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読む・考える・書く

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「幸福実現」より「不幸の最小化」

日刊ベリタ経由安原和雄の仏教経済塾「国民総幸福」をめざす国・ブータン

東洋の一角に「最小不幸社会」を国造りの政治理念として掲げている経済大国(?)があると聞く。よほど不幸が社会に蔓延(まんえん)しているのだろう。そうでなければ、この政治スローガンに意味はない。同じ東洋に「国民総幸福」をめざしている小国がある。ほかならぬチベット仏教国・ブータンである。「最小不幸社会」か、それとも「国民総幸福」社会か、そのどちらに魅力を感じるだろうか。
その選択はもちろん人それぞれだが、私なら「国民総幸福」の国造りに賭けてみたい、というよりは軍配を挙げたい。「最小不幸社会」を陰とすれば、「国民総幸福」には陽のイメージがある。国を挙げて「みんなの幸せ」を願って生きる、という前向きの姿勢が素敵ではないか。


私は、「最小不幸社会」というコンセプト自体は悪くないと思う。
むしろ、政治目標として語られる「国民総幸福」の方に極めて胡散臭いものを感じる。


だいたい、政治が人に幸福を与えられるものだろうか?
幸福とは、愛する家族や恋人との関係、友情、仕事や勉学での達成感、深い信仰、といったものによって得られる個人的なものであって、政策として国家が与えられるようなものではない。
政治家が国民を幸福にするなどと言うとき、そこには国民を騙して特定の政策に協力させようとする裏の意図があることを見抜かなければならない。(この国には「幸福実現」を党名に掲げたアホみたいな政党すら存在するわけだが。)


「貧乏は不幸の入り口。政治で人を幸せにすることはできないからこそ、政治は人を不幸にしないためのシステムや制度を作らなければならない」[1] と言われているように、政治がなすべきことは、失業、倒産、病気といったダメージが不幸に直結しないように、また真面目に働いている者が簡単に解雇されて使い捨てにされたりしないように、雇用の安定化や生活サポートを社会的システムとして構築していくことだ。つまり、人を貧困に陥らせないことと、既に貧困にあえいでいる弱者の救済による不幸の最小化である。


だから、私なら「幸福実現」より「不幸の最小化」を選びたい。


ただ、「最小不幸社会」の場合、最大の問題は、管民主党政権に、これを実現させるという確固たる意志もなければ能力も欠けていることだ。
最小不幸社会」を唱えたその同じ口で消費税増税を言い出すようではお話にならない。


[1] 辛淑玉 『霊感かぁ』 「ちいさいなかま」2008年7月号