般市民 をきちんと判別するどころか、「青壮年は凡すべて敗惨兵又は便衣隊と見做し凡て之これを逮捕監禁すべし」(歩兵第六旅団長による「掃蕩実施に関する注意」[7])という乱暴さで「残敵掃蕩」を行い、裁判など一切行わずに即決処刑してしまった。当時の国際法にも明白に違反する戦争犯罪である。

このときの様子を、ダーディン記者が次のように書いている。[8]

 南京の男性は子供以外のだれもが、日本軍に兵隊の嫌疑をかけられた。背中に背嚢や銃の痕があるかを調べられ、無実の男性の中から、兵隊を選びだすのである。しかし、多くの場合、もちろん軍とは関わりのない男性が処刑集団に入れられた。また、元兵隊であったものが見逃され、命びろいをする場合もあった 。

卑劣だったのは、小林の言うような、軍服を脱いで逃げる以外に生き延びる手段のなかった中国兵たちではない。捕虜も敗残兵も、兵士と誤認した一般市民まで平然と皆殺しにした日本軍であり、また、そんなクソ軍隊を正当化しようと史実を歪める歴史修正主義者の方である。

[1] 南京事件調査研究会編 『南京大虐殺否定論13のウソ』 柏書房 1999年 P.165-166
[2] 小林よしのり 『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』 幻冬舎 1998年 P.129
[3] 南京事件調査研究会編 『南京事件資料集 ①アメリカ関係資料編』 青木書店 1992年 P.436-437
[4] 南京戦史編集委員会編 『南京戦史資料集』 偕行社 1989年 P.326
[5] 同 P.667-674
[6] 『南京大虐殺否定論13のウソ』 P.166-167
[7] 『南京戦史資料集』 P.551
[8] 『南京事件資料集 ①アメリカ関係資料編』 P.437