読む・考える・書く

マスコミやネットにあふれる偏向情報に流されないためのオルタナティブな情報を届けます。

「戦争経験世代がいなくなったら日本の平和は恐ろしいことになる」のは長年の自民党による教育政策の結果

昨日のTBS「報道特集」で、自民党の元議員古賀誠が、戦争へと傾斜していくこの国への危機感を語ったという。

同じようなことは、かつて故・田中角栄元首相も言っていた。

戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。だが戦争を知らない世代が政治の中枢になった時はとても危ない。

古賀らの言っていることは確かに真っ当なことではあるのだが、戦争経験世代がいずれ政界からも社会からもいなくなるのは最初からわかっていたことだ。だからここで問われるべきなのは、そうした危惧を抱いていたはずの「先輩たち」や古賀氏は、その必然的にやって来る未来に備えて何かしてきたのか、ということだ。

世代を越えて戦争の愚かさを伝えていく手段は教育しかない。逆に言えば、明治維新以来の日本が周辺アジア諸国に対して何をしてきたのか、どのように愚かな侵略戦争を仕掛け、その帰結としての壊滅的敗戦に至ったのかをしっかりと戦後世代に教育していれば、戦争経験世代がいなくなることなど何ら恐れる必要はなかったはずなのだ。

しかし、歴代自民党政権(「保守合同」前の自由党や日本民主党も含む)がやってきたことは、これとは真逆の教育政策だった。

サンフランシスコ条約で日本が「独立」を回復した翌年の1953年、第5次吉田内閣は大達茂雄を文部大臣として入閣させた。大達茂雄は1942年、日本軍占領下の昭南特別市(シンガポール)の市長兼陸軍司政長官となり、暗黒時代のシンガポールの行政を牛耳っていた人物である。その後は東京都長官として必要もないのに動物園の猛獣虐殺(「かわいそうなぞう」で描かれたあれ)をやり、また小磯内閣では内務大臣として特高警察を使った共産党員や民主主義者の弾圧を指揮している。

その大達は文部大臣になると教育などとは何の関係もない二人の特高官僚を事務次官と初等中等局長に抜擢し、教師たちが自主的に作っていた民主的教材への攻撃や、警察や公安調査庁を利用した教員の思想調査と恫喝、教員の「政治的行為」を処罰する「教育二法」の立法、教育の民主性を担保していた教育委員会の公選制廃止といった反動的教育政策を推進した。[1]

こうして形作られた文部省の反動体質はその後も延々と引き継がれ、自民党と連携しながらまともな歴史認識の形成を妨害し続けてきた。

そのために使われた手口の一つが、縄文時代から江戸時代までに過剰な教育内容を詰め込み、近現代史に入る前に時間切れにしてしまう歴史教育のカリキュラム構成だ。[2]

 戦後の日本人は、現代史、中でも戦前に日本人が、韓国・中国・他のアジア各国でどんなことをしてきたか教えられて来なかった。

 私自身の経験から言うと、私は一九六二年に高校を卒業したが、小学校・中学校・高校までの学校の授業で現代史を教えられた記憶がない。日本史の時間となると、平安時代に異様に長い時間を費やし、江戸時代も最初の部分を過ぎると、駆け足で進み、三学期になってようやく明治維新に入る。明治維新についてもその意義など教わらず、ただ明治の元勲と言われる人の名前を教わるだけである。

 そして、明治維新が終わると、三学期も終わりになり、昭和の時代以降は「自分で勉強しておきなさい」と言うことになる。

 これは、私だけでなく、色々な学校を卒業した人間に尋ねたが、私より一〇年近く若い人達も同じことだった。

 これでは、よほど意識の高い生徒でなければ、昭和の日本がアジア各国に侵略した事実など思い浮かべられる訳がない。

 日本が韓国や中国に明治以降どんなことをしてきたかきちんと知っている人は、意識を高く持っていてきちんと日本の現代の対アジア史を知ろうと努めている人だけである。

そしてもう一つは、教科書検定という名の検閲によって、教科書から都合の悪い内容を排除してしまうことだ。こうすれば、たとえ歴史の授業で習えなかった部分を自習しても、朝鮮植民地支配も南京大虐殺も三光作戦も731部隊も日本軍性奴隷(いわゆる「従軍慰安婦」)もその実態を知ることができなくなる。

近現代史についての基本的知識を欠いているから、「ネットde真実」みたいなインチキにも簡単に引っかかる。いわゆる「普通の日本人(ネトウヨ)」の出来上がりである。

改めて問うが、古賀らの「良心的自民党議員」たちは、戦後世代の歴史認識をまともなものにしていくための努力を何かしてきたのか? 古賀など、靖国神社総代とか「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」会長といった経歴からして、むしろ逆方向のことばかりやってきたのではないのか?

故・野中広務や古賀誠などは、確かに自民党議員の中では良識派と言っていいのだろうが、むしろ自民党に対して間違った期待を抱かせる(そして入れるべきでない票を入れさせる)原因にしかなっていないのではないか。

[1] 柳河瀬精 『告発!戦後の特高官僚』 日本機関紙出版センター 2005年 P.66-68
[2] 雁屋哲 『戦争の記憶』 Let’s(日本の戦争責任資料センター)2013年3月号 P.3-4

 

 

ホロコースト博物館長の警告

ホロコースト博物館が提供する警察官教育プログラム

今年1月27日はソ連軍によるアウシュヴィッツ強制収容所の解放から75年目の節目ということで、この日に合わせてホロコースト関連の新しい記事がいくつか出ている。

その中で、クーリエ・ジャポン掲載の、ホロコースト記念博物館(米ワシントン)館長サラ・ブルームフィールド氏へのインタビュー記事が興味深い内容だったので引用する。

ホロコースト博物館館長が“ファシズムの前兆”に警鐘を鳴らす
「ナチスは突然、空から降ってきたわけではない」

1/27(月) 11:30配信


2020年はアウシュヴィッツ強制収容所の解放から75年の節目にあたる。私たちはあのおぞましい歴史から何を学ぶべきなのか? いま再び世界のさまざまな場所で、特定の人種や属性に対する憎悪感情が表出していないだろうか?

米ワシントンにあるホロコースト記念博物館館長サラ・ブルームフィールド(69)は、「ナチスは降ってわいたのではない。大量虐殺には前兆があるし、ごく普通の人が残虐行為に手を染める可能性がある」と警鐘を鳴らす。

(略)

私たちは来館者から多くのことを学んでいます。それがよくわかるエピソードをお話しましょう。

開館初期に、博物館の可能性にスタッフの考えが及んでいなかったと気づかされた出来事があります。チャールズ・ラムジーがワシントンの警察署長だったときのことです。

ワシントンが“殺人の首都”と呼ばれていた頃、彼が新しい警察署長に就任しました。ラムジー署長が来館した際、彼は最後に自分自身に対して素晴らしい疑問を投げかけました。

「私と同じ職業の人々が、この博物館にある多くの写真に写っていた。警察は当時どんな役を担い、どう関与していたのか」と。

当館はラムジー署長と「名誉毀損防止同盟」(米最大のユダヤ人団体)と協力し、新人警官がホロコーストの歴史と治安維持の使命を学ぶためのプログラムを開発しました。平凡な警官が時間の経過とともに次第にナチスの政策に加わることになった経緯を、教えたのです。

これが成功し、いまでは法執行機関を対象にした大規模なプログラムへと発展しています。このように、一人の来館者が私たちには思いもよらなかった博物館の可能性を見出してくれたのです。

弁護士や裁判官も、ナチス主義とホロコーストにおいて重要な役目を担いました。そのため現在、同様のプログラムを裁判官にも実施しています。また、米軍にも専用プログラムを提供しています。

ブルームフィールド氏が指摘するとおり、警察など法執行機関の人々が過去の歴史を学び、自分たちの先輩世代がなぜ、どのような過ちを犯したのか、そうした過ちを繰り返さないためにはどうすればいいかを考えることは、とても重要なことだ。

日本の警察官教育はヘイトを植え付けるカルト教育

では、日本における警察官への教育はどうなのか。これが、まさに「期待を裏切らない」とでも言うべきか、まったくの逆なのだ。

lite-ra.com

(略)彼らは、基地反対派にかぎらず、共産党、解放同盟、朝鮮総連、さらには在日外国人などに対しても、聞くに堪えないような侮蔑語を平気で口にする。我々の前でもそうですからね。これにはもちろん理由があって、警察では内部の研修や勉強会、上司からの訓示など、さまざまな機会を通じて、警察官に市民運動やマイノリティの団体、在日外国人などを『社会の敵』とみなす教育が徹底的に行われるからです。その結果、警察官たちには、彼らに対する憎悪、差別意識が植え付けられていく。(略)

 実は、こうした警察の“差別思想養成教育”の存在を裏付けるような話をキャッチした。警察では「専門の雑誌を使って、極右ヘイト思想を警察官に植え付けている」というのだ。

 その専門の雑誌というのは「BAN」(株式会社教育システム)。聞きなれない名前だが、警察官しか読むことのできない警察官のための月刊誌だという。

(略)

 歴史認識に関しては、15年6月号から同年12月号にかけても複数執筆者による「戦後70年シリーズ~戦後史はここから始まった~」なる連載を行っているのだが、その執筆陣は、戦前の修身教育復活を提唱する小池松次氏、戦後日本や憲法への攻撃を繰り返す作家の吉本貞昭氏、そして保守系コミンテルン陰謀史観でおなじみの倉山満氏だ。

(略)

 他にも、「BAN」の過去3年間の寄稿者をあげていくと、一色正春氏(元海上保安官)、潮匡人氏(評論家)、加瀬英明氏(外交評論家)、河添恵子氏(作家)、黄文雄氏(評論家)、渡邉哲也氏(経済評論家)……などなど、タカ派国防論者から日本スゴイ本やヘイト本著者、日本会議代表委員、さらにはネトウヨツイッタラーまで勢揃い

 しかし、一番驚かされたのは、06年11月号の特集「外国人犯罪の現場」だ。なんとこの特集に、近年のヘイトデモの中心人物のひとりである瀬戸弘幸氏を登場させ、持論を展開させているのだ。

 瀬戸氏はネオナチ思想に傾倒し、在特会の桜井誠元会長や、主権回復を目指す会代表の西村修平氏らとともに、「行動する保守」を名乗る運動を牽引してきたキーパーソンで、「NPO外国人犯罪追放運動」なるヘイト団体の顧問も務めている。2010年代に各地のヘイトデモが社会問題化するなか、警察はなぜヘイトスピーチの被害者ではなくヘイトデモ隊を守るのかと批判が殺到していたが、ヘイトデモの代表的存在が警察専門誌に登場していたのだとすれば、それも納得がいく。

ネオナチやヘイト団体などの反社集団に対する警察の態度が、ドイツなどの真っ当な先進国と日本で真逆になるのも、これでは当然だろう。

反省なき国はまた過ちを繰り返す

お隣の韓国でも、かつての軍事政権時代の過ちを象徴する施設が、加害者である警察自身の手によって公開されている。しかし日本には、特高警察や憲兵隊の暴虐を伝える博物館など一つもない。

敗戦後、この国を破滅に追い込んだ責任者たちを根絶せず、それどころか易易とその復活を許した日本では、ブルームフィールド氏が指摘するファシズムの初期兆候がすべて揃っている。このままではいずれまた同じ過ちを繰り返すことになるだろう。

集団虐殺が起きる前兆とは?

ナチスは1933年1月に突然、空から降ってきたのではありません。その根源はドイツの歴史をさかのぼれば見えてきます。19世紀にはすでに後のナチスにつながる多くの要因が存在しました。

同様のことが、私たちが生きているこの瞬間にも当てはまります。今日の社会が抱える問題は、昨日あるいは昨年に端を発しているわけではありません。

人間は弱い生き物であることを、私たちは忘れてはいけません。

(略)

──集団虐殺を阻止する方法はありますか?

発生以前の初期兆候は確認できます。過去の事例を見れば、集団的な暴力が起きるまでの長い間に、政府が差別を合法化したり、対立を助長したりしています。国家によるメディア操作もあります。

これらの条件がすべてそろったとき、集団虐殺に発展するのです。

「普通の日本人」はとにかく正義が嫌いらしい

痴漢容疑者を取り押さえようとして重傷を負わされた被害者を嘲笑する人々

2月17日、都営地下鉄駅で、痴漢容疑者を取り押さえようとした男性が階段下に転落させられ、一時意識不明の重体になるという事件が起こった。

www.sankei.com

 駅構内の階段で男性を転落させ、意識不明の重体にしたとして、警視庁神田署は17日、傷害容疑で、元警視庁警護課SP(セキュリティーポリス)の会社員、品田真男容疑者(52)=千葉市若葉区原町=を現行犯逮捕した。品田容疑者は当時、電車内で10代少女への痴漢行為を疑われ駅構内を逃走していたという。(略)

 逮捕容疑は17日午前7時ごろ、東京都千代田区神田神保町の都営新宿線神保町駅構内の階段で、自身を捕まえようとした20代男性を階段下に転落させ、頭蓋骨骨折などのけがを負わせて意識不明の重体にしたとしている。

重傷を負わされたこの男性にはお気の毒としか言いようがない。一日も早い回復を願うばかりだが、驚いたことに、この男性のお連れ合いがTwitterに状況報告のツイートをしたところ、誹謗中傷が殺到し、ついに彼女はアカウントに鍵をかけざるを得なくなった。

実際こんなツイートが。。(ほんの一例)

さらに、こんなこと↓をお連れ合い本人に向かって言えるとは、どういう神経をしているのだろうか。

危険を省みず容疑者に立ち向かった男性が「正義マン」?

ここで気になるのが、この男性を嘲笑するのに「正義マン」という言葉が使われていることだ。

もともと「正義マン」とは、例えば昨年10月からの消費税増税で、購入した食品を持ち帰る場合は軽減税率の8%、しかし店内で食べるなら10%というルールが導入された結果、店内で食べると言わずに購入した食品を店内で食べている客を「イートイン脱税」だとして店員にチクる迷惑な人々などを揶揄する言葉として使われていた表現だ。

この例で言えば、そもそもコンビニのように購入した食品を持ち帰ることも店内で食べることもできる業態の店が街にあふれている中で、持ち帰るか食べるかでいちいち税率を変えるなどという馬鹿げたルールが混乱を招いているのであって、頼まれてもいないのにそんな謎ルールへの「違反」を監視して「摘発」する、独りよがりな「正義」の押し付けが笑われていたのだ。

その同じ言葉が、逃げる痴漢容疑者(元SPだというのだから格闘のプロ)に立ち向かって不幸にも重傷を負った被害者に浴びせられている。

さらに、この人だけでなく、2018年に起きた新幹線車内殺傷事件の被害者男性も「正義マン」呼ばわりされていたという。

「普通の日本人」は正義が嫌いになるよう教育されている

こうした勇気ある被害者を「正義マン」呼ばわりしているアカウントの中身を見に行くと、聞かれれば「右でも左でもない普通の日本人」だと答えそうな人が多い。

彼らは、なぜこうした被害者が嫌いなのだろうか。

「イートイン脱税」の例が示しているように、本来の意味での「正義マン」とは、もともと理不尽な「村の掟」レベルのルールや、独りよがりな「俺様ルール」を強引に押し付ける人間のことだ。彼らが無理強いするものが実際には正義などではないからこそ、「正義マン」と揶揄されているのだ。

そんなはた迷惑な人たちと、危機的な状況の中、危険を省みず正しいと信じる行動をとった勇気ある人々を同一視してしまうのはなぜなのか。彼らには、「村の掟」レベルの理不尽なルールと普遍的正義の区別がついていないのではないか。

考えてみれば、この国には、正しかろうが正しくなかろうがとにかく決められたことに従え、と押し付けられるルールが多すぎる。典型的なのが、生まれつき茶髪の生徒の髪を黒く染めさせたり天然パーマの女生徒に直毛パーマを強制する校則などだろう。

その上、例えば「星野君の二塁打」のように、自ら考えて正しいと思える行動を取るのでなく、上位者の言うことに黙って従え、という奴隷の思想が「道徳教育」と称して注入されている。

president.jp

教育行政に詳しい寺脇研氏は「この教材は、作者の意図と異なり、『守るべき規範』を押し付けるものになっている」と指摘する――。

(略)

 ある教科書を見ると、この「星野君の二塁打」というタイトルの横には「チームの一員として」というキャッチが添えられており、さらに上部には「よりよい学校生活、集団生活の充実」という表記がある。

 これは、学習指導要領に掲げられた小学校高学年用の項目名そのもので、その指導内容である「先生や学校の人々を敬愛し、みんなで協力し合ってよりよい学級や学校をつくるとともに、様々な集団の中での自分の役割を自覚して集団生活の充実に努めること」を教えるために、この「星野君の二塁打」の話を入れましたよ、ということをわざわざ念押ししているのだ。

 これを前提に子どもたちに議論させたならば、どういうことが起きるか。「星野君は間違った。悪いことをした」「監督の指示は絶対。それを守らなかった星野君が悪い」という意見が圧倒的に多くなるのは明らかだ。

こんな教育を受けて育てば、表面的には押し付けられるルールにおとなしく従いながらも、そんなルールを憎むようになるのは当然だろう。しかも、何が正しいことなのかを自分で考えないように仕向けられているのだから、理不尽な「村の掟」と正義の区別もつかなくなる。

その結果が、自ら信じる正義に従って行動した人々への憎悪なのではないか。さらには、ルールがどうこうではなく何が正しいことかを自ら考え行動するという、自分にはできないことができる相手への嫉妬もあるだろう。

何かというと「正義の暴走ガー」とか言いたがる連中が湧いてくる現象も同根なのではないか。権威主義的なこの国の教育が、正義を憎悪する「普通の日本人」を量産しているのだ。

【関連記事】

【トンデモ】中学校の道徳の授業で特攻隊を礼賛?!【世も末】

特攻隊を美化するバカウヨは珍しくもないが、先日、中学校の、それも道徳の授業でそれが行われているという話が流れてきたのには驚きかつ呆れた。

この授業では、「特攻の父」大西瀧治郎中将の言葉や特攻隊員の遺書などを題材に、特攻隊が犠牲となってくれたおかげで今の日本がある、といった類のありふれた詭弁が垂れ流されたようだ。

ネタかと思ったのだが、この投稿者のTLを辿ってみると、とても大人が中学生を装って書いたとは思えない発言が並んでいるうえ、実は同じような授業が以前から行われていることを既に産経が報道していた。

授業で使われている遺書もまったく同じものであり、もしかするとこの授業内容がテンプレ化されて流通しているのかもしれない。

このようなお涙頂戴の情動的教育、それも理不尽な作戦によって死を強制された被害者の思いを悪用するような教育にさらされ続けると、物事の原因と結果を正しく認識して論理的に考えることができなくなってしまう。実際、同じ投稿者の下記のツイートには頭を抱えてしまった。

特攻によって米軍を撃退し戦争に勝ったとでもいうならともかく、現実には特攻では正規空母一隻すら沈めることができないまま敗戦に至ったのだから、特攻のおかげで生まれた日本人などいない。いるのは、親となるべき若者が特攻させられたせいで生まれることができなかった何千人者もの隊員の子どもたちと、親が特攻させられる前に敗戦を迎えたおかげで生まれることのできた子どもたちだけである。

特攻に関して「道徳の授業」で教えるべきことがあるとしたら、それは自殺攻撃させられた特攻隊員の遺書などではなく、こんな狂気の作戦を立案し推進した責任者たちが、その後どうしたかだろう。


ところで、徳島大学総合科学部の饗場和彦教授が、問題の道徳授業についても取りあげた講義用のスライドを公開してくれている。

 特攻隊の遺書による授業にも、「火垂るの墓」の自業自得論にも、「それはそうだけど、なんかなあ…」と、違和感もった人いますか?
 その違和感が重要です。
 二つの例とも同じ特徴があります。
 部分だけとらえて全体を見失った判断にとどまっている、という点です。
 確かに特攻兵士がわが子を思う心情には感動しますが、なぜ兵士は愛する子をおいて死ななければならなかったのでしょうか。
 確かに兄妹は親戚宅にいれば助かったかもしれませんが、なぜ兄妹は孤児になってしまったのでしょうか。

 つまり、戦争の実態について、文脈・大局が看過されているのです。
 各部分にはそれぞれ一定の意味や合理性はありますが、そこだけ抽出して判断が止まると、ことの本質を見誤ります
 「木を見て森を見ざる」の不適切な判断。戦争と平和の問題について、こうした近視眼的・視野狭窄の見方が最近多い。

大学生向けなのでちょっと難しいかもしれないが、例の投稿者には、これでも読んで手遅れになる前に考え直して欲しいと願うばかりだ。

【関連記事】

 

特攻――戦争と日本人 (中公新書)

特攻――戦争と日本人 (中公新書)

 
不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか (講談社現代新書)

不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか (講談社現代新書)

 

中学校からやり直すべきレベルの執筆者が教科書を書き、同レベルの検定官がこれを合格させている

先日、「あいちトリエンナーレ2019」の件で百田尚樹と産経が「表現の自由」や「公共の福祉」についてバカなことを言っていたので批判しておいたが、今度はまったく同じ屁理屈が中学校向けの教科書に書いてあるというツイートが流れてきた。

書かれている内容はこれ:

公共の福祉による制限

 憲法は、国民にさまざまな権利や自由を保障していますが、これは私たちに好き勝手なことをするのを許したものではありません。

 憲法は、権利の主張、自由の追求が他人への迷惑や、過剰な私利私欲の追求に陥らないように、また社会の秩序を混乱させたり社会全体の利益をそこなわないように戒めています。

 憲法に保障された権利と自由は、「国民の不断の努力」(12条)に支えられて行使されなくてはなりません。憲法では、国民は権利を濫用してはならず、「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任」があると定めています(12条)。

理解を深めよう:権利と権利の対立と合意

 集団生活では、ときに自分の権利が他人の権利とぶつかること(対立)があり、両者の間で解決をはかる(合意)必要が生じます。

 例えば、表現の自由のために他人の私的生活を傷つけることは許されません。また、社会全体の秩序や利益を侵す場合には、個人の権利や自由の行使が制限されることもあります

 人々が公共生活を営んでいることに配慮し、権利や自由を行使する必要があります。それは、社会のルールを守り全体の調和を考える中で個人の自由や権利は実現される、という歴史の教訓に基づいたものだといえます。

これはひどい。

憲法12条に言う「国民の不断の努力」とは、憲法が保障する人権や自由が権力によって侵害されないよう、常に主権者である国民が権力を監視し、権利を主張し続けなければならない、という意味での「努力」だ。また「公共の福祉」による制限とは、権利の行使が他者の人権を侵害してはならない、という意味であって、「社会全体の秩序や利益(それを誰が決めるのか?)」を理由に人権が制約されることなどあってはならないのだ。

これらの根本的なポイントを、この「教科書」はまったく逆の意味に捻じ曲げてしまっている。

以下、法学館憲法研究所の「日本国憲法の逐条解説」から引用する。

第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

人権が生まれた国イギリスでも当初、人権はイギリス人の権利でしかありませんでした。フランス人権宣言ですら、そこでは男性しか想定されていません。つまり、人権は、歴史的に見れば人類の普遍的な価値ではありませんでした。人類が過去幾多の試練の中から勝ち取り、普遍的な価値であるべきだと主張し、拡大し続けてきたものなのです。ですから、私たちが権力などの強い力を持ったものに対して人権を主張し続けなければ、人権など消えて無くなってしまいます。私たちが日々の生活の中で主張し続け、実践し続けることによってやっと維持できるものなのです。
もちろん、他人に迷惑をかけたり、自分勝手が許されるわけではありませんから、公共の福祉のために一定の制限は受けます。この「公共」(public)とはpeopleと同じ語源を持つ言葉であり、人々を意味します。けっして天皇や国を意味する「公」や抽象的な国益のために人権制限が許されるわけではありません。

この「教科書」の執筆者は、百田や産経と同様、中学校から社会科を勉強し直さなければならないレベルだ。そんな人物があろうことか教科書を執筆し、南京大虐殺や日本軍性奴隷(いわゆる「従軍慰安婦」)については歴史修正主義者の妄説を根拠に検定を通さない文科省が、こんなトンデモ教科書を易易と合格させている。

こんな教科書で子どもたちに間違った憲法理解を注入することを許してはならない。

【関連記事】

 

告発 戦後の特高官僚 反動潮流の源泉

告発 戦後の特高官僚 反動潮流の源泉

 

教育勅語復活への反対=徳目全部に反対の犯罪者、という典型的ウヨコメントへの回答

教育勅語を復活させて道徳教育に組み込もう、あわよくばこれを教育全体の基本方針にしてしまおう、という極右政権の策謀に反対すると、お前は勅語の教える12の徳目すべての逆をやるつもりなのかとか言ってくる人がいる。

元ネタは「逆教育勅語」とかいうモノらしい。

この字面をなぞるだけの短絡的な反応を見ても、彼らはなぜ教育勅語が戦後すぐ無効とされたのか、なぜその復活を図る策謀への反対があるのか、まったく理解していないことが分かる。


やはりと言うべきか、本ブログの教育勅語関連記事にも、こんなコメントがついた。

次の12項目を「教育勅語の12徳」といいます。
1.孝行⇒子は親に孝養を尽す。
2.友愛⇒兄弟姉妹は仲良く。
3.夫婦の和⇒夫婦はいつも仲睦まじく。
4.朋友の信⇒友達はお互い信じ合ってつき合う。
5.謙遜⇒自分の言動を慎む。
6.博愛⇒広くすべての人に愛の手を差し伸べる。
7.修学習業⇒勉学に励み職業を身につる。
8.智能啓発⇒知徳を養い才能を伸ばす。
9.徳器成就⇒人格の向上に努める。
10.公益世務⇒広く世に中の人々や社会の為になる仕事に励む。
11.遵法⇒法律や規則を守り社会の秩序に従う。
12.義勇⇒正しい勇気をもってお国の為に真心を尽くす。
これらに全て反対って、法律は刑法も憲法も守る気が無い犯罪者って事ですが??

なので、こんなことを書いてしまうような人にも分かるように、逐条的に回答しておこう。

次の12項目を「教育勅語の12徳」といいます。

まずそもそもの前提として、教育勅語は「皆さん、こういうことを心がけて良い人生を送りましょう」などという標語ではない。歴史の初めからこの国は自分ら(天皇家)のものだと称する天皇睦仁が、家来だとする人民に忠節を要求し、自分らの役に立つ「忠良ノ臣民」となるためにこれらの「徳目」を守れ、と命令するものだ。この点をはき違えてはならない。

従って、この命令に対して民主主義社会に生きる者としてすべき回答は次のようになる。

1.孝行⇒子は親に孝養を尽す。
2.友愛⇒兄弟姉妹は仲良く。
3.夫婦の和⇒夫婦はいつも仲睦まじく。
4.朋友の信⇒友達はお互い信じ合ってつき合う。

お前(天皇)にそんなことをいちいち指図される筋合いはない。他人の家庭や人間関係に口を出すな。

6.博愛⇒広くすべての人に愛の手を差し伸べる。
7.修学習業⇒勉学に励み職業を身につる。
8.智能啓発⇒知徳を養い才能を伸ばす。
9.徳器成就⇒人格の向上に努める。
10.公益世務⇒広く世に中の人々や社会の為になる仕事に励む。

同じく、お前(天皇)にそんなことをいちいち指図される筋合いはない。他人の人生に口を出すな。

5.謙遜⇒自分の言動を慎む。

理不尽なことには声を上げ、議論を尽くして解決を図るのが民主主義社会のあるべき姿。分をわきまえて黙っていろなどという者は社会の敵だ。

11.遵法⇒法律や規則を守り社会の秩序に従う。

まともな法律もそうでないものも一緒くたにしているところが詐術。まともな法律に従うのは当然としても、それが正しく運用されているかは常に監視しなければならないし、ましてや正義に反する法(例:治安維持法)には反対し、これを変えさせるのが民主主義社会に生きる市民の義務。それを、法律どころか「お上」が一方的に決めた「規則」「秩序」にまで黙って従えなどというのは言語道断。

12.義勇⇒正しい勇気をもってお国の為に真心を尽くす。

勅語にそんなことは書かれていない。書いてあるのは「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」、つまり「戦争になったら一命をなげうって皇室の繁栄のために奉仕せよ」ということ。「お上」が勝手に始めた戦争でなぜ他人と殺し合いをしなければならないのか。まさに言語道断。お前(天皇)にそんなことを命じる資格はカケラもない。

これらに全て反対って、法律は刑法も憲法も守る気が無い犯罪者って事ですが??

以上。あと、ドヤ顔でそんなことを言う前に、そもそも教育勅語自体がド直球の憲法違反であることくらい理解しようね。

【関連記事】

 

戦時下の絵本と教育勅語

戦時下の絵本と教育勅語

 
教育勅語と学校教育

教育勅語と学校教育

  • 作者: 日本教育学会教育勅語問題ワーキンググループ
  • 出版社/メーカー: 世織書房
  • 発売日: 2018/04/10
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る
 

 

あらためて、教育勅語はどこがダメか

柴山文科相、就任会見でいきなりのトンデモ発言

安倍「全員壁際ライトの野球チーム」内閣で文科相に起用された柴山昌彦が、就任会見でいきなり教育勅語を持ち上げるトンデモ発言を行った。

朝日新聞デジタル(10/4)

教育勅語「使える分野は十分にある」 柴山文科相、就任会見で発言

 内閣改造で2日に就任した柴山昌彦文部科学相が会見で教育勅語の認識を問われ、「道徳などに使うことができる分野は十分にある」と述べた。(略)
 発言のきっかけは、柴山氏が8月、ツイッターに「戦後教育や憲法のあり方がバランスを欠いていたと感じています」と投稿したこと。就任会見で趣旨を聞かれ、「戦前は義務や規律が過度に強調されたことへの反動として自由や権利に重きを置いた教育、個人の自由を最大の価値とする憲法が制定された」とし、「権利とともに、義務や規律も教えていかないといけない」と述べた。
 さらに過去の文科相が教育勅語を「(中身は)至極まっとう」と評価したことについて問われ、「現代風に解釈され、あるいはアレンジした形で、道徳などに使うことができる分野というのは十分にある」と発言。使える部分として「同胞を大切にするとか、国際的な協調を重んじるとか、基本的な記載内容」を挙げた。

こんなバカが教育行政のトップになってしまったと嘆くべきか、こんなバカだからこそ安倍が文科相に起用したのだと呆れるべきか、どうでもいいことに悩んでしまうような発言である。

呆れつつもとりあえず突っ込んでおくと、柴山が教育勅語の「使える部分」「基本的な記載内容」だとして挙げた「同胞を大切にする」も、「国際的な協調を重んじる」も、どちらも勅語中には存在しない。つまり、柴山は勅語自体読んでいないか、読んでも内容が理解できなかったか、どちらかだということだ。

繰り返すが、今やこんなのが教育行政のトップにいるのだ。

日本国憲法が保障する「権利」は義務とのバーターではない

ちなみに、柴山が「バランスを欠いて」いる、「権利とともに義務や規律も教えていかないといけない」と言う日本国憲法に書かれている「権利」は、義務とのバーターで与えられるような性質のものではない。「平和のうちに生存する権利(前文)」も、「生命、自由及び幸福追求に関する権利(第13条)」も、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利(第25条)」も、「勤労者の団結する権利(第28条)」も、「裁判を受ける権利(第32条)」も、すべての人に等しく保障されるべき人権であって、商取引の契約書に義務の対価として書き込まれるような「権利」ではないのだ。

なぜかといえば、そもそも憲法とは国家の暴走を防ぎ、権力の行使に枠をはめるためのものだからだ。憲法は恣意的な権力行使によってこれらの人権が侵されることのないよう、最高法規として国家の「やるべきこと」「やってはならないこと」を規定する。これが「立憲主義」である。

柴山も安倍も、明らかに立憲主義を理解していないし、好き勝手な権力行使の邪魔になる日本国憲法(だけではなく近代民主主義国家を成立させる諸原則そのもの)を憎んでいる。今この国では、最も権力を持たせてはならない類の人間が権力を握っているのだ。

あらためて、教育勅語はどこがダメか

そんなウヨ政権が盛んに持ち上げる教育勅語はどこがダメなのか。端的に言えば、歴史の初めからこの国は天皇家のもので(←もちろんウソ)、だからお前たち臣民は天皇に忠義を尽くさねばならないのだと決めつけた上で、最後は「お上」が勝手に始めた戦争に際して「天壌無窮ノ皇運」を支えるためにその命を投げ出せと命じる構造そのものがどうしようもなくクソなのだ。

途中に挟まれるあれこれの「徳目」も、勅語をもっともらしく見せるのと、「朕カ忠良ノ臣民」を効率良く生産するのに都合がいいから入れられているに過ぎない。右派はこれらの「徳目」にいいことが書いてあるから教育勅語を復活させろと言うが、そんなに素晴らしい「徳目」ならそこだけ取り出して標語にでもして普及活動をすればいいのであって、勅語という形式にこだわる必要はないはずである。

実際にはもちろん、絶対的権威である天皇が命じ、臣民は無条件に従って命まで差し出すという勅語の構造こそが、彼らが復活させたいものの正体なのだ。(やるときは、「天皇」を「国」にでも置き換えて「現代風にアレンジ」するつもりなのだろう。)

画像出典:東京新聞 2017年8月28日『こちら特報部』

だいたい、いいことが書いてあるから国家の教育方針に入れるべきというのなら、山口組の綱領もいいことを言っているので、これも教育方針に取り入れてはどうだろうか。

実際、教育勅語とヤクザの掟に大した違いなどないのだから。

【関連記事】

 

「日本スゴイ」のディストピア: 戦時下自画自賛の系譜

「日本スゴイ」のディストピア: 戦時下自画自賛の系譜

 
国家神道と日本人 (岩波新書)

国家神道と日本人 (岩波新書)

 
国家神道 (岩波新書)

国家神道 (岩波新書)