最後まで降伏しなかった軍司令官がもたらした悲劇
前回記事で、沖縄の慰霊の日である23日、自衛官約30名が第32軍司令官牛島満中将らを祀った「黎明の塔」に「自主参拝」した問題を取り上げた。
しかし、この牛島司令官は、決して沖縄戦を最後まで戦った「悲劇の司令官」などと評して良い人物ではない。
第一に、米軍が首里城の守備軍司令部の目前まで迫って来たとき、牛島はここで最後の決戦を挑むのではなく、南部に撤退してなおも抗戦を続ける道を選んだ。これは、「軍は残存兵力をもって(略)の線以南喜屋武きやん半島地区を占領し、努めて多くの敵兵力を牽制抑留するとともに、出血を強要し、もって国軍全般作戦に最後の寄与をする」という、沖縄を捨て石として本土決戦準備の時間を稼ぐ作戦だった[1]。この結果、本来なら戦場とはならないはずだった本島南部が軍民混在の地獄の戦場と化し、住民に膨大な犠牲者を生んだ。
第二に、守備軍が本島南端の摩文仁の丘にまで追い詰められ、軍司令部自体が陥落寸前となっても牛島は降伏を拒否し、「爾今じこん各部隊は各局地における生存者中の上級者之これを指揮し最後迄まで敢闘し悠久の大義に生くべし」という最後の軍命令を発して自決した[2]。
本来、軍司令官には、組織的戦闘の手段が尽きれば降伏して生き残った将兵と住民の命を守る責任があるのだが、牛島はこの責任を果たさず、全員死ぬまで戦えと命じたのだ。この結果、敗残兵の集団に等しい日本軍残存部隊が各地で住民に危害を加えるという悲劇が生じた。
久米島住民の命の恩人を日本軍が虐殺
そうした悲劇の典型例を、那覇から西へおよそ90Kmの離島、久米島に見ることができる。
琉球新報(6/22):
「戦争終わったよ」投降を呼び掛けた命の恩人は日本兵に殺された 沖縄・久米島での住民虐殺
【東京】沖縄戦で本島における日本軍の組織的戦闘の終了後、久米島に配備されていた日本軍にスパイ容疑で虐殺された仲村渠明勇さんに命を救われた少年がいた。現在、東京都練馬区で暮らす渡嘉敷一郎さん(80)だ。渡嘉敷さんは久米島に上陸した米軍に捕らわれるのを恐れて池に飛び込んで命を絶とうとしたところ、仲村渠さんの呼び掛けで思いとどまった。(略)本紙に体験を語るのは初めてで「一番怖かったのは日本兵だった」と振り返る。
(略)
渡嘉敷さんは「明勇さんは案内人として米軍に連れてこられていた。村人が隠れているところを回って、投降を説得するのが役割だった。明勇さんに命を助けられた。島の人にとっては恩人。それを、逃げるところを後ろから日本刀で切って殺されたと聞いた」と悔しそうな表情を浮かべた。
仲村渠なかんだかりさんは久米島出身の現地招集兵で、南部戦線で捕虜となっていた。米軍が久米島上陸作戦にあたって住民に投降を呼びかける協力者を募ったとき、20名ほどいた島出身捕虜がみな日本兵にスパイとして殺されるのを恐れて尻込みする中、仲村渠さん一人だけが応じたという。以下、大城将保『沖縄戦の真実と歪曲』から適宜引用・要約する。[3]
(略)協力者がいなければ米軍は巡洋艦三隻で艦砲射撃をしてから上陸する計画だと聞いて、仲村渠明勇という具志川村西銘にしめの捕虜が名乗り出た。
(略)彼は、米軍に協力することがどんなに危険なことか知らないわけではなかったが、生まれ島が猛烈な艦砲射撃の標的にされることを座視することはできなかった。「島にはわずかばかりの海軍部隊しかいない、あとは一万余の住民だけだ、自分が同行して道案内するから艦砲射撃をやめてもらいたい」と懇願した。米軍将校は「あなたが案内して上陸させるなら艦砲射撃は中止してもよい」と約束した。
六月二六日、米軍は銭田海岸に無血上陸した。生まれ島に上陸した仲村渠さんは、住民の避難壕をまわって、米軍は抵抗しない民間人は殺さないから安心して下山するように説得した。
仲村渠さんが米軍に協力しなければ久米島は艦砲射撃により粉砕されていたわけで、彼は、渡嘉敷少年のような個別の例だけでなく、久米島住民全員の命の恩人と言える。(実際、久米島の隣にある小島の粟国あぐに島では、米軍上陸前の砲爆撃で住民56名が死亡している。)
しかし、久米島に駐屯していた海軍見張隊(指揮官:鹿山正兵曹長)は、この仲村渠さんを妻子もろとも虐殺してしまった。
仲村渠さんは久米島上陸以来、昼間は米軍に協力して避難民の救出活動を続ける一方、夜は米軍の許可のもとで人里離れたスイカ畑の番小屋に、妻と男の子といっしょに隠れるようにして住んでいた。(略)自分もスパイ容疑で狙われているらしいことは知っていたので、外歩きのときは蓑笠で顔をかくして見張隊の目につかないように用心はしていたが、八月一五日、日本の無条件降伏の情報が伝わってきてからは緊張がゆるんだのか、同月一八日の夜間、近くの浜で夜釣りをして隠れ家に帰ってきたところを友軍兵に取り囲まれてしまった。兵隊たちは仲村渠さんの左脇腹を銃剣で刺して殺し、近くのアダン林に逃げ込もうとした妻と幼児の後を追って刺殺、三人の死体を屋内に引きずりこんでから小屋を焼き払った。
海軍見張隊はわずか35名。武器は軽機関銃と小銃程度で、敵である米軍には何もできない一方、丸腰の住民に対しては生殺与奪の権を握っていた。この鹿山隊に虐殺された住民は、仲村渠さん一家だけではない。
安里正次郎さん(久米島郵便局電話保守係):米軍に捕まって鹿山隊への降伏勧告状を届けるように命ぜられ、これを見張隊陣地に届けたところ、鹿山隊長に射殺された。
(略)鹿山隊長は「敵の手先になってこんなものを持ってくるからには覚悟はできているだろうな」と怒鳴って、その場で自分からピストルで安里さんを撃ち、一発では即死しないので部下に命じて両側から銃剣でとどめを刺した。
安里さんには島出身の内縁の妻がいたが、夫がスパイ容疑で射殺されたと知らされて恐怖のあまり家をとびだして山田川に身を投げて自殺した。彼女の母親もショックを起こして寝込んでしまい、間もなく亡くなった。二人とも鹿山隊長が殺したようなものだと近親者は嘆いた。
北原区民9人の集団虐殺:米軍に捕まったのち島に帰された区民2人と、この2人を鹿山隊に引き渡さなかった関係者7名を虐殺。
(略)二人が帰島したのは米軍上陸の混乱のさなかであり、二人を部隊陣地まで連れて行くのは不可能な状況であった。だが鹿山隊長は、拉致されて帰島した二人は敵側スパイと断定し、二人を部隊に引致せずに放置した北原区警防班長ほかの関係者を、軍命に違反した者として処刑すべく部下の軍曹に命じた。六月二九日夜半、軍曹は一〇名ほどの部下を率いて北原区に降りていき、拉致被害者二人と区長、警防団班長、被害者の近親者など九人を一軒の民家に集め、針金で手足をしばり目隠ししておいて、一人ずつ銃剣で刺し殺したあげく、民家に火をつけて引き揚げていった。この光景を目撃した一区民は沖教組の調査チームに次のように証言している。
「私たちは、敵の米軍より、味方であるべき日本軍が怖く、焼死体を埋葬することもできず、一カ月近くもそのまま放置していました。海岸の米軍と、山の日本軍にはさまれ、鍾乳洞の奥深くに隠れていましたが、洞窟の中で餓死する者もあり、病死する者もいた。全く悪夢のようなホラ穴生活でした。思い出すだけで身の毛が立つような思いです」
朝鮮人行商人一家を衆人環視の中で虐殺。
最後に、谷川昇(注:通名)という朝鮮釜山プサン出身の行商人の一家八人が衆人環視の中で虐殺された。
谷川さん一家がなぜ虐殺されたのか理由は明らかでない。行商で各民家や避難所を訪ね歩くのでスパイの濡れ衣を着せられたのか、あるいは朝鮮人というだけで日本への忠誠心を疑われたのか、あるいはただ島人たちへの見せしめのために最も弱い立場の一家を血祭りにあげたのか。ともかく、正当な理由もなく、罪もない女性や子どもたちまでが斬殺、刺殺という残酷な手段で集団的に殺されたということが、「虐殺」といわれるゆえんである。
当時の警防団員で現場を目撃した人が次のように証言している。
「八月二〇日、こうこうと明るい月夜の晩でした。村民に変装した日本兵一〇名位で護岸の上から谷川昇の死体を投げ捨て、その後一人の兵隊が小さな子どもを抱えて来て父親の死体のそばに投げ落としました。子どもは父の死体にしがみついてワーワー泣きくずれていましたが、その子を軍刀で何回も何回も切り刻んでいました。私は怖くて足もぶるぶるふるえました。日本軍から「見せしめだ、ほっておけ」とも言われるし、「あとで死体を片づけよ」とも命じられたので、私たち警防団員は涙をすすりながら、海岸に穴を掘って埋めました。あの時の子どもの断末魔の泣き声は、今も耳に残っているようです」
反省のかけらもない旧軍人たち
多数の久米島住民を、米軍に接触したというだけの理由でスパイと決め付けて殺した鹿山隊は、仲村渠さんや谷川さんらの虐殺から三週間も経たない9月7日、米軍に降伏した。
それから四半世紀後の1972年、鹿山元隊長自身が当時の心境を次のように語っている。
それから四半世紀が過ぎた。一九七二(昭和四七)年三月から四月にかけて、日本復帰を目前にひかえた沖縄では、久米島住民虐殺事件の記憶が生なましくよみがえり、沖縄返還協定の内容に怒りをつのらせていたが、思いがけず、県民の怒りにますます油を注ぐような出来事が表面化した。
本土の新聞やテレビが鹿山元隊長の居所を探しあて、久米島虐殺事件の責任者にじかに責任追及を行ったのである。鹿山元隊長は健在だった。新聞やテレビの追及にも悪びれる風もなく、むしろ軍人の矜持を態度に表して、過去の事実関係や現在の心境を語った。
「島は小さかったが食糧はあった。言葉は琉球語であるが、日本教育を受けているので不自由はしなかった。那覇は知らんが、久米島は離島で一植民地である」
「一万の島民が米側についたらわれわれはひとたまりもないから、島民の忠誠心をゆるぎないものにし、島民を掌握するために、わしは断固たる措置をとったのだ」
「これまで報道された事件のあらましはほとんど間違いないが、私は日本軍人として戦争に参加し、米軍が進駐した場合、軍人も国民も、たとえ竹槍であっても、うって一丸となって国を守るのだという信念、国の方針で戦争をやってきた。だから敵に好意を寄せるものには断固たる措置をとるという信念でやった」
鹿山元隊長の弁明は全国ネットのニュース特集番組「久米島大量処刑事件・二七年目の対決」というタイトルで全国に放映された。鹿山正元海軍兵曹長は「わしは悪いことをしたとは考えてないから、良心の呵責もないよ」「日本軍人として当然のことをやったのであり、軍人としての誇りを持っていますよ」と軍隊口調で平然と語っていた。
(略)
二七年後に鹿山元隊長の弁明を聞いた久米島の関係者は、腹わたの煮えくり返る思いでいく晩も眠れぬ夜を過ごしたという。関係者に限らず、多くの県民が久米島事件のマスコミ報道に触発されて、目前に迫った自衛隊の沖縄配備と重ねあわせて、反軍・反自衛隊感情をつのらせたであろうことはいうまでもない。
七二年二月の那覇港への自衛隊上陸の場面で、抗議団の人々が「自衛隊は帰れ!日本軍は帰れ!」と叫んだ背景には、久米島住民虐殺事件と類似した数百件もの戦場の惨劇を体験した人たちの、心の深層に今なお疼く戦場の記憶がマグマのように煮えたぎっていたのである。
「米軍が進駐した場合、軍人も国民も、たとえ竹槍であっても、うって一丸となって国を守るのだという信念」で島民の虐殺を命じていたという鹿山隊長自身は、ではなぜその米軍に最後の突撃を行うこともなく、降伏して命を長らえたのか。
敗戦後、旧軍人の大半は、この鹿山元隊長同様、何ら反省することもなく自らの行為を正当化した。そして日本社会は、彼らを自分たちの手で裁くどころか、こうした旧軍人を中枢に据えて自衛隊が組織されるのを許してきた。
いま、旧軍を否定しない、反省なきその自衛隊が、宮古・八重山に続々と新基地を建設し、ふたたび沖縄を「本土」防衛の盾として要塞化しつつある。
[1] 大城将保 『改訂版 沖縄戦 ― 民衆の眼でとらえる「戦争」』 高文研 1988年 P.134
[2] 同 P.142
[3] 大城将保 『沖縄戦の真実と歪曲』 高文研 2007年 P.127-137
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