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沖縄で米軍の捕虜になった日本兵の悔恨

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8月15日の東京新聞に、沖縄戦で米軍の捕虜となった元日本兵のインタビュー記事が載っていた。[1]


 戦地で見た地獄絵図が、今もまぶたに焼き付いている。群馬県伊勢崎市の栗原夏雄さん(九九)は日中戦争で、軍命に従い捕虜を拷問し、銃殺した。沖縄戦では米軍の捕虜となったが、非人道的な扱いはされず、日本軍の残虐さを思い知った。命のともしびの弱まりを感じる今、若い世代に伝えたい。

「戦争は個人の尊厳や意思すら奪う。二度とやっちゃいけない」

 太平洋戦争末期の一九四五年四月、爆弾を積んだ小型特攻艇「マルレ」の部隊員として沖縄戦に従軍した。海を埋め尽くすほど無数の米軍艦が島を取り囲み、艦砲射撃と空爆を容赦なく浴びせる。島にはおびただしい数の遺体が転がっていた。

(略)

 戦況が悪化し、本島南部で米軍に捕らえられた。「捕虜は無残に殺される」。そう信じ込んでいたが、収容所では手錠をかけられることもなく、パンやチーズなど三度の食事に加え、たばこやベッドも与えられた。このとき初めて、自分が中国人捕虜にした行為を体が震えるほど後悔した。

(略)

 戦後、沖縄を訪れ、多数の住民が巻き込まれたと知り、何度も犠牲者に手を合わせてきた。中国での体験から、日本兵が「拷問される前に自決しろ」という思想を住民にも強要したのではないかと悔やむ。「当時は自分が生きることで精いっぱいで住民を守る意識すらなかった」としわが刻まれた手で涙を拭った。

沖縄戦を戦った日本軍は第二四師団、第二八師団、第六二師団、歩兵第三六連隊、独立混成第四四、第五九、第六〇旅団などから構成されていたが、このうち独立混成第四四旅団以外はいずれも中国戦線から転用された部隊だった。中国での戦闘体験を持つ兵士たちは、自分たちが中国でしてきたような行為を今度は米軍からやられると考え、住民にもそれを伝えた。

中国から沖縄に転戦した兵士14人から聞き取りを行った国森康弘氏は次のように書いている。[2]

 高島氏が語るように、中国に駐屯した部隊では、生きた捕虜を初年兵に刺殺させたり、首を斬ったりすることがまかり通っていた。集落に討伐へ行けば、強盗、強姦、殺人は日常茶飯事だった。今回の聞き取りを通じて証言を聞いたなかだけでも、中国から沖縄に転戦した兵士一四人のうち、自身が中国で捕虜を刺殺したと明言した証言者は六人。さらに集落への討伐の際、逃げ遅れた住民を何らかの形で殺したと明かした人は三人いる。加えて、実行はしていないが、戦友や先輩兵らによる斬首や刺突殺人を目撃した人がさらに六人いた。言葉を濁した人もいる。実際にはそのような体験があっても証言しなかった人もいるだろう。これらの数字からは、日本兵の中国での戦闘以外における殺人経験の割合の圧倒的な高さが窺える。

 また、自身の強姦・輪姦を証言した証言者も二人いる。別の一人は、日本軍の襲撃から逃げ遅れた母と息子に無理やり性行為をさせたと明かす。

 (略)「自分たちが当たり前のように中国でやってきたことだから、米軍の捕虜になっても当然同じ扱いを受けると思った」。証言した元兵士は口々に言う。彼ら兵士の口から、その“誤信”が住民にも伝えられた。

 こうして、自国民を捕虜にさせたくない軍上層部の目論見と、中国人捕虜を虐殺してきた末端将兵の経験が入りまじって増幅しながら、「捕虜になっては殺される」「捕まる前に自決せよ」という考えが沖縄住民に深く浸透していった。そして、捕虜になれない住民に、日本軍は手榴弾を手渡した。それが何を意味したのか。

これを裏付ける住民側の証言も多数ある。以下は集団自決の発生した伊江島住民の証言。[3]

 山城悦さんの証言によると、兵隊たちが「負けたらどんなに惨めなことになるか、と自分たちの中国での体験を引きあいに出して話していました。その内容は、今でも口にしたくないのですが、とにかく、この兵隊たちは中国の人たちにたいして、ずい分とひどいことをしてきたのですね。それをとくとくと話しながら、負けたらこうなるのだ、だから、万が一負けるようなことにでもなれば、婦女子を殺して、自分たちも死ぬのだ、などといっているのです。そのとき、私は、兵隊たちの中国での体験談にたいして、もう止してくれ、それが人間のすることか、そんな話は聞きたくない、といってやりました」(沖縄県史10 649頁)と語っている。

 女子救護班に動員されていた大城シゲさん(17歳)たちは、「米兵に捕まったら若い女性は強姦される、というような話を壕掘りなどの作業に出ている時にも兵隊たちからよく聞かされていました。(略)日本兵が中国の人たちを強姦した話は支那事変の帰還兵だった伊江島出身のゲンエイさんが『若い人は皆強姦されよった』と話していましたから、これを聞いて、生き残ったら大変と思い、早く死なないといけないと思っていました」と語っている。(略)

こちらは沖縄本島読谷村住民の証言。[4]

 翌二日(注:1945年4月2日)、米軍がやってくると、壕内で「自決」がおこなわれた。一八歳の少女が米兵に強かんされるよりは、と母親の手で包丁を使って死んでいった。また元従軍看護婦が「軍人はほんとうに残虐な殺し方をするよ。うちは中国でさんざん見ているから、よく知っている」と言って、毒薬を親戚に注射して「自決」を始めた。さらにガマの途中のくびれたところに布団を重ねて火をつけて「自決」を主導したのは、中国従軍の経験がある元兵士だった(下嶋哲朗100-128頁、読谷上468頁)。

 チビチリガマには米軍上陸直前まで日本軍がいたが、このときにはすでに後退していなかった。元中国従軍兵士と元中国従軍看護婦が日本軍の代弁者の役割を果たし、「自決」を主導した。この看護婦の知花ユキさんは、満州で看護婦をしていたことがあり、沖縄に戻ってきてからは、北飛行場で日本軍の看護婦をしていた。彼女は大山医院の看護婦だった玉城スエさんに、「(略)もし戦争に負けることになったら、生きるんじゃないよ。自分で死んだほうがいい、捕虜になったら虐待されて殺されるんだから」と言って、満州で支那事変帰りの兵隊に聞いた「戦場での女の哀れ話」を話して聞かせたという(読谷下693頁)。中国での日本軍による残虐行為の経験が、若い女性を死へと追いやったのである。

沖縄戦では米兵による強姦や住民虐殺も発生したが、大抵の場合、投降した兵士や住民は人道的に扱われた。一方、中国で日本軍がやってきたことは、米軍のそれとは質量ともに比べ物にならない、桁外れの残虐行為だった。彼らが実体験を根拠に語るリアルな恐怖が、米英は「鬼畜」と洗脳されていた沖縄住民を精神的に追い詰め、大量の「集団自決」(強制集団死)につながったのだ。

[1] 『捕虜銃殺 一生の後悔 群馬の99歳「戦争は尊厳や意思奪う」』 東京新聞 2020/8/15
[2] 国森康弘 『証言 沖縄戦の日本兵』 岩波書店 2008年 P.44-45
[3] 林博史 『沖縄戦 強制された「集団自決」』 吉川弘文館 2009年 P.47-48
[4] 同 P.52

 

証言 沖縄戦の日本兵―六〇年の沈黙を超えて

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  • 作者:國森 康弘
  • 発売日: 2008/12/19
  • メディア: 単行本
 
沖縄戦 強制された「集団自決」 (歴史文化ライブラリー)