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読む・考える・書く

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「脳死は人の死か」という問いの不適切さ

脳死臓器移植の是非を論じようとするとすぐ出てくるのが、脳死を「人の死」として認めるのかどうか、という問いである。
だが、こういう問いの立て方自体がミスリーディングなのではないだろうか。


私の立場の明確化も兼ねて、一つ思考実験をしてみよう。


事件でも事故でもいいが、あなたの頭が完全に吹き飛ばされてしまい、脳みそは四散、首から上がなくなってしまったとする。今ならもちろん即死だが、医療技術の進歩により、こんな状態でも首から下の体を生かし続けることが可能になったと仮定してみる。
この状態で、あなたは生きているのだろうか、それとも死んでいるのだろうか。


仮にこれが私だったとしたら、脳が消滅(死滅)してしまった以上、私という人格も既に消滅しており、回復することは絶対にない。残された首から下の体は、生物学的には生きている人体であるとしても、私という人間が生きている状態とは認められない。
つまり、私だって脳細胞が死滅してしまった状態としての脳死は人の死として認めるし、もし自分がこのような状態になってしまったとしたら、首なしで体だけ生かし続けられるより臓器移植に役立ててもらいたいと思う。


要するに、問題は脳死が人の死かどうかではなく、いわゆる「脳死」とされている状態が、本当に脳細胞が死滅してしまった状態なのかどうか、なのだ。


脳細胞が死滅してしまったかどうかを直接的に知る手段がない以上、脳死の判定は脳の機能的反応を見る間接的手段に頼らざるを得ず、そこには必然的に不確実さが付きまとう。
脳死」と判定されたからといって、本当に脳が死んでいるとは限らないということだ。
実際、脳死判定後、いざ臓器摘出という段階になって脳死ではないことが判ったケースがいくつもあり、中には臓器摘出を中止して治療を行った結果、意識を回復して退院できたケースさえあるという。
先日の南美江さんのケースは、臓器移植の対象ではないので法的な手順に則った脳死判定が行われたわけではなく、いわゆる臨床的脳死と診断されたのだろうが、臨床的脳死の診断が法的脳死判定の段階で覆されたという話は聞いたことがないし、実際、臨床的脳死判定と法的脳死判定の方法には大きな違いはないのだから、やはり脳死判定が誤っていた実例と考えていいだろう。


もし自分だったらという話に戻ると、脳死判定が本質的な不確実性を抱えており、実際にいくつも誤判定が出ているような状態で自分が「脳死」と判定され、臓器を摘出されるような事態になるのは真っ平ごめんである。
臓器移植のためにはそうすることが必要だというのなら、そんな臓器移植は許されるべきではない。