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自衛隊幹部たちのアジア太平洋戦争認識が阿Qの精神勝利法レベルというのはあまりに情けない

PRESIDENT Onlineに「防衛問題研究家(桜林美佐)」が3人の自衛隊元幹部(小川清史 元自衛隊陸将、小野田治 元自衛隊空将、伊藤俊幸 元自衛隊海将)にロシアのウクライナ侵攻や台湾問題について聞く、という記事[1]が載っているのだが、この中で彼らが語っているアジア太平洋戦争認識が唖然とするほどひどい。

【小川(陸)】大東亜戦争(1941~1945年)を例にあげると、アメリカの主な戦争目的は「中国の市場を獲得したい」「フィリピンの植民地を保持したい」それから、「ヨーロッパ正面をドイツの好きにさせない」という3つほどでしょう。

それを評価すると、フランスがドイツに完敗したヨーロッパ正面については、せいぜい引き分け程度。残り2つの目的は達成できていません。つまり、アメリカの目標達成は1分け2敗です。戦争に勝ちにいった結果でそうなってしまった。

一方で日本が目的としたのは、「ロシアの南下を止めたい」、これは江戸時代から変わりません。次に「植民地を解放したい」と「自由貿易体制の確立(ポツダム宣言にも記述あり)」、これは資源がない日本にとっての活路です。そして「民族間の差別撤廃(ヴェルサイユ条約に記述を主張するも却下)」の大きく4つだったのでしょう。

実はこれらの目標は大東亜戦争以降にほぼ達成しているんです、結果的に。つまり、日本の目的達成としては4勝0敗です。

いやまあ、これはもう、どこから突っ込んでいいかわからないほどひどいw

そもそもアジア太平洋戦争を「大東亜戦争」などと呼んでいる時点で彼らの歴史認識の程度はお察しなのだが、まず彼らはアジア太平洋戦争と第二次世界大戦の区別がついていない。日本が米英に奇襲攻撃を仕掛けて始まったアジア太平洋戦争は、第二次世界大戦の一部ではあるが、その名のとおりアジア(中国・東南アジア)と太平洋を戦域とする戦争であって、ヨーロッパ戦線は含まれない。

だから「ヨーロッパ正面をドイツの好きにさせない」はアジア太平洋戦争におけるアメリカの戦争目的ではないし、仮に一億歩譲ってこれを含めたとしても、結局ナチスドイツは壊滅したのだから「せいぜい引き分け」どころか完全勝利だろう。

「フィリピンの植民地を保持したい」もデタラメ。アメリカは既に1934年の時点で10年後のフィリピン独立を約束しており、何もなければ1944年にフィリピンは独立するはずだった。実際の独立は1946年になったが、2年遅れたのは日本がフィリピンを戦争に巻き込んだからである。

ではアジア太平洋戦争におけるアメリカの戦争目的は何だったのか。実際の戦争の経緯が示すとおり、それはアジア太平洋地域から日本という脅威を一掃することだろう。そしてこれには完全に成功した。いや、単に敵国日本を打倒しただけでなく、その後70年以上も経った現在に至るまで、アメリカの言うことには何一つ逆らえない従米国家に改造できてしまったのだから、人類史全体を見渡しても稀な完全以上の勝利と言える。

日本側の戦争目的と称するものもデタラメ。

まず「ロシアの南下を止めたい」だが、当時ソ連はナチスドイツとの血みどろの戦争で国家存亡の危機にあり、南下するどころではなかった。だいたい、ソ連にそんな余裕も意志もないことを確信したからこそ日本は南に向かい、米英との戦争に踏み切ったのだ。

「植民地を解放したい」もデタラメ。

外向けのプロパガンダとして何を言っていたかはともかく、実際の国策である「大東亜政略指導大綱」(1943年5月御前会議決定)には、当時欧米の植民地だった東南アジア諸国のうち、マレーシアとインドネシア主要部(スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島、セレベス海域)は、解放どころか日本の領土に編入してしまうという方針が明記されている。ニューギニア等の地域もいずれ日本領にするつもりだった。ビルマとフィリピンは独立させるとしていたが、「この独立は軍事、外交、経済等にわたり帝国の強力なる把握下に置かるべき独立なる点特に留意を要する」としており(1942年8月「軍政総監指示」)、解放などではなかった。これは南方にも「満洲国」を作りたかったのだと考えればわかりやすい。

そもそも、日本が本当に植民地は解放すべきという崇高な理念を持っていたのなら、まず自国の植民地である朝鮮と台湾を解放して世界に範を示せばよかったではないか。これなら戦争などしなくてもすぐできるのだから。

「自由貿易体制の確立」は「大東亜共栄圏」のことを言っているのだろうが、これは日本を盟主とする日本のためのブロック経済圏であって自由貿易体制などではない。「民族間の差別撤廃」も、朝鮮人や中国人を差別しまくっている奴がどの口で言うのか、で終わりである。

結局彼らは、結果として第二次世界大戦後に植民地の独立や人種差別の撤廃、自由貿易などが進展したのを、事実を捻じ曲げて日本のおかげだったと強弁しているだけだ。実際の戦争目的など何一つ達成することなく壊滅した大日本帝国が「4勝0敗」だったなどと言うのは、惨めな現実を「精神勝利法」で解釈し直してプライドを保っていた阿Qと同じである。

過去を直視できない者は今の現実をも直視できず、もちろん未来など見通せない。

こんな程度の者たちが幹部では、自衛隊は中国どころか、どこの国と戦争になっても敗けるだろう。

[1] 「アメリカは「1分け2敗」、日本は「4勝0敗」…元自衛隊陸将が解説する大東亜戦争の"意外な勝敗" 」 PRESIDENT Online 2022/8/4

 

 

助けて欲しければ家族を捨ててこい、という非人道国家日本

日本政府の「救出作戦」は大失敗

日本政府は8月23日、タリバンが実権を握ったアフガニスタンから日本人やアフガン人現地職員を退避させるため自衛隊機を派遣したが、ほとんど目的を達成できないまま、27日に作戦を事実上終了した。

結局救出できたのは日本人1人とアフガン人14人だけで、大使館やJICA、その他NGOなどの現地スタッフとその家族500人以上が取り残されたままだ。しかも、自衛隊機が運んだアフガン人14人は本来想定していた対象者ではなく、アメリカから輸送を要請された旧政権の政府関係者たちである。[1][2]

作戦は大失敗と言うほかない。

失敗の最大の原因は、タリバンによる検問にはばまれて対象者が空港までたどり着けなかったことだが、空港への移動が難しいのは当初から予想できたことだ。甘い見通しで対策を怠った政府の責任である。

一方、これとは対照的だったのが韓国だ。

韓国も同じように輸送機をアフガニスタンに派遣したが、見事に現地職員やその家族3百数十人の救出に成功した。日本とは違ってそもそも初動が早かった上、米軍の協力を得て安全に検問を通過できる手段を事前に用意していたからだ。[3]

 これに対して、韓国は成功的に現地人を避難させたという評価を受けている。軍の輸送機を動員して緻密に計画を立て、米国の協力のおかげで韓国行き希望者を全員移送することに成功した。これまでアフガニスタンで韓国政府と協力してきた現地人職員と家族、未成年の子どもと両親ら378人がパキスタンのイスラマバードから同日午後、韓国の仁川(インチョン)国際空港に到着する。

 韓国・外交部当局者は前日、テレビ電話形式のリモートブリーフィングで「希望する人は全員出国した」とし、国内残留や第3国行きを決定した人を除けば、当初政府が計画した全人員を移送したと明らかにした。

 “ミラクル”という作戦名にふさわしく、成功的な移送という評価を受けている。米国のウェンディ・ルース・シャーマン国務副長官が22日の会議で解決策を提示した。米国が取引しているアフガニスタンのバス会社に協力者を乗せ、そのバスを米軍とタリバンが一緒に守っている検問所を通過させようというのだ。

 タリバン基地を通過する際には必ず米軍の承認が必要だが、米軍はタリバンと撤収と関連して「米軍が承認する人員に対しては撤収してもいい」という約定を結んだ。この約定により、バス6台に分乗した韓国行きの協力者らは検問所を通過することができた。

 協力者も大使館や病院、KOICA(韓国国際協力団)など自分の属する機関別に十分な連絡網を維持し、一糸乱れず動いたことが移送に役立った。米国・防総省合同参謀本部のハンク・テイラー少将は同日、国防総省とのブリーフィングで韓国政府がアフガニスタン事業再建に協力した助力者を国内に受け入れることにしたことに対し、感謝の意を表した。

韓国と同等以上にアメリカとは親密なはずの日本が、なぜ同じことをできなかったのか。そもそも、そうした手段を用意するという発想自体がなかったのではないか。

また、現地大使館の動きの違いも大きかった。[4]

退避後に戻った韓国の駐アフガン大使館員ら 現地連絡のカギに

韓国の駐アフガニスタン大使館の外交官らは、タリバンがカブールに侵入した直後、いったんカタールに撤収している。しかし、今回の現地職員らの移送支援のため、外交官ら4人が22日に再びカブールに戻った。現地職員らとの連絡やバスの手配など、韓国政府は彼らの早期投入が「何より重要だった」と評価している。

「必ず助ける」との約束通りカブールに戻り、同僚の現地職員と抱き合って涙するキム・イルウン公使参事官の姿は韓国メディアに大々的に伝えられた。キム公使参事官は帰国後のインタビューで「空港に行く途中でタリバンにバスを止められ、14~15時間、閉じ込められた」「全員を連れて帰ることができ、国家の品格と責任を示せた」などと振り返った。

一方で、現地の大使館員が国外退避した状態の日本のオペレーションが、より困難なものになったことは想像に難くない。

民間人や現地人スタッフを置き去りにして逃げた外交官らの姿に、入植者を見捨てて軍と満鉄関係者が真っ先に逃げた敗戦時の旧満州を連想した人も多いだろう。実際、戦後もこの官尊民卑の体質は変わっていないのではないか。

作戦が失敗したのは自衛隊の行動が制約されていたからではない

なお、今回の失態をネタに、法的に自衛隊の行動が制約されているせいだとか、果ては憲法9条のせいだとか言う者たちがいるが、そんな問題ではない。仮に自衛隊が自由に武器を使用できたら数百人の対象者を装甲車にでも乗せて空港に連れてこれたのか? そんなことはタリバンが認めないだろうし、では交戦して強行突破するのか?

できるわけがないし、韓国軍だって今回武器など使用してはいない。

アフガン人職員本人は退避させてもいいが家族は認めないという非情

さて、これだけでも十分ひどいが、実はさらにひどい話がある。日本政府は、自衛隊機による退避の対象にNPOなど民間組織のアフガン人職員も加えていたが、対象は職員本人だけで、家族は認めない方針だったというのだ。

これでは、仮に退避作戦がうまくいっていたとしても、民間組織のアフガン人職員はほとんど退避できなかっただろう。

助かりたければ家族を捨ててこいと言うのも同然で、よくもまあこんな非人道的な発想ができるものである。この国はいったい何なのか。呆れるほかない。

[1] 『自衛隊機、アフガニスタン人14人運ぶ 旧政権関係者ら』 朝日新聞 2021/8/28
[2] 『邦人1人、アフガン人14人輸送 退避対象最大500人残る』 東京新聞 2021/8/29
[3] 『日本、アフガニスタンに輸送機を送ったものの1人も移送できず…韓国は希望者全員を移送=韓国報道』 Yahoo!ニュース 2021/8/26
[4] 『明暗分かれた日韓のアフガン退避作戦 なぜ』 日テレNEWS24 2021/8/29

 

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宮城事件を引き起こした若手陸軍将校たちのその後

映画『日本のいちばん長い日』でも描かれた「宮城事件」は、1945年8月14日の深夜から翌朝にかけて、日本の無条件降伏阻止を目的として陸軍の一部若手将校が起こしたクーデター未遂事件である。

この事件の首謀者と言えるのは、当時陸軍省軍務局軍務課に所属していた以下の4名だ。

  • 井田正孝中佐
  • 竹下正彦中佐
  • 椎崎二郎中佐
  • 畑中健二少佐

このうち、椎崎と畑中の二名はクーデターに失敗したあと皇居前広場で自決しているので「その後」はない。

では、井田と竹下はどうしたのか。

井田は自刃した阿南陸相の後を追って死ぬつもりだったが、見張りの将校に止められて自決を断念したという。このときの状況を、半藤一利は次のように描写している。[1]

 井田中佐が自決するということは荒尾軍事課長にはわかっていた。課長はもっとも崇敬する阿南陸相の遺志にそむくことを部下に許すわけにはいかないと思った。そこで、井田中佐に見張りをつけることにした。

 井田中佐が死のうとしたとき、その見張りの酒井少佐がとびこんできて、「死ぬのなら私を殺してからにして下さい」といった。中佐は生きることも死ぬこともできず、絶望の涙を流した。見張りの少佐も同じであった。二人はにらみあったまま、まんじりともせず夜を明かした。

一時の激情が冷めた後は、もう死ぬ気などなくなったのだろう。敗戦後は「鬼畜」と宣伝していたはずの在日米軍の戦史課に勤務して給料をもらい、その後は「あの」電通に入社して総務部長や関連会社の常務などを勤めている。その上、戦後も一貫して本土決戦をすべきだったと主張していたというのだから呆れるほかない。[2]

竹下のほうは、1952年に自衛隊の前身である警察予備隊に入隊し、陸上幕僚監部第5部副部長、第4師団長、陸上自衛隊幹部学校長等を歴任し、陸将にまで出世している。しかも、「われわれの愛する旧陸軍は、有史未曾有の大戦争を闘って敗れはしたものの、今再び起ち上がらんとしている」と言い、幹部学校の教育方針を米軍式ではなく旧軍式との折衷方式にしたという。[3]

そんなことをやっているから自衛隊には旧軍由来の陰湿ないじめ体質がはびこり続け、こういう事件を引き起こす結果になっているのではないのか。同じ部屋で寝起きする上級生が下級生を「指導する」などといのうのは、古年兵が新兵をいじめ抜いた旧軍の内務班と同じだろう。

東京新聞(2018/3/18):

防衛大、下級生いじめまん延

 反省文を百枚書かされ、体毛に火を付けられるー。防衛大学校(神奈川県横須賀市)を退学した男性(24)が、当時の上級生ら八人に損害賠償を求めた訴訟で、学内にまん延する陰湿ないじめの実態が明らかになった。(略)

 防衛大では全員が学生舎に住み、同じ部屋の上級生が下級生を指導する。男性は二〇一三年四月に入学。指導の名目で上級生に暴行やいじめを受けて体調を崩し、一五年三月に退学した。被告八人のうち七人は現在、自衛隊の幹部になっている。

 男性の弁護団によると、防衛大の内部調査などで▽食べきれない量の食べ物や、固いままのカップ麺を食べさせる▽風俗店に行き、女性と写真を撮るよう強要する▽原稿用紙百枚に反省文を書かせ、ノート一冊を「ごめんなさい」で埋め尽くさせる▽机を荒らすーといった下級生へのいじめが確認された。

だいたい、宮城事件というのは、森赳近衛第一師団長を殺害しておいて、その師団長名で偽命令を発し、近衛師団を動かして宮城を占拠し、天皇を翻意させて降伏を阻止しようとした重大事件である。ことの重大さから言えば2.26事件と同等、あるいはそれ以上とも言える。

にもかかわらず、この首謀者らは、井田がわずか一ヶ月の謹慎処分とされた以外、何の処罰も受けていない。

敗戦後の混乱でその余裕がなかったのか?

そんなことはない。帝国日本は一日で瓦解したわけではない。実際、敗戦後も治安維持法はそのまま、特高警察も活動を続け、思想犯・政治犯は刑務所で虐待され続けていた。その一人である哲学者の三木清は玉音放送から一ヶ月以上も経った9月26日に獄死している。

彼らが処罰されなかったのは、戦後の日本政府にその意志がなかったからだろう。そして、こうした悪質な旧軍の残党を放置し、よりによって自衛隊の中枢に入り込むようなことを許してきたことが、戦後日本を腐らせる遅効性の毒として作用し続けたのだ。


[1] 半藤一利 『日本のいちばん長い日 決定版』 文春文庫 2006年 P.354
[2] Wikipedia「井田正孝
[3] Wikipedia「竹下正彦

三島由紀夫を美化する風潮にうんざり

先日TLに流れてきたツイート。

本当にそのとおりで、没後50年だか何だか知らないが、三島を妙に美化しようとする風潮にはうんざりさせられる。

三島由紀夫とは、一言で言ってしまえば、右翼思想をこじらせたあげくに自衛隊を扇動して反動クーデターを起こすという妄想に取り憑かれ、監禁立てこもり事件を起こして自殺した一人の愚かな男に過ぎない。しかも、若者一人を自分の死の道連れにし、さらに他の三人にも嘱託殺人などの重罪を犯させている。

三島がなぜこんな事件を起こしたのかは、本人が自衛隊を動かそうとして書いた檄文[1]を読めばわかる。

 われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。(略)自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によつて、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。

 四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲つた大本を正すといふ使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。

(略)

 われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主々義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。

三島は自衛隊を旧皇軍と同じようなものにし、その軍事力を使ってこの国を旧帝国同様の天皇教カルト国家に変えたかったわけだ。ほぼ一貫して利権政党・自民党が政権を握り続けた戦後日本が欺瞞に満ちた国だった(今もそうである)ことは事実だが、それに挑戦しようという三島のビジョンが単なる戦前回帰というのだから、その「志」のレベルの低さは目もあてられない。

戦前戦後の激変期をリアルタイムに生きながら、三島は何がこの国を腐らせてきた宿痾なのかを見抜けず、逆にその宿痾にすがって命を捨ててしまった。

哀れなものだ。

 

[1] 『三島由紀夫の檄文 「敢てこの挙に出たのは自衛隊を愛するが故」』 産経ニュース 2015/11/22

 

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【首里城焼失】悲劇に沈む沖縄をフェイクでバッシングする右派とは何なのか

毎度のことだが、沖縄のこととなると、右派はこういうミスリーディングを仕掛けてくる。

■ 県が要請しなかったせいで消火に陸自ヘリが使われなかった?

これだけ読むと、あたかも沖縄県が自衛隊に派遣を要請しなかったためにヘリが投入されず、消火活動に支障をきたしたみたいだが、実際にはそんな状況ではなかった。

www.sankei.com

 消火活動を心配そうに見守った住民からは「なぜ自衛隊のヘリコプターを使わないのか」と不満の声も上がった。平成23年の東京電力福島第1原発の際には、陸上自衛隊のCH47大型ヘリコプターが上空から海水を投下している。那覇市には陸自第15旅団が駐屯し、CH47も配備しているだけに、これを活用できなかったのかというわけだ。
 陸自ヘリが消火活動に参加するためには沖縄県が災害派遣要請を行う必要があるが、県防災危機管理課は要請を検討しなかったという。担当者は「ヘリでの消火活動は数トンの重さの水を落とすので、周辺への影響もある。都市部ではヘリによる消火活動はできない」と説明する。
 15旅団も同様の理由で、CH47を派遣を検討はしなかったという。陸自幹部は「水を運ぶバケットはフックをかけるだけで、固定しているわけではない。これが外れて周辺市街地に落下するリスクがある」と語る。ヘリによる消火活動が有効なのは、福島第1原発事故のようなケースや森林火災などに限られるという。

陸自自身が認めているとおり、今回のような都市部での火災に陸自ヘリは使えない。県が派遣を要請しなかったのは当然のことに過ぎない。

きちんと記事本文を読めばわかるのだが、ツイートだけ読んでもそれは分からない。しかしウヨは本文など読まず、脊髄反射で噴き上がる。右派週刊誌が記事の内容とは大きくずれた扇情的見出しをつけて、それが電車内の中吊り広告となって発行部数をはるかに上回る影響力を発揮するのと同じ手口だ。

■ 首里城が燃えているというのに玉城知事は韓国に行った?

こちらは一見ニュースサイト風のネトウヨまとめサイト「Share News Japan」。まるで首里城が燃えている最中に玉城知事が観光セールスのため韓国に出かけたかのように誤解させる記事を載せている。タイトルだけでなく記事の中身もそうなのだから、こちらはさらに悪質だ。

snjpn.net

沖縄県経済界が訪韓ミッションツアー 玉城知事もトップセールスへ

(略)

▼関連ニュース

玉城デニー プロフィール

(略)

twitterの反応

(略)

▼ネット上のコメント

・首里城より韓国‼️

・貴重な観光資源の消失を目にしてもお出かけですかい(-_-;)

・与党がこれやったら首里城燃えたのに?って散々叩かれるのにな

・世界遺産が燃えてるんやで?

・観光の柱とも言える首里城が無くなってる今韓国になんて言ってる場合じゃないだろう。

・いつから外相になったの?

・タイミング悪すぎだろ

記事をよーく読めば、知事が韓国に出かけたのは「火災発生の前日」であることは分かるようになっているのだが、もちろんウヨはそんな細かいことには気が付かないし、記事もそれを見越して書かれている。

だいたい、このタイミングで玉城知事が訪韓したのは、安倍政権の韓国敵視政策のとばっちりで韓国から沖縄を訪れる観光客まで減ってしまったことへの対策のためではないか。

トップの安倍から末端のネトウヨまで、この国のウヨはクズ揃いと言うしかない。

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観光コースでない沖縄―戦跡・基地・産業・自然・先島

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【沖縄戦】島民の命の恩人を一家皆殺しにした日本軍【住民虐殺】

最後まで降伏しなかった軍司令官がもたらした悲劇

前回記事で、沖縄の慰霊の日である23日、自衛官約30名が第32軍司令官牛島満中将らを祀った「黎明の塔」に「自主参拝」した問題を取り上げた。

しかし、この牛島司令官は、決して沖縄戦を最後まで戦った「悲劇の司令官」などと評して良い人物ではない。

第一に、米軍が首里城の守備軍司令部の目前まで迫って来たとき、牛島はここで最後の決戦を挑むのではなく、南部に撤退してなおも抗戦を続ける道を選んだ。これは、「軍は残存兵力をもって(略)の線以南喜屋武きやん半島地区を占領し、努めて多くの敵兵力を牽制抑留するとともに、出血を強要し、もって国軍全般作戦に最後の寄与をする」という、沖縄を捨て石として本土決戦準備の時間を稼ぐ作戦だった[1]。この結果、本来なら戦場とはならないはずだった本島南部が軍民混在の地獄の戦場と化し、住民に膨大な犠牲者を生んだ。

第二に、守備軍が本島南端の摩文仁の丘にまで追い詰められ、軍司令部自体が陥落寸前となっても牛島は降伏を拒否し、「爾今じこん各部隊は各局地における生存者中の上級者之これを指揮し最後迄まで敢闘し悠久の大義に生くべし」という最後の軍命令を発して自決した[2]。

本来、軍司令官には、組織的戦闘の手段が尽きれば降伏して生き残った将兵と住民の命を守る責任があるのだが、牛島はこの責任を果たさず、全員死ぬまで戦えと命じたのだ。この結果、敗残兵の集団に等しい日本軍残存部隊が各地で住民に危害を加えるという悲劇が生じた。

久米島住民の命の恩人を日本軍が虐殺

そうした悲劇の典型例を、那覇から西へおよそ90Kmの離島、久米島に見ることができる。

琉球新報(6/22):

「戦争終わったよ」投降を呼び掛けた命の恩人は日本兵に殺された 沖縄・久米島での住民虐殺

 

 【東京】沖縄戦で本島における日本軍の組織的戦闘の終了後、久米島に配備されていた日本軍にスパイ容疑で虐殺された仲村渠明勇さんに命を救われた少年がいた。現在、東京都練馬区で暮らす渡嘉敷一郎さん(80)だ。渡嘉敷さんは久米島に上陸した米軍に捕らわれるのを恐れて池に飛び込んで命を絶とうとしたところ、仲村渠さんの呼び掛けで思いとどまった。(略)本紙に体験を語るのは初めてで「一番怖かったのは日本兵だった」と振り返る。

(略)

 渡嘉敷さんは「明勇さんは案内人として米軍に連れてこられていた。村人が隠れているところを回って、投降を説得するのが役割だった。明勇さんに命を助けられた。島の人にとっては恩人。それを、逃げるところを後ろから日本刀で切って殺されたと聞いた」と悔しそうな表情を浮かべた。

仲村渠なかんだかりさんは久米島出身の現地招集兵で、南部戦線で捕虜となっていた。米軍が久米島上陸作戦にあたって住民に投降を呼びかける協力者を募ったとき、20名ほどいた島出身捕虜がみな日本兵にスパイとして殺されるのを恐れて尻込みする中、仲村渠さん一人だけが応じたという。以下、大城将保『沖縄戦の真実と歪曲』から適宜引用・要約する。[3]

 (略)協力者がいなければ米軍は巡洋艦三隻で艦砲射撃をしてから上陸する計画だと聞いて、仲村渠明勇という具志川村西銘にしめの捕虜が名乗り出た。

 (略)彼は、米軍に協力することがどんなに危険なことか知らないわけではなかったが、生まれ島が猛烈な艦砲射撃の標的にされることを座視することはできなかった。「島にはわずかばかりの海軍部隊しかいない、あとは一万余の住民だけだ、自分が同行して道案内するから艦砲射撃をやめてもらいたい」と懇願した。米軍将校は「あなたが案内して上陸させるなら艦砲射撃は中止してもよい」と約束した。

 六月二六日、米軍は銭田海岸に無血上陸した。生まれ島に上陸した仲村渠さんは、住民の避難壕をまわって、米軍は抵抗しない民間人は殺さないから安心して下山するように説得した。

仲村渠さんが米軍に協力しなければ久米島は艦砲射撃により粉砕されていたわけで、彼は、渡嘉敷少年のような個別の例だけでなく、久米島住民全員の命の恩人と言える。(実際、久米島の隣にある小島の粟国あぐに島では、米軍上陸前の砲爆撃で住民56名が死亡している。)

しかし、久米島に駐屯していた海軍見張隊(指揮官:鹿山正兵曹長)は、この仲村渠さんを妻子もろとも虐殺してしまった。

 仲村渠さんは久米島上陸以来、昼間は米軍に協力して避難民の救出活動を続ける一方、夜は米軍の許可のもとで人里離れたスイカ畑の番小屋に、妻と男の子といっしょに隠れるようにして住んでいた。(略)自分もスパイ容疑で狙われているらしいことは知っていたので、外歩きのときは蓑笠で顔をかくして見張隊の目につかないように用心はしていたが、八月一五日、日本の無条件降伏の情報が伝わってきてからは緊張がゆるんだのか、同月一八日の夜間、近くの浜で夜釣りをして隠れ家に帰ってきたところを友軍兵に取り囲まれてしまった。兵隊たちは仲村渠さんの左脇腹を銃剣で刺して殺し、近くのアダン林に逃げ込もうとした妻と幼児の後を追って刺殺、三人の死体を屋内に引きずりこんでから小屋を焼き払った。

海軍見張隊はわずか35名。武器は軽機関銃と小銃程度で、敵である米軍には何もできない一方、丸腰の住民に対しては生殺与奪の権を握っていた。この鹿山隊に虐殺された住民は、仲村渠さん一家だけではない。

安里正次郎さん(久米島郵便局電話保守係):米軍に捕まって鹿山隊への降伏勧告状を届けるように命ぜられ、これを見張隊陣地に届けたところ、鹿山隊長に射殺された。

 (略)鹿山隊長は「敵の手先になってこんなものを持ってくるからには覚悟はできているだろうな」と怒鳴って、その場で自分からピストルで安里さんを撃ち、一発では即死しないので部下に命じて両側から銃剣でとどめを刺した。

 安里さんには島出身の内縁の妻がいたが、夫がスパイ容疑で射殺されたと知らされて恐怖のあまり家をとびだして山田川に身を投げて自殺した。彼女の母親もショックを起こして寝込んでしまい、間もなく亡くなった。二人とも鹿山隊長が殺したようなものだと近親者は嘆いた。

北原区民9人の集団虐殺:米軍に捕まったのち島に帰された区民2人と、この2人を鹿山隊に引き渡さなかった関係者7名を虐殺。

 (略)二人が帰島したのは米軍上陸の混乱のさなかであり、二人を部隊陣地まで連れて行くのは不可能な状況であった。だが鹿山隊長は、拉致されて帰島した二人は敵側スパイと断定し、二人を部隊に引致せずに放置した北原区警防班長ほかの関係者を、軍命に違反した者として処刑すべく部下の軍曹に命じた。六月二九日夜半、軍曹は一〇名ほどの部下を率いて北原区に降りていき、拉致被害者二人と区長、警防団班長、被害者の近親者など九人を一軒の民家に集め、針金で手足をしばり目隠ししておいて、一人ずつ銃剣で刺し殺したあげく、民家に火をつけて引き揚げていった。この光景を目撃した一区民は沖教組の調査チームに次のように証言している。

 「私たちは、敵の米軍より、味方であるべき日本軍が怖く、焼死体を埋葬することもできず、一カ月近くもそのまま放置していました。海岸の米軍と、山の日本軍にはさまれ、鍾乳洞の奥深くに隠れていましたが、洞窟の中で餓死する者もあり、病死する者もいた。全く悪夢のようなホラ穴生活でした。思い出すだけで身の毛が立つような思いです」

朝鮮人行商人一家を衆人環視の中で虐殺。

 最後に、谷川昇(注:通名)という朝鮮釜山プサン出身の行商人の一家八人が衆人環視の中で虐殺された。

 谷川さん一家がなぜ虐殺されたのか理由は明らかでない。行商で各民家や避難所を訪ね歩くのでスパイの濡れ衣を着せられたのか、あるいは朝鮮人というだけで日本への忠誠心を疑われたのか、あるいはただ島人たちへの見せしめのために最も弱い立場の一家を血祭りにあげたのか。ともかく、正当な理由もなく、罪もない女性や子どもたちまでが斬殺、刺殺という残酷な手段で集団的に殺されたということが、「虐殺」といわれるゆえんである。

 当時の警防団員で現場を目撃した人が次のように証言している。

 「八月二〇日、こうこうと明るい月夜の晩でした。村民に変装した日本兵一〇名位で護岸の上から谷川昇の死体を投げ捨て、その後一人の兵隊が小さな子どもを抱えて来て父親の死体のそばに投げ落としました。子どもは父の死体にしがみついてワーワー泣きくずれていましたが、その子を軍刀で何回も何回も切り刻んでいました。私は怖くて足もぶるぶるふるえました。日本軍から「見せしめだ、ほっておけ」とも言われるし、「あとで死体を片づけよ」とも命じられたので、私たち警防団員は涙をすすりながら、海岸に穴を掘って埋めました。あの時の子どもの断末魔の泣き声は、今も耳に残っているようです

反省のかけらもない旧軍人たち

多数の久米島住民を、米軍に接触したというだけの理由でスパイと決め付けて殺した鹿山隊は、仲村渠さんや谷川さんらの虐殺から三週間も経たない9月7日、米軍に降伏した。

それから四半世紀後の1972年、鹿山元隊長自身が当時の心境を次のように語っている。

 それから四半世紀が過ぎた。一九七二(昭和四七)年三月から四月にかけて、日本復帰を目前にひかえた沖縄では、久米島住民虐殺事件の記憶が生なましくよみがえり、沖縄返還協定の内容に怒りをつのらせていたが、思いがけず、県民の怒りにますます油を注ぐような出来事が表面化した。

 本土の新聞やテレビが鹿山元隊長の居所を探しあて、久米島虐殺事件の責任者にじかに責任追及を行ったのである。鹿山元隊長は健在だった。新聞やテレビの追及にも悪びれる風もなく、むしろ軍人の矜持を態度に表して、過去の事実関係や現在の心境を語った。

 「島は小さかったが食糧はあった。言葉は琉球語であるが、日本教育を受けているので不自由はしなかった。那覇は知らんが、久米島は離島で一植民地である

 「一万の島民が米側についたらわれわれはひとたまりもないから、島民の忠誠心をゆるぎないものにし、島民を掌握するために、わしは断固たる措置をとったのだ」

 「これまで報道された事件のあらましはほとんど間違いないが、私は日本軍人として戦争に参加し、米軍が進駐した場合、軍人も国民も、たとえ竹槍であっても、うって一丸となって国を守るのだという信念、国の方針で戦争をやってきた。だから敵に好意を寄せるものには断固たる措置をとるという信念でやった」

 鹿山元隊長の弁明は全国ネットのニュース特集番組「久米島大量処刑事件・二七年目の対決」というタイトルで全国に放映された。鹿山正元海軍兵曹長は「わしは悪いことをしたとは考えてないから、良心の呵責もないよ」「日本軍人として当然のことをやったのであり、軍人としての誇りを持っていますよ」と軍隊口調で平然と語っていた。

(略)

 二七年後に鹿山元隊長の弁明を聞いた久米島の関係者は、腹わたの煮えくり返る思いでいく晩も眠れぬ夜を過ごしたという。関係者に限らず、多くの県民が久米島事件のマスコミ報道に触発されて、目前に迫った自衛隊の沖縄配備と重ねあわせて、反軍・反自衛隊感情をつのらせたであろうことはいうまでもない。

 七二年二月の那覇港への自衛隊上陸の場面で、抗議団の人々が「自衛隊は帰れ!日本軍は帰れ!」と叫んだ背景には、久米島住民虐殺事件と類似した数百件もの戦場の惨劇を体験した人たちの、心の深層に今なお疼く戦場の記憶がマグマのように煮えたぎっていたのである。

「米軍が進駐した場合、軍人も国民も、たとえ竹槍であっても、うって一丸となって国を守るのだという信念」で島民の虐殺を命じていたという鹿山隊長自身は、ではなぜその米軍に最後の突撃を行うこともなく、降伏して命を長らえたのか。

敗戦後、旧軍人の大半は、この鹿山元隊長同様、何ら反省することもなく自らの行為を正当化した。そして日本社会は、彼らを自分たちの手で裁くどころか、こうした旧軍人を中枢に据えて自衛隊が組織されるのを許してきた。

いま、旧軍を否定しない、反省なきその自衛隊が、宮古・八重山に続々と新基地を建設し、ふたたび沖縄を「本土」防衛の盾として要塞化しつつある。

[1] 大城将保 『改訂版 沖縄戦  ― 民衆の眼でとらえる「戦争」』 高文研 1988年 P.134
[2] 同 P.142
[3] 大城将保 『沖縄戦の真実と歪曲』 高文研 2007年 P.127-137

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【慰霊の日】自衛官が行くべき場所はそこではない

慰霊の日の23日早朝、沖縄に駐留する陸上自衛隊の自衛官有志が、平和祈念公園を訪れた。

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 一行は午前5時前、ほぼ真っ暗の摩文仁(まぶに)の高台に現れ、まず「黎明(れいめい)之塔」に隊員たちが一人一人花を手向けて礼をした。続けて、一般戦没者を追悼する「しづたまの碑」や、殉職した県職員らを悼む「島守之塔」などを次々と参拝。日が昇る前の園内を一言も発さずに歩き回り、午前5時20分ごろに解散して立ち去った。

(略)

 黎明之塔は、沖縄戦を戦った日本陸軍第32軍の司令官・牛島満中将らをまつった慰霊碑。戦いに殉じた指揮官である一方、降伏せずに司令部を首里(那覇市)から南部に撤退させて住民を巻き込んだ持久戦を続けたため、住民の犠牲が増えたとの批判もある。(角詠之、上遠野郷)

いくつかの慰霊碑に参拝したというが、高々30分程度の滞在の中で「黎明之塔」にだけは30人ほどの自衛官一人一人が花を手向けたというのだから、ここがメインで他は付け足しだろう。

牛島司令官らを祀った碑に花を手向けて彼らが何を祈ったのかは知らないが、少なくとも、この日に自衛官という立場の人間が行くべき場所は、そこではない。

摩文仁の丘とその周辺であれば、まずは戦後、付近に散乱していた3万5千柱余りの遺骨を生き残った住民が拾い集めて建立した「魂魄こんぱくの塔」、また後に各地の納骨堂や慰霊碑から遺骨を移し、18万柱余りを納めている「沖縄戦没者墓苑」だろう。

慰霊の日、魂魄の塔に手を合わせる人々
(撮影者:Lequios-star CC 表示-継承 4.0

そして、沖縄を捨て石とした愚かな戦争指導者たちのせいで悲惨な死を遂げた人々の霊前に跪き、二度と住民を戦火に巻き込まないことを誓うべきだ。

それができないなら、沖縄に自衛隊の居場所はない。

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